エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

劇団た組。『在庫に限りはありますが』を観て考えたこと。

 

4月21日(日) @すみだパークスタジオ倉
劇団た組。第18回目公演
『在庫に限りはありますが』
作・演出◎加藤拓也
音楽◎谷川正憲(UNCHAIN

を観た。

 

劇団た組。の舞台を観るのは二回目。
前回観た『貴方なら生き残れるわ』が本当にめちゃめちゃ良くて、「この人の脚本・演出の舞台は絶対に観なければ」と思って、来た。
ここまで脚本・演出に惚れ込んで観劇を決めるのは初めてかもしれない。
好きな人の作品に対して「今回は違うな」と感じることはいくらでもあると思うが、個人的には今回の『在庫に限りはありますが』で「やっぱり加藤拓也間違いないな」みたいな気持ちになった。


以下、感想や考えたことの覚え書き、殴り書き。
読む人も観ている前提で勝手に語ります。

 


舞台上は、小さなハンバーグ屋の店内そのものだった。
木製のカウンターとチェックのクロスがかかったテーブル席は、落ち着いた洋食屋さんといった雰囲気で、こういうお店は美味しいだろうなと思わせる内装だ。

異質なのは、上手の手前に大きなベッドが鎮座していること。
そこだけ妙に生々しく、店内とはまた違う"生活"の空気が漂っていた。


基本的には、ハンバーグ屋の店内で物語は進んでいく。


主人公の洸一は、人前でご飯が食べられない。
妻の里奈とも、ずっと一緒に食事をしていない。

洸一の営むハンバーグ屋は、向かいにできた人気店に客を奪われ、すっかり閑古鳥が鳴いている。

店に来るのは、バイトの田中と、野菜を卸しに来る中島、そして夫婦の友人である門真くらいだ。

田中も中島も門真も、店の現状を心配してくれているが、洸一の"病気"については何も知らない。


洸一は人前でご飯が食べられない。
だから店に客が来ないのか?

洸一は人前でご飯が食べられない。
里奈となんとなく上手くいっていないことと、それは関係があるのか?

洸一は人前でご飯が食べられない。
それの何がいけないのか。
でも、現実はこんなにもままならない。

 

舞台装置はそのままに、照明の変化や家具の使い方で、舞台上は様々な場所に変化する。

洸一の"病気"を治すために訪れる病院、田中が働くガールズバー、そして夫婦の寝室、田中がヒモの彼氏と同棲する部屋。


舞台上手に置かれたベッドの上では、洸一と里奈が眠り、田中とヒモの彼氏がいちゃつき、シーツがどんどん乱れていく。

そのベッドが、ハンバーグ屋の場面でも常に舞台上にある。

食事のための空間に、生々しい男と女の生活を感じさせる家具がある。

まるで、すべて繋がっていると言わんばかりに。


私は最初からそれが気になって仕方なかった。
だから、劇中でさらりとセックスの話題が出たとき、「やっぱりな」と思った。
"食べる"行為は"生"と密接に繋がっているから、それが"性"の話になるのも必然的に思えた。


里奈は、「家族と一緒にご飯を食べたいって思っちゃいけないの?」と洸一に訴える。
と同時に、「セックスはしたいよ! でも洸一は家族だから、家族とセックスはできないよ!したいけど、洸一は家族だから、できないの」とも言う。


洸一はそんな里奈の言うことが理解できない。

でも、里奈も洸一が人前で食べられないことが理解できない。


"食べる"ことで分かり合えない二人が、性的にすれ違うのは、なんとなく納得がいく。


人と人にはどんなに親しくても付き合いが長くても分かり合えない部分は絶対にあって、でもそれをどこまで相手に伝えて、どう折り合いをつけて生きていくかは難しいよなぁ……とも思う。

 

洸一はハンバーグ屋だから、野菜や肉を仕入れる。
あんまりたくさん仕入れても、使いきれずに腐らせてしまう。
だから、必要な分だけ仕入れる。


自分の中にも、感情や愛情の在庫があるんだろうか。
だとしたら、定期的に仕入れなきゃ生きていけないんだろうか。
ご飯を食べないと生きていけないように、新しいものを取り入れ続けないと生きていけないんだろうか。

在庫に限りはありますが、作れるものはあるだろう。
在庫に限りはありますが、なくなるまでは出せるだろう。
在庫に限りはありますが、できるだけのことはしよう。

じゃあその限りある在庫がなくなったら、店を閉めるしかないんだろうか。

 

食べられない人が食べ物屋をやっている話の題名が『在庫に限りはありますが』っていうのは、そういうことなのかなと思ったけど、考えてもポエムみたいな文章しか出てこないので、違う話をする。

 

前作の『貴方なら生き残れるわ』を観たときも思ったが、"普通の会話"と"沈黙"がとても上手いなと思う。

なんてことのない短い言葉の応酬から滲み出るそれぞれのキャラクターの性格や関係性が、どこまでも自然で、でも計算され尽くしてる。

今回の『在庫に限りはありますが』は、沈黙から生まれる間や、何も起こらない時間が絶妙すぎた。

そもそも演劇の舞台そのものが"動"の性質を持ったものだから、そこで徹底的に"静"を作り出されると、一気に引き込まれる。

無音の暗転や、相手にだけ言うような声でのやり取りの最中は、自分自身の肉体が邪魔に思えるほどだった。
自分の呼吸の音も、心臓の音も、隣の人の身じろぎも、客席の気配も、全部が妙に大きく聞こえた。
自分のかけている眼鏡のフチや、睫毛の影や、瞬きすらも邪魔に感じた。

それほどに沈黙が上手い。
空間造りが上手い。


そしてだからこそ、抑圧された感情が溢れる瞬間、"静"が"動"へと転換する瞬間がぞくぞくするほど印象的だった。
普段、穏やかな人が激昂すると本当に本当に怖いよな……というのを、たった90分やそこらの中で感じさせられた。

 

あと、「きっとこうなるんだろうな」という予想が、良い意味で何度も裏切られた。

田中はヒモ彼氏に食い潰されるかと思ったらそんなことなかったし、実は人肉を使っているのは洸一の方かと思っていたらそんなことなかったし、洸一が里奈を殺して食べてしまっているかと思ったらそんなことなかった。

とくに洸一が里奈を殴打した後の、長い暗転の間は「ここで終わったらどうしよう」と思ったが、そうならなくて本当に良かった。
明転後にハンバーグを食べながら洸一が泣く場面でも、「ここで終わったらどうしよう」と思ったが、そうならなくて本当に良かった
洸一がクラクションを鳴らし、里奈が泣いている場面で「いよいよ終わるか」と思ったら、洸一が運転を誤って店に突っ込んで来たのも、良い意味で裏切られた。

洸一が壁を壊してしまったのは、久しぶりの運転で操作を誤ったからかもしれないが、人と人の間の壁も何かの間違いで壊れて親しくなることもあるのかもしれないなと思った。

 

ハンバーグは挽き肉を捏ねて形作って焼き上げてるけど、人間も一回バラバラにして捏ねあげて形を作らないと出来上がらないのかもな、みたいなことも思った。
人肉とかそういう話ではなく、精神的な話。
でも、精神的な部分を混ぜ合わせて"合挽き肉"にするのは、ある意味、人肉を喰らうよりも生々しくグロテスクな話なのかもしれない。


結局なんだかポエムみたいな文章にしかならなかった。

 

ポエムついでに私が"食べる"ことについて昔から考えてもいることも書いておく。

個人的に、食に対する態度はその人の物事に対するスタンスが如実に表れるなと感じる。
食べ物の好き嫌いが多い人は、物事に対する好き嫌いもはっきりしているように思う。

自分の肉体に何をどう取り入れて生きていくかという意味で、やっぱり食べることはすべてに繋がっているような気がしている。
だから知り合ったばかりの男女はまず食事に行くし、食事の席で「無理」と思うことが少しでもあると上手くいかないような気もする。
価値観の違いというか、まさしく価値の観方が食べる行為で明らかになるなと思う。


自分でも何が言いたいのかわからなくなってきたけど、舞台は観ている瞬間よりも観た後に考える行為の方が大切なような気もするから、許されたい。


全然まとまらないので終わります。

 

 


ちなみに『貴方なら生き残れるわ』についての記事はこちら。
片方ははてな匿名ですが、書いたのは私です。