エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

『岸 リトラル』を観て考えたいくつかのこと。


3月3日(土) @世田谷シアタートラム
『岸 リトラル』
作:ワジディ・ムワワド/翻訳:藤井慎太郎/演出:上村聡史

を、観てきた。


前作観てない、脚本家も演出家も知らない、予備知識ほとんどなし。
きっかけは出演している俳優・鈴木勝大さん。
久しぶりに舞台の勝大さん観たいな~と思っていたところにちょうどこの公演があって、日程的に都合も良かったから東京まで観に行くことにした。


本当に鈴木勝大さんが出ていること以外なにも知らずに行ったけど、観終わって数日経った今もずっと頭から離れないので、忘れない内に感想と考えたことを書いておく。

 

以下、ネタバレ…というか読む人も観劇済という前提で勝手に語ります。

 


物語は、主人公のウィルフリードが、父の死を知るところから始まる。
ウィルフリードは、自分の知らない父を知るために、そして父にふさわしい埋葬場所を探すために、父の屍を背負って旅に出る。


舞台上では、現実と虚構が入り交じる。
自分の人生をまるで映画の撮影のように感じるウィルフリード。
そしてそんなウィルフリードは、起き上がり語り出す父イスマイルの死体と、呼べばすぐに駆けつける老騎士ギロムランと共に旅をする。


今は現実か、それとも虚構か?
ウィルフリードが見て聞いて感じている世界だとすれば、すべてが現実とも言えるし…
そもそもこれは舞台の上でのフィクションなのだから、すべてが虚構とも言えるし…

 

脚本の奥行きもだが、舞台美術や演出もとても"演劇的"で面白かった。

斜めに切り立った崖のような抽象舞台。
一番奥の鋭角になった場所には裂け目のようなビニール。
やがてそのビニールは取り外され、舞台そのものが場面によって様々な表情を見せる。


そして私は「勝大さんはどんな役だろう」と思いながら観に行ったが、幕が開いた直後に黒子として出て来てたいへん驚いた。が、観ている内に合点がいった。
基本的に一人の役者が複数の役を演じ、黒子の役割も果たす。
出てくるたびに違う表情、違う演技、違う人。
どの役者さんも本当に上手で「ああこれさっきは◯◯だった人だな」とわかるけど、違う人として存在していることは明らかで、とても楽しかった。
複数の役を演じ分ける中で逆にその役者さんの個性が浮き彫りになっていく感じも面白い…。

 

視覚的に印象に残ったのは、手紙が舞い散るところと、柔らかな光が降り注ぐところと、海で身体を洗うペインティングの場面。
とくに「柔らかな光が降り注ぐ…」のところは、あまりに美しい光景だったので、なぜか涙が込み上げてきてしまった。吊るされたビニールがキラキラしていて、降り注ぐ光は本当に柔らかくて……………
この場面は父親を求める子供達のそれぞれの告白のあとにあった気がするんだけど、いろいろなものへの「赦しの光」のように思えた。

 


終演後にパンフレットを読んでいて、はっとしたことがある。

中嶋朋子さんが対談の中で触れていた「『岸』という言葉のイメージ」の話。
中嶋さんは「これまで自分が思っていた『岸』と作品が意味する『岸』は違う。死んだお父さんが立っているところかもしれないし、ボーダーラインかもしれない。この戯曲にある言葉にはいろんな意味が含まれているんですね」と語っていた。

 

これを読んで、そういえば「岸」というのは、どちらかというと海の方から見た陸地のイメージだなぁと思った。

──岸、さ迷った末にたどり着く場所。
登場人物たちは最後に海にたどり着くけど、むしろそれまでが海をさ迷っていたようなものなのでは?

 

そして、イスマイル役の岡本さんの初日コメントを読んで、この感覚は間違っていないのではないかと思った。

岡本健一(イスマイル役)
[前略]
この登場人物たちは様々な人との出会いによって人生がいい方向に変わっていく。それと同じように、僕たちも上村くんが船頭となって導いてくれる船に、みんなで全身全霊を込めて信じて乗っかっていく。そしてその船から海へ落ちたら落ちたで、まあいいんじゃないか、と落ちてしまった人の感想を聞く、「どうだった?海の中は?おぼれたとき、苦しさはどんな感じだった?」みたいに。
[後略]

 

 


仏教用語でも、あの世あるいは悟りの世界を「彼岸」、欲や煩悩にまみれた現世を「此岸」と表現する。


生を謳歌し、性に溺れ、精を吐き出した瞬間に突きつけられた、父親の死。
そこからウィルフリードの旅は始まる。


父親を埋葬する。
人々の名前を、思い出を、記憶を、錨にして。
怒りとともに、沈める。

繋ぎ止めるものがないと、思い出は、記憶は、波に洗われ粉々になる。

「海に沈めないでくれ!波に洗われて粉々になるのは嫌だ!陸に埋めてくれ!」
ずっと聞こえていた父の声が、このときのウィルフリードには届かない。


私は常々、弔いというのは死者のためではなく生者のためにあるものだと思っていたのだけれど、改めてそれを感じさせられた舞台でもあった。


怒りを錨にして、光の中で生きる。
それがウィルフリードを始めとする登場人物たちに許され、課せられた何かなんじゃなかろうか


案の定さっぱりまとまらなかったけど、今のところの自分の考えということで、このまま置いておく。
機会があればもう一度観ていろいろ考えたいです。


観に行こうか迷っている人は、ぜひ行ってほしい。
24歳までの人は世田谷パブリックシアターで手続きすれば、U24割(ほぼ半額)で観れます。