エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』を観て考えたこと。

 

2月23日(日) @彩の国さいたま劇場 小ホール
劇団た組。第20回目公演 『誰にも知られず死ぬ朝』
作・演出◎加藤拓也/音楽・演奏◎谷川正憲(UNCHAIN

 

を観た。


死にたくても死ねない主人公と、死にたくなくても死んでしまう人たちの話。


タイトルとあらすじだけ見ると「死」という言葉と「死なない」という設定に少し身構えてしまうけど、実際は観る前に想像したよりもずっと朗らかで、身近で、親しみやすく、だからこそ切なく、とても純度の高い話だった。


以下、ネタバレとか一切気にせずに勝手に書きたいことを書きます。
感想というか、レポというか、わりと感情ぐちゃぐちゃのまま書いた個人的な何か。

 

 

 

 


まず最初に言いたい……

 

安達祐実ヤバない!?

 

いや、ほんとにヤバいよ、安達祐実…………私、昨日の昼に観てから今までですでに3人の友人・知人に「安達祐実のヤバさ」を熱弁してしまった…………


芝居が始まり、役者たちがゆっくりと位置につく。
そして一人ずつ「今から◯歳くらいをやります」と宣言していく。

その最後が安達祐実だったのだが、ミントグリーンのパーカーを着て白いスカートを履いた彼女は、はにかんだ笑みで「私は13歳くらいをやります」と言ったのだ。


13歳!!!!!!
安達祐実!!!!13歳!!!!!!!!!!!!

 

もうその時点で、安達祐実が会場の空気の全部をひっさらってしまった。

 

本当に彼女は13歳に見えるのだ……見た目も言動もすべてが思春期の少女なのだ…………

 


でも、安達祐実は歳をとる。
正確には、安達祐実演ずる「りっちゃん」は、劇中で順調に歳をとっていく。

最初は13歳の不安定な少女だった彼女が、20歳になり、結婚と妊娠をして、最後には38歳(つまり安達祐実の実年齢)になる。その頃には生まれた子どもは18歳だ。


歳を取らない見た目変わらない主人公のすぐそばに、常に歳を取り続けるけど見た目が全く変わらない安達祐実がいるヤバさ。


りっちゃん(安達祐実)が、主人公の歩美に「ねえ、ほんとは何歳?」と無邪気に尋ねる場面があるのだが、観ている側としては「いや、お前もな!!?!!???!?!?」って感じだ。

 

でも、見た目が変わらなくても中身が成長と共に変化してるのは明らかで、13歳のりっちゃんと、38歳でお母さんのりっちゃんでは全然違っていて、そんなところも安達祐実はヤバかった。

 

実は前回の『今日もわからないうちに』*1のとき、一緒に観に行った友人はヅカオタだった。
そんな彼女は終演後に「主演の大空ゆうひさんは宝塚のトップスターだった」と教えてくれた。そして二人で「宝塚で男役やってた女優に『女の子なんだから(男みたいなことやめなさい)』って言わせるの、かなりエグいんだけど、わざとかな?」と話していたのだが、今なら言える…………絶対わざとだ…………………加藤拓也さん、たぶんそこまで狙ってキャスティングしてる…………………………

 


13歳のりっちゃんと、歩美。
20歳のりっちゃんと、歩美。
38歳のりっちゃんと、歩美。

 

この二人の対比関係が、物語を鮮やかに彩る。

 

 

ストーリーの中心となるのは、死にたくても死ねない歩美(村川絵梨)と、その夫・良嗣(平原テツ)の二人だ。


歩美は、死なない。
正確には死んでもすぐに生き返る。
いつから生きているかもわからないし、どうやって生き返っているのかもわからない。どうして死なないのかも、どうしたら死ぬのかもわからない。


周りの人はみんな歳をとって死んでいくのに、歩美だけはずっと死んでは生き返りを繰り返しながら生き続けている。


良嗣は、歩美が死なないことを知り、それでもなお共に生きたいと願った。
そして歩美と一緒に死ぬために、歩美が死なない秘密を探ることにする。


医者である良嗣は、いつかは必ず死ぬ人間の命を助けることの意義を考えて悩んでいた。
死なない歩美は、人間はいつか必ず死ぬから、特別な人を作らないようにしていたけど、良嗣と結婚した。

 

 

必ず死ぬのに誰かを愛する。
必ず死ぬから誰かを愛さない。
必ず死ぬから誰にも愛されたくない。

いつ死ぬかわからないのはみんな一緒。

 


劇中は、「死」という言葉で満ちている。


冒頭、母親に頬を打たれたりっちゃんは、部屋を飛び出し、屋上に向かう。
そしてそんなりっちゃんを、歩美と良嗣が追いかける。

頬を打った母親は、良嗣の兄の妻で、要するに良嗣と歩美から見ると、りっちゃんは姪にあたる。
でも、兄夫婦=りっちゃんの両親は追いかけてこない。「いつものことだから」と溜め息をついている。

 


本当には死なないなら「死ぬ」と言っていいかは、本気で死ぬつもりがあるかないかに関わらず、微妙なところだな……と思う。

 

歩美は13歳のりっちゃんに、「『死ぬ』なんて言わないで」と言う。
38歳のりっちゃんは18歳の息子に、「『死ぬ』なんて言わないで」と言う。

そして歩美は、たいへんカジュアルに死ぬ。
死んで生き返れば身体の不調が治るから、寝違えを治すために死んだりする。
でも、毎回「このまま本当に死ねたらいいな」と思いながら死んでいる。

歩美は死んでも生き返るから、死んでいいのかというと、それも微妙なところだなと思う。

 


私自身も、本気で死ぬつもりはなく「死ぬ」と言うことがよくある。誰かに言うわけでも、SNSに投稿するわけでもない。ただ、本当に死にたいわけじゃなくて「恥ずかしい」とかそういう気持ちが高まると「しにたい~~~~」と独り言がぽろっと口から出てしまう。
誰かに何かをというよりは自分自身の羞恥心と自尊心で死にたくなることが多い。虎になるより前に死にたくなっちゃう、自分が嫌すぎて。でも実際に死ぬわけじゃない。いや、死にたくなくはないけど、どうせいつかは死ぬし、それなら死ぬまで生きるか~と思うし。


ていうかそもそも私は「死」を、唯一人間が選べるものだと思っていて、だからそれを選びたくても選べない歩美はしんどいよな~~~~~~~~と思いながら観ていた。
人生は選択の連続だから選択肢は常に少しでも多い方が人生豊かになるような気がする。そして、どんなに選択肢の少ない人生だとしても常に1枚は持ってるカードが「死」というイメージだ。でも、それは選択肢として持っていることに価値があるカードだから、絶対に選んじゃいけない。選ぶと手持ちの選択肢が1枚もなくなっちゃうから、常に選ばずに持ち続けていることが大事だと、個人的には思っている。
「いつでも死ねるけど、今は死なない」方が人生楽しい気がするし。


でも現実問題、"普通"の人は、いつか「死」のカードを引く瞬間がくるわけで、そうなったときに何をよしとするかはたぶん人それぞれで……。つまり、自分でも意識しないうちに「死」が訪れるといいと思う人もいれば、自分で今度は「どうやって死ぬか」という選択肢の中から選びたいという人もいると思う。

 

良嗣は、歩美が生き返ると知ってからも、歩美が死ぬと悲しむ。
でも、歩美と一緒に死ぬために、歩美が死んでも生き返る理由を探るために、何度も歩美を殺す。悲痛な声で「ごめん」と言いながら、歩美を殺す。
歩美はそのたびに「このまま本当に死ねたらいいな」と思いながら殺される。そして生き返る。だから、良嗣が謝る必要はないと思っている。


「どうやって死ぬか」は、裏返せば「どう生きるか」であって、そうなると死ねない歩美は生きられないような気もして、だから良嗣に「殺してもらう」ことで歩実の「生きる意味」も生まれたのかなと思ったりもする。

 


良嗣は結局、歩美が死んでも生き返る理由を見つけることはできず、そして歩美より先に死ぬ。

 


作中では、歩美以外の人は全員歳をとる。
役者の見た目が劇的に変化するわけではないが、見せる表情、話す言葉、ちょっとした仕草や立ち居振舞いに年齢が感じられる。
それが本当に本当にすごく上手で、当たり前なんだけど「役者さんって演技上手いな」としみじみ思った。


一番「成長した」と感じるのは、13歳の少女から38歳の母親になるりっちゃんなのだが、一番「歳をとったな」と感じるのは、良嗣だ。


良嗣は病気で、もう後がない状態になる。
兄よりもずっと老けて見えるし、歩美と比べると見た目にはかなり差が出てくる。実際は歩美の方がずっと年上のはずなのに、見た目は良嗣の方がずっと年上のようになってしまっている。

 

良嗣と結婚するときに、歩美が一番恐れていた瞬間が、近づいてくる。


劇中では、歩美と良嗣のなれそめが断片的に挿入される。


今までと同じように、良嗣の前からも姿を消そうとする歩美。
そして、そんな歩美を必死で探し、追いかける良嗣。


誰かを特別に思うと、その人が死ぬときにつらいから、特別な人を作らないようにしているのだと訴える歩美に、良嗣はめちゃめちゃな告白をする。


「家帰って、歩美がいると、"沸く"んだよ!」
「"沸く"って、なに……」
「気持ちが?」

「そんなに言うなら、何で俺の電話出たの?」
「それ、は、…………私も、ちょっと、……"沸いた"……から…………」


お互いの気持ちを認め、キスをしようと顔を近づけた次の瞬間、そのまま時間軸がすっと"現在"にスライドする。ゆっくりと顔を近づけた良嗣は、背中の曲がった老いた病人に。応える歩美の手が、良嗣の歩みを支える。


歩美はあの頃のままで、良嗣だけが、老いて死のうとしている事実を、まざまざと見せつけられる。

 

良嗣は死ぬ。
家で死ぬことを望み、「飲むとゆっくり心臓が止まる薬」をもらって、歩美と共に眠りにつく。そして、歩美が眠っている間に、こっそりその薬を飲み、誰にも知られず死ぬ。

 

 


た組の舞台は、静寂を作るのが巧すぎる。

ただの無音ではなく、……孤独な魂が浮き彫りになるようなそんな"しん"とした静寂。

そこに染み込んでくる谷川さんの歌もすごい。
歌っているのに静寂に満ちていて、すごい。


自分の肉体が邪魔に思えるくらいの、静寂。

そして静寂の中で浮き彫りになる、孤独な歩美の魂。

 

 

 

 


純度の高いものに触れるとこちらまで泣けてきてしまう。

 

このシーンで涙が出たのも、良嗣が死んだことが悲しかったのではなく、あまりにも純度の高いものに触れたからだと思う。


私はわけわからんところで泣けてくるな~~~と思うようなことがよくあったんだけど、たぶんそういうことなんだなと今回でわかった。


自分の感情が昂って泣くと言うよりは、純度の高い美しい何かを目の前にすると共鳴して泣いてしまう。

たとえば後藤まりこちゃん、たとえば1917の戦場を駆け抜けるシーン、たとえば三浦しをん舟を編む』の「辞書は言葉の海を渡る舟だ」のくだり、たとえば宮下奈都『羊と鋼の森』冒頭の描写、たとえば『今日もわからないうちに』でぐるぐる回る迷子の母娘を観たとき、たとえば『誰にも知られず死ぬ朝』で安達祐実演ずる母親が息子を叱責する場面。


そう、実は私は、良嗣が死んだときよりも、安達祐実演ずるりっちゃんが、息子である基樹に感情をぶつける場面でぼろぼろに泣いていた。


りっちゃんの息子、基樹(藤原季節)は、18歳の高校卒業間際の青年だ。
面白いことがなくて、毎日酒を飲んでは友達と遊び回っていて、見た目がとても若い歩美のことを「良嗣の遺産目当てで近づいた女」だと思っている。


基樹は、良嗣から歩美宛の遺書を預かるが、酒に酔ってそれを窓から投げ捨ててしまう。
もちろん大切なものだとわかっているし、探しても見つからないから焦ったし、悪いことをしたとも思っている。

でも、それを母親に突きつけられると、素直に謝れない。

「だから、ごめんって言ってんじゃん!」

と、開き直ったように吐き捨てることしかできない。

「でもどうせ遺産のことだろ? 歩美さん、若すぎるもん、おかしいよ!どうせ遺産目当てなんだろ?」

挙げ句の果てには、そんなことを言ってしまう。
基樹は、歩美が何年も生きていることを知らない。何度も死んで、何度も生き返っていることを知らない。だから、歩美と良嗣が歩んできた過去なんて知るよしもない。


りっちゃんは、基樹の頬を打つ。
「何てこと言うの!」と全身を震わせるりっちゃんは私の角度では背中しか見えなかったけど、表情が見えないからこそ、余計にりっちゃんの感情が立ち現れてくるように感じられた。

そこにいたのは、38歳の、基樹の母親であると同時に、13歳のりっちゃんだった。

 

そのりっちゃんから、私はりっちゃんと歩美が歩きながら話していた姿を思い出し、歩美がりっちゃんと歩きながら話した良嗣のことを思い出し、

…………いやそんな理屈は後から思い付いた余計なもので、とにかく私はここでぼろぼろに泣いた。

そこに立つりっちゃんの純度の高さに、震えて泣いた。

 


良嗣の遺書は、結局、りっちゃんを通して歩美の手に渡ることになる。

 

歩美は、良嗣の後を追おうとしていた。


包丁を手にした彼女は、「これは初めて」と呟く。
たとえ生き返るとしても、死ぬ瞬間は痛いし苦しい。


歩美は、少しの躊躇いのあとに、意を決して自らの腹に包丁を突き刺す。そして傷口から手を突っ込み、腸を引きずり出す。

「これは演劇上での、演技で、嘘だ」と、わかっているはずなのに、観ているこっちまで痛くなってくる。

歩美は、わざと今まで経験したことがないくらい痛くて苦しい方法で死のうとしているように思えた。
良嗣を失った悲しみとのバランスを取ろうとしているように思えた。


でも、歩美は死ねなかった。


そこにりっちゃんがやってくる。
歩美は、腸を引きずったまま、自分の血にまみれた手で、良嗣の遺書を受けとる。


歩美が遺書を読んでいる、そのとき…………


基樹の運転する車が、赤信号で停止する。
そして次の瞬間、横から出てきた車とぶつかり、……………………ぷつんと照明が落ちる。

 

これがラストシーンだ。

 

基樹、絶対死ぬじゃん……っていうのは、正直わりと序盤から思ってた。
いやまあ普通の人間なんだから、いつかは必ず死ぬんだけど、周りの人間が基樹に「お前はまだこの先の人生長いから」と語りかけるたびに、(それは誰にもわからないことだけどな?)と思っていた。

だから、常にどのシーンでも「もしかして次の瞬間、基樹死ぬのでは?」と思ってた。
友達と自転車を2人乗りする場面も、友達4人で高いところに登ってお酒を飲んでいる場面も、無免許の友達に車に乗るように誘われる場面も、すべてが刹那的に感じた。

 

基樹は、自分が死ぬなんて思ってない。
どう生きてどう死ぬかなんて考えてない。
毎日、つまんないな~と思いながらぼんやり生きている。
すっかり大人になってしまった私からしたら、そういう瞬間のきらめきみたいなものは少し羨ましくもあるんだけど、かつてそういう子どもだった自分もどこかにいる。

 

最後も、基樹がどうなったかは明言されない。
一命をとり止めているかもしれないし、あのままあっさり死んでしまっているかもしれない。
それは誰にもわからない。


そして、良嗣の遺書に何が書いてあったかも、観客は知ることができない。
なぜ、基樹から渡してほしいものだったのかも、はっきりとはわからない。

 


これは完全に私個人の妄想だけど、良嗣が「"基樹から"歩美に渡すこと」を重視していたとしたら、もしかしたらあの遺書は、歩美へのメッセージであると同時に基樹へのメッセージだったのかもしれないなと思う。

良嗣は、基樹に遺書を手渡すとき、「お前が一番若くて、一番長生きするから」と言っていた。
ということは、自分が死んですぐ歩美に読んでほしいような内容ではなかったのではないだろうか。良嗣はもっと未来のことを考えたいたのではないだろうか。
たとえば遺書の内容が、「俺のかわりに、基樹の将来を見届けてやってくれ」みたいな感じだった場合、歩美だけでなく基樹の将来も願っていることになる。

基樹は、遺書を読まずに窓から投げ捨てた。精子をくるんだティッシュと同じように。
そしてそれは祖父に拾われ、母に見つかり、結局は母の手から歩美に渡ることになった。
もし、そういうことで、最後に基樹が本当に死んだのなら、それもそういうことなのかもしれないなと思う。


まあ、これは私の勝手な妄想なので、本当のことはわからない。

 

 


そういえば私はよく何かを観ながら全然関係ないことを考えてしまったり、目の前のことを即座にツイートとかブログ投稿する想定をしてしまったりして、見ているのに見ていない状態になることがあるんだけど、た組は会話のテンポが早いから、ちょっとでも意識が散ると一瞬で聞き逃す……。
とくに今回はとにかく密度が凄かった。

会話のテンポが早いっていうのは、走ってるわけじゃなくて、親しい人とならこれくらいのテンポで話すなという速さで、聴いててめちゃめちゃ気持ち良いものではある。
ポンポンポンってピンポン球みたいに言葉が行き来するから楽しい。

でも集中力がいる。
だって舞台上の二人は親しい仲かもしれないけど、私は二人には今日初めて会った赤の他人だから。
他人の会話はテンポを掴むのが難しい。
でも、いつの間にか、私も溶け込んでしまっている。取り込まれる。呑み込まれる。


そうして集中していたから、逆に些細な会話が思い出せなくて、今こうして書きながら必死に思い出しているけど、忘れてしまっていることがめちゃめちゃある。
でも、生きていくってそういうことの積み重ねなんだよなぁ……。

 

 

 

 


全然違う話をする。


彩の国さいたま劇場 小ホールは、中央の空間を半円のすり鉢状になった客席が囲むという、少し変わったつくりの劇場だ。私は初めて行ったとき、「野球のスタジアムみたいだな」と思った。
つまり何が言いたいかというと、演技スペースと最前列の客席を仕切るものが何もない。最前列の客は、演者と完全に同じ地面に存在することになる。

そして私は今回、最前列だった。
要するに私は、以前からたびたび感じている「境界線がなくて、こわい」状況に置かれることとなった。


劇団た組の舞台は、ただでさえ毎回、リアルすぎて現実と虚構の境界線が曖昧になる。
「今ここで交わされている会話はフィクションだけど、私はいつか誰かと似たような話をしたことがある」「どうしてこの人は、あのときの私の気持ちを知っているんだろう」という気持ちになる。


今までに私が観た劇団た組のお芝居は、すべて現代が舞台で、わかりやすい言い方をすると「とてもリアルな話」だったから、余計だ。

そういう意味では、今回の舞台は少しファンタジーと言えるだろう。
"死なない"なんて、"あり得ない"。

 

開演前に、パンフレットの前書きを読んで、私は心臓が止まるかと思った。
それは、加藤拓也さんの書いていることが、私自身ずっと考えていたこととあまりにも似通っていたからだ。


わかるとかわからないとか、共感できるとかできないとか、リアルとかリアルじゃないとか、嘘とか本当とか、フィクションとかノンフィクションとか、そういう話だ。


私はずっと「虚構と現実の境界線」と「わからないから面白い」ことについて考えていた。

他の芝居を観たり、仕事をしたりする中で考えるきっかけとなるような出来事もたくさんあったけど、最近とくにこのことをぐるぐる考えているのは、あきらかに劇団た組の芝居のせいだった。

だから近いうちに、自分の考えを整理してまとめたいな~~~~と思っていたのだけど、なんだか完全に先を越された気がしてめちゃめちゃ悔しかった。
いやまあ、これも私の勝手な思い込みだし、誰かが先に何を言っていたとしても、私は私の考えを書くんだけど。


ちなみに最初に読んだときはびっくりしすぎて「何これ加藤さん、私のブログ読んでるの??????」とか思ったけど、よくよく考えたら『誰にも知られず死ぬ朝』が発表された当初から「フィクションとノンフィクションの狭間」という言葉も劇団公式Twitterで発信されているから、単に私が観客としてある種の"正しい解釈"をたまたま受けとることができていただけの話っぽい。

 


前書きで加藤さんは、「あちこちでダメだと言われる嘘を、ここでは良しとしたい。嘘に寛容であれる場所にしておきたい」と述べている。


演劇の舞台は、"嘘"ばっかりだ。

でも観客は、安達祐実を13歳の少女と信じ、椅子の上が屋上の手すりの外側に見え、そこから飛び降りたら本当に死んでしまうと焦る。

 

私は今まで、「た組の舞台は本当にリアル」と何度も書いてきた気がするが、それは裏を返せば「めちゃめちゃ嘘が上手い」のと同義だ。

うまく嘘をつくために必要なのは、「徹底して本物を観察して真似ること」…………ではなく、「本物を観察し、その本質だけ抽出した別物をつくること」と「騙す側がその価値を信じること」だと思う。

たとえば、具象舞台だとちょっとの不自然さが気になるが、ルールに基づいた抽象舞台ではだいたい何がどうなっても許されるのは、そういうことなんだろう。
机の足が突然、屋上の手すりになっても、役者が本気でその"手すり"にしがみつけば、それは本物になる。

 


そして、嘘は必ず、本当のことを元に作られる。
た組の舞台は、その嘘の元となった「本当」の気配がいろんなところに潜んでいるのも面白い。

でも人によって、何を「本当」と思うかは違うんだろうなとも思う。

大きなテーマとは別に、小さな要素があらゆるところに散りばめられていて、その全部を拾っていたらキリがない。
そして観客の今まで歩んできた経験により、どこに気がつき、どこが響くかはきっと変わる。

登場人物全員が、ひとりひとり様々な要素を持っていて、観る人の切り取りかたで全く違う人物像になりそうな気もする。

 

なんだかここまで安達祐実のことばっかり話してしまっているけど、他の役者さんもめちゃめちゃ良かった。別の舞台で見たことがある人ばかりだったけど、そのどれよりも良かった気がする。

劇中で私がとくに好きだったのは、中嶋朋子さん演ずる江梨香だ。
良嗣の兄の妻、歩美から見ると義理の姉で、りっちゃんの母親なのだが、ものすごく良かった。大好き。

 


そういえばタイトルの『誰にも知られず死ぬ朝』というのを見て、"朝"という時間帯もいつ"死んで"いるのかわからないよな~とぼんやり思ったりもした。
何時まで「おはよう」なんだろうね、的な。

 

 

 


なんか他にも書きたいこと、書いておかなきゃいけないことがある気がするんだけど、まとまらないのでこのへんで終わろうと思う。


今までで一番まとまってない自覚はある。あと長い。

でも観て感じて受け取ったものはこんなもんじゃないんだよ…………どうしたもんかな…………


とりあえず「現実と虚構の境界線」みたいな話は、本当に近いうちにまとめたい。

 

終わります。