エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

劇団た組『今日もわからないうちに』を観て1ヶ月経っても忘れなかったこと、忘れたくなかったこと

 

9月1日(日)@世田谷シアタートラム
劇団た組 第19回目公演 
『今日もわからないうちに』
作・演出◎加藤 拓也
音楽・演奏◎谷川正憲(UNCHAIN


を観てから、気がついたら1ヶ月以上経ってしまった。


劇団た組の舞台を観るのはこれで三作目。
観るたびに、めちゃめちゃに感情をかき乱される。

だから感想にもなりきれない何かを書きなぐるのがいつものパターンなのだが、今回は友人と一緒に行って観劇後に感想を話す機会があったので、一回そこで昇華されてしまった。
(その友人は私が「劇団た組の舞台めっちゃ良い」と言い続けていたら興味を持って一緒に来てくれたし、今回の作品も楽しんでくれたみたいで本当にありがたい)

また、実は昼にこの作品を観てから夜に三谷幸喜の『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』を観たので、単純に書いてる余裕がなかったのもある。

 

それでも、見終わって何日かして、「ああ、あれはそういうことかな……」と思えてきたことがあって、ちまちまメモに書き留めていた。

別に感想を書くのもブログを更新するのも義務でも何でもないのだが、きちんと何らかの形で残しておきたいので、1ヶ月経った今も鮮やかに覚えていることを、書き記しておきたいと思う。

大切なことを忘れてしまわないように。

 

 

 


会場に入ると、真っ黒な舞台の上から木でできた屋根の骨組みが吊るされていた。
真ん中には下に続く階段。奈落をそんな風に使う舞台は初めて観た。
「うちの中」には、普通の家具が、普通じゃない様子で並んでいる。
椅子はうつぶせに寝かせられているし、冷蔵庫は仰向けだし、ここがリビングという設定だとしたらあきらかにおかしな場所に洗濯機がある。


「変な舞台装置だなぁ」と思っていたが、開演してすぐに、これもひとつの演出だとわかった。


主人公の恵は、ある日突然、自分の家のことだけがわからなくなる記憶障害になってしまう。

朝は覚えているのに、家を出ると自分の家がわからなくなるから、帰ることができない。
夫の一志に迎えに来てもらって家に帰っても、自分の家だとわからない。どこに何があるかもわからない。
でも、翌朝になると、自分が記憶障害で家を出ると家を忘れてしまうことも忘れてしまう。
娘の雛には心配をかけたくないから病気のことは内緒にして、至るところにメモを貼ることで、一志と協力しながら、なんとか日常生活を送ろうとする。

 


観劇の前は、タイトルの『今日もわからないうちに』って、「今日のこともわからないのに未来のことを話してる」みたいな意味かと思ってたけど、「今日もわからないうち(=家)に」か!と気がついた。
そして、「今日もわからないうちに(何かがどこかで進行していく)」って意味もあるのだと思う。

 

恵は今日もわからない家に帰り、今日もわからないうちに何かがどこかで進行していく。
同じうちで暮らしていても、わからないうちに起こっていることはたくさんある。

 

恵と一志は、最初は決して仲睦まじい夫婦というわけではなくて、一志は毎月こっそり別の女の子にお金を渡して会っていた。
でも、恵を支えるために、その女の子との縁を切ろうとする。

恵が記憶障害になったことで、夫婦の仲は以前より深まったように思える。

 

一方で恵も、実父の一郎に毎月お金を渡していて、そのことを一志はよく思っていない。
一郎は常に高圧的な態度で、三人が住む家にやってくる。
雛も、おじいちゃん(一郎)のことを嫌っている。
恵が病気になったことを伝えても、一郎は態度を変えない。


一人娘の雛は、中学校でソフトボールをやっている。
本当はピッチャーがやりたいのにやらせてもらえないし、おじいちゃんには「女の子なんだからソフトボールなんてやめろ」と言われるし、学校の先生や好きな男の子にも「男っぽい」と言われるし、もやもやは募るばかりなのにお父さんもお母さんも最近なんだか様子が変だし、「みんな何なの!?」という状態だ。


この雛役の池田朱那さんの演技が抜群に良かった。
「演技」と言ってしまうとむしろ語弊があるかもしれないが、思春期特有の不安定さ、鋭さ、瑞々しさが、そのままひとつの結晶としてそこにあって、はっとさせられるようだった。
家族に対する無愛想な態度も、周囲に対する憤りも、好きな男の子と話すときの甘酸っぱい空気も、学校の先生に対する無遠慮さも、お母さんに甘えたい無垢な気持ちも、「自分の中にも確かにあったいつかのあの頃」を見ているようだった。


劇団た組の舞台を観るといつも、自分でも気づいていなかった「いつかのあのときの自分」に出会ったような気持ちになる。
今まで知らないふりをしていたけど、「いつかのあのときの自分」は、「今ここに描かれているこれ」だったのかもしれないなと思わされる。
脚本・演出の加藤拓也さんは、世界に対する解像度がものすごく高いし、それを切り取りかたちづくる力もずば抜けているんだろう。

 


作品全体の話に戻ると、今までの劇団た組の作品と同じく、今回も作り込まれた自然さと不自然さが際立っていたなと思った。

私が観て感じた劇団た組のひとつの特徴は、会話の自然さだ。
そのときにその人が言う言葉として嘘がないし、余計な力も入っていなくて、全く台詞っぽくない、本当にその場で普通にお喋りをしているような会話なのだ。


そう思って今回も観に行ったのだが、幕が開いた直後、私は驚いた。
なんだか言葉がすべて棒読みに聞こえる。
一対一で話しているはずなのに、会話が成り立っている感じが全然しない。

「あれ?劇団た組の舞台ってこんなんだっけ?それとも役者が下手なのか?」

 

でも、物語が展開していくに連れて、その違和感はどんどんなくなっていった。
役者が、役として、一人の人間として、ちゃんと会話をしている。
普通に話しているような何気ないやりとり。
それでいて思わず息を飲むような生々しい感情。


私はこの芝居を観ながら2回泣いたのだが、1回目は家がわからなくなった恵が雛の手を引きながらぐるぐる走り回る場面だ。
「どこ?どこ?」と言いながら必死の形相で走る恵。
「お母さん!どうしたの!?痛い!痛いよ!転んじゃう!お母さん!」と叫びながら半分引きずられるようについていく雛。
二人が手を繋ぎ、同じ場所をぐるぐるぐるぐる走り回る、絵面としては滑稽なのに、声が、表情が、本当に切羽詰まっていて、こわくて、涙が出た。
お母さんと娘のはずなのに、このときの恵はすっかり「お母さん」ではなくなっていて、まるで子供が二人で迷子になっているようだった。


こんな演技ができる人たちが、あんな棒読みで演技をするはずがない。

とすると、あの棒読みの台詞も「成り立たない会話」という演技なんだと思う。

一対一で会話してるはずなのに、全く相手に言葉が届いていないし、相手からの言葉を受け取ろうともしていない。
いわゆる「言葉のキャッチボール」ができていない状態だ。


思えば、「キャッチボール」は作品の中でも重要なものとして扱われていた。

冒頭の場面で、恵は一志に向かってボール(だったかな?スマホ?)を投げようとするが、一志は「何やってんだ!危ないよ!家の中だよ!」と止める。
恵は「じゃあ公園行く?」と聞くが、一志は「行かないよ」と連れない返事だ。

まあ、家の中で妻が突然キャッチボールを始めようとした際の反応として自然ではあるが、キャッチボールを「気持ちをやりとりする行為」だと仮定するとまた別の何かが見えてくる。
一志にとって、家の中は「"キャッチボール"をする場所」ではないのだ。
そして、恵は「"キャッチボール"がしたい」のに、できない。


雛は、昔、お母さんとしたキャッチボールが忘れられない。
そして、物語の終盤で、雛と恵は昔のように公園でキャッチボールをする。
このときの恵はぜんぶ忘れてしまっていて、雛のことももしかしたらわからないのかもしれないが、それでもキャッチボールをする二人の間には確かに通じ合う何かがあった。


そう考えると、雛の「ソフトボールでピッチャーをやりたい」というのも、「誰かに自分の気持ちをぶつけたい」という欲求の表れなのかなとも思う。
ソフトボールも野球も、ピッチャーがボールを投げることでゲームが始まる。雛も、自分の言葉を、気持ちを、誰かに投げたかったのではないだろうか。そして、そこから何かが始まってほしかったのではないだろうか。
でも、実際には雛は外野で、ボールが飛んでくるのを待つことしかできないのだ。

 

言葉は、受け取ってくれる誰かがいて、初めて生きたものになる。

記憶もきっと同じだ。
自分以外の誰かが、自分のことを、自分とのことを、覚えていてくれるから、自分は自分として生きていられる。

 


自分はどこまで覚えてるんだろう
何を忘れて、何を覚えて生きてきたんだろう
忘れちゃいけないこと、忘れた方がいいことってなんだろう

 

 

恵の記憶障害の原因は、きっと一志の浮気だろう……と思っていた。

しかし、最後の最後で物語は予期せぬ展開を見せる。

 

恵と雛の涙なしでは観られない場面のあと、街の風景のスライドショーと共に谷川さんの歌声が響く。

「ああ、これで終わりかな…………すごく良かったな……」と思ったら、まだ続きがあった。


三人の家に、一郎がやってくる。
ここで観客は、まだ問題は何も解決していなかったことを思い出す。
逆に言うと、ここまで忘れていたのだ。この厄介な父親の存在を。

 

そして、一郎の口から、昔、認知症の妻を殺し、恵と一緒に埋めたことが明かされる。

まさかそれが、根本的な恵の忘れたいことだったのか。
忘れたくても忘れられないことだというのか。


そんな一郎を、雛は金属バットで殴打する。


最後は、殴り殺した一郎を家族三人で埋めるのだ。


仰向けに寝かせらた冷蔵庫の蓋を開け、手書きで「土の中」と書かれた白い紙をぺたりと貼り付け、そこに無理やり一郎の死体を押し込む。


「え?マジ?ほんとに殺しちゃったの?え?シュールすぎない?ちょっとまって、これで終わり?」と混乱してるうちに、終演した。

 

一郎を殺したことについても、恵は忘れてしまうにしても、雛は忘れられないし、これはまた負のループが始まってしまうんじゃないか?

 

正直、幕の下ろしかたとしては賛否両論やや否だ。
どういう気持ちで観ればいいのか最後でまったくわからなくなった。

まさかこの"わからなさ"まで含めて計算された演出なのか。

 

"忘れられない"という意味では、大成功かもしれない。

現に私は、1ヶ月経った今でもあの最後に冷蔵庫に死体を押し込むときの会話や、直後にそこから死体も起き上がって一礼する景色まで、鮮明に覚えている。

 


人の記憶はあてにならない。
恵は忘れてしまう病気になったが、病気ではないはずの私も日々いろんなことを忘れながら生きている。

だから、大切なことは忘れないように言葉にする。
私が感想を書くのも、忘れたくないからだ。

でも、それでも忘れてしまうこともたくさんあるからもどかしい。

そんな思いから公演のDVDや脚本がほしいのだが、加藤拓也さんはそれを許してくれない。
あくまで今そこにある「行為」としての演劇を観るしかない。その「行為」には、観る人のモーションやエモーションも含まれているのだと思う。


ここに書いたのは1ヶ月経っても忘れなかったこと、忘れたくなかったことだ。
もしかしたら、忘れてしまったけど大切なこともあったかもしれないが、それはもう誰にもわからない。


今日もわからないうちに、私は何かを感じて何かを忘れて生きていく。

 


だんだん謎ポエムになってきたので終わります。