エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

『要、不急、無意味(フィクション)』を今、私は求めてるんだなという話


昨夜、劇団た組のインターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観て、勢いのままにレポのような感想のようなものを書いた。
でも、朝になって読み返してみると、起きた事実の羅列ばかりで自分の考えたことほとんど書いてなくてびっくりした。大学のレポートで提出したら、教授から「引用が多すぎる!君の論はどこなんだ!?」と突き返されるレベル。


だから今度は、自分が感じたこと考えたことをもう少しまとめて書きたいと思う。

 


まず、今回のSkypeによる公演が発表されて思ったのは、「加藤拓也さん、やりおる~!」ということだ。
加藤拓也さんは劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

 

劇中で大河が「今回のことネタにしたやつ(作品)とか出んじゃね?」と言っていたが、本当にそれはあると思う。
でも、実際に起きた事件や事故や災害をフィクションとして作品に落とし込むためには、それが解決しているあるいは未解決でも"ある程度過去のもの"になっていることが大前提だと思う。

そういう意味では、「ウイルスの流行で外出できない日々が続く」という、今まさにリアルタイムで起きていることをフィクションに落とし込めるのは、加藤拓也さんの凄さだなと思う。Skypeを利用して、「グループ通話をしている男たちの"物語"を、観客もグループ通話に参加して観る」という形式もだ。この公演は、この形式でなければあり得なかった。

正直、SkypeよりもYouTube等の動画サイトで配信した方がトラブルも少ないんじゃないかと思ったりもした。でもそれでは、演劇の醍醐味のひとつである、役者と観客の双方向性が失われてしまう。

 

加藤拓也さんは、今回の公演に際してこのようなコメントを寄せている。

いわゆる演劇の中継や過去作品の配信ではなく、配信の特性をそのまま作品と上演に持ちこんで、それの、配信や生放送ドラマとの違いを体験しながら、演劇の性質は一体どこに担保されて、どこに求めているのか、インターネットをクローズドにして、今この環境の中、この機会に改めて自分の中で検討してみたいと思います。

 


そう、演劇って何だろうと考えたときに、私は「生身の人間が虚構を演じるもの」が演劇であり、そこには「観客との双方向性」が不可欠だと思う。

「舞台はお客さんに観てもらって初めて完成する」とよく言うが、本当にその通りなのだ。
実際に自分が舞台に立つときも会場の雰囲気やお客さんのリアクションで全然違うものになる。いやこれは私がアマチュアの素人だからで、プロの役者さんはどんな会場、どんなお客さんでも影響を受けないのかもしれないけど……でも、上手に空気を受け取れるとすごく気持ちいいのも事実で…………このへんの役者論みたいなのは自分でもよくわからないので、とりあえず置いておく。

観客としてもそうだ。
同じ舞台でも、観るときの自分の状態で全然違う感想を抱くことになる。
身体的なことだと、寝不足で観に行ってしまって集中できなかったり、劇場の椅子が固くて途中から「おしりいたい……」しか考えられなくなってしまったりするけど、まあそういうことではなくて。

観るときに自分の考えていることで、同じ舞台でも全然違う感想になる。
たとえば自分も似たような経験があるストーリーだと、当時の自分のことを思い出してしまう。
たとえば好きな役者さんが出ていると、その人の動きやその人がやっているキャラクターばかり観てしまう。そして自然と感想も、好きな役者さんや好きな役者さんがやっていたキャラクターについてが中心になる。
たとえば最近読んだ本に書いてあったことと描かれるテーマが似ていると、「ああこれはあの◯◯にも通ずることだな、なるほどそういう意味か」と理解が深まる。

同じ舞台を観たはずなのに、一緒に観た友人と話すと「えっ、そんな場面あった!?」とか「あれってそうなの? いや私はこういうことだと思ったんだけど……」みたいな状態になることもよくある。


結局は、舞台の中にストーリーがあると同時に、観ている側もそれぞれ独自の"ストーリー"を持っているから、そうなるんだと思う。

このへんについては、加藤拓也さんが『今日もわからないうちに』(2019)のパンフレットで語る「演劇行為」についての話に近いかなと思うので、引用しておく。

 

[前略]今から当たり前のことを言いますが、今回の作品は人生の歩み方によって見えるものや感じるものが違う作品になってゆくんだろうなと感じています。それは僕や僕たちの意図から離れたところでよく膨らむという意味です。そんな風に作品の中も、演劇ではなく演劇行為であったという外も、お客さんの記憶をたよりに僕らはきっと今後も演劇をやっていくんだろうなって思っています。
(『今日もわからないうちに』パンフレット、串田和美さんとの対談より)


今回の公演についていえば、私は鈴木勝大さんのファンで、11月の居酒屋公演も観劇していた。
だから点と点を繋いで線にするように、居酒屋公演で得た情報と今目の前で話す大河を結びつけて自分なりのストーリーを作って観ることができた。


さらに、観客は全員、画面の中と同じ世界(=ウイルスが流行しているため家にいるしかなくてSkypeでグループ通話をしている状況)を共有している。
彼らの会話が身近に感じるのも当たり前のことで、彼らに自分を重ねるのも自然な流れだ。
脚本の外側、演出家や役者の意図した以上の範囲にまで、演劇空間がどんどん膨らんでいく。


そうやって「今ってそうだよな~わかる~」と思っている内に、彼らの時間だけ一年後にスキップする。でもそれも「こういう可能性もなくはないな」と感じる範疇の未来で、なんだか怖くなる。フィクションのはずなのに、これが現実になったらどうしようという焦りがある。

結局、未来は誰にもわからないから、今、未来の話をするとそれはすべて「フィクション」になるのかもしれない。そんなわからない未来を「あるかも」と思わせるためには、過去から今へのリアリティーが必要だ。
仕事などで未来の話をするときも、「今こういう状態です」「過去にはこんな前例もありました」という過去から今への事実を積み重ねて、未来のストーリーを描く。
「今」が「リアル」に感じられるほど、未来の空想も現実味を帯びる。

 

演劇における「今」は、舞台で演ずる役者たちが生きる「今」であり、舞台で演じられる役の生きる「今」であり、舞台を観ている客がそこにいる「今」でもある。

そして、役者たちが役と共に積み上げてきた「過去」と、観客それぞれの持つ「過去」が、舞台上で「今」は「過去」となったことと響き合い、まだ見ぬ未来へと誘う。

生身の人間から生まれる「今」の手触りが、役者にも観客にも影響を及ぼし、相乗効果で面白くもなるし、その逆もあり得る。

 

画面を通した「配信」という形式だと、「生身の人間がいる」という感覚は薄れがちだ。
でも、それを「Skypeのグループ通話に参加する」という観客の能動的な行為と、「劇中の人物も同じ状況で、同じように画面を観ている」という体感的なリアリティーで克服したのが、今回のインターネット公演なのではないだろうか。
「役と役者の距離」「舞台上と客席の距離」という意味では、もしかしたら普通の劇場の公演よりも近かったくらいかもしれない。

しかも今、このタイミングで、「今しかできないな」と全員に感じさせながらやっちゃうのが本当に凄い。
なんかもう観る前から「やられた~!」感があるし、観たらさらに「なるほどな~!」という気持ちになってしまう。

 


そして、もう一つ。
あくまで「生配信」であることにこだわったのも、大事なポイントだろう。

前述の通り、演劇は「今」の「生」であることに大きな意味を持つと私も思っている。
もちろん良い作品はDVDやインターネットなどの映像で観ても面白いのだが、それでは「役者の"今"」と「観客の"今"」は解離しているから、双方向の相乗効果は薄れてしまう気がする。あと「良い作品は映像で観ても面白い」と書いたが、そんなに面白いと思えないような作品でも、生で観ると面白いのだ、不思議なことに。「わけわからんな」と思いながら観ているその時間が、なんかよくわからないけど面白かったりするんだ、本当に不思議だけど。

加藤拓也さんはとくに、舞台作品の映像化や書籍化を全然しない人だ。だから今回も、録画録音は絶対NGだし、アーカイブも残らないだろうなとは思っていた。まあそもそも「Skypeを使ったインターネット公演のアーカイブ」って、それ映像作品と何が違うんだよって感じだが。

前述の通り、加藤さんは「今」を何より重視する人で、かつ演劇は「演劇行為」だという持論を持っている。
ちなみに過去にはこのように語っている。

 

自分たちが上演する作品はやがてあなたの記憶だけが演劇行為の証になる。どんな演劇行為であったか、あなた達が頼りだ。私たちはあなたの記憶を頼りに演劇行為を思い返す日が来るかもしれない。演劇だけはなく、演劇行為であったことを忘れないでほしい。
(『今日もわからないうちに』パンフレット、前書きより)

 

こんなこと言われたら、書くおたくはますます書くしかなくなる。自分の記憶を記録するために観劇感想を書き留めていたが、それ以上の意味を持つ気がしてくる。
先ほど挙げた「双方向性」は、実際に観劇している瞬間だけでなく、見終わった後も続いているのかもしれない。

 

いやでも、私が今回「生配信」であることが大事だと思ったポイントはそこではない。

今回の公演で強く感じたのは、「今この瞬間ここにいないと観られない」という制限があることも、演劇の要素として欠かせないということだ。

もちろんこれは先の「今」「生身」「双方向」というところとも繋がってくるけど、「集中して観なければいけない場」があるのも大きいと思う。

見逃したら二度と観ることはできず、観ている最中に起きたこともすべて今しか味わえない。
だから、観るための準備を整えて、"劇場"へ向かう。

 

演劇でも映画でもライブでも、やっぱり「その場に行って観る」というのは特別だ。
このあたりについては、別の人が詳しく書いてくれていて、私もまさにその通りだと思ったので、リンクを貼っておく。


Skypeでの生配信、というか通話に参加するという公演形態は、劇場に行くのと同じとまではいかないけど、極めて似た状況に私を導いてくれたと思う。

 

 


じゃあ、なぜそこまでして、今、演劇なのだろうか。


私は最初の感想で「無意味な会話をフィクションでやる意味ってどこにあるんだろう」と書いた。

一晩経って思うのは、「無意味なものにこそ意味ってあるよな~」ということだ。
矛盾するようだけど、無意味だから意味がないわけではなく、無意味だからこそ意味があることもたくさんある気がする。

というか、たぶん意味があるかないかなんて、誰にもわからないのだ。
今は意味がないことも未来には意味のあることかもしれない。逆に今は意味があると思っていても、実は意味なんてなかったことがわかるかもしれない。あるいは、私には無意味に思えることが他の誰かにはとても大きな意味を持っていたり、私は意味があると思っていても誰にも理解されなかったりすることもあるだろう。

「それ何の役に立つの?」みたいな問いは、それこそ無意味なものだ。ナンセンスといった方がニュアンス近いかも。


無意味だから、意味がある。
「意味なんてない」と言われると、逆に「どういう意味?」と考えたくなる。

 

そして今回「無意味」と銘打って繰り広げられるのは、私たちの「日常」だ。

じゃあ私たちの日常は無意味なのか?
答えはNoだろう。
生きているだけでそこには何らかの意味が自然とついてくる。

 

物事に意味を見いだすことは、物語を紡ぐことと似ている。

 

だから、私には物語(フィクション)が必要なのだと思う。
他人の物語に触れることで、自分の物語の意味を知ることができる気がする。

 


さらに「演じる」ことも、すべての人が生きる中で無意識にしていることだと思う。家での自分、学校での自分、仕事をしている自分、友達と話す自分、恋人と過ごす自分、このすべてが同じだという人はなかなかいないだろう。
それを意識的にやるのが「演劇」なのだが、「演劇」という枠組みの中で演じることで、生きる上で無意識に背負っている役割から解放される部分もある。

これは決してやる側だけの話ではなく、観る側でも同じだ。私は、劇場の客席で「観客」という役割を演じている。


だから、今、私には演劇が必要だ。

今、自分の生きている世界を違う枠組みで捉えたい。
今、自分が生きている現実から解放されたい。
今、自分が生きている毎日に新たな意味を見出だしたい。

他の人はどうかわからないけど、私が演劇を、物語を、フィクションを、エンターテイメントを求めるのはこのあたりにあるような気がする。

エンターテイメントは生きていくのに必須ではない不急で無意味なことかもしれないけど、私には絶対に必要で、大切なものだ。
ライブも舞台も野球も全部が中止や延期になった今、劇団た組がこういう試みをしてくれたことが、私はとても嬉しかった。本当にありがとうございます。

 

 

 

ここからは役者さんの話。


普段の舞台では、衣装着て、髪の毛セットして、お化粧してるであろう役者さんたちが、髪の毛ぼさぼさノーメイクでビデオ通話してる無防備さがヤバかったので、若手俳優おたくはそれだけで観る価値あるかも。


とくに大河(勝大さん)、髪の毛ぐしゃぐしゃ~ってやったり、頬っぺたむにむにしたり可愛い。セットやメイクしてたらできないような仕草。
いやでも、めーーーっちゃ顔とか髪とか触るやん!そりゃ感染するわ!!!!とも思った。
そういえば大河は、居酒屋公演のときも、首とか触ってた印象強い。身体の一部を触りながら話すクセがあるんだな~。それが勝大さん本人のクセなのか、大河のクセなのかわからないけど。


秋元さんはとにかく声が良い~~~~!!!!
友達に話すラフな口調で、パソコンのスピーカーから声が聞こえる破壊力すごい。
お顔も端正な方だし、身なり整ったキャラクターだったから、目元が見えなかったのマジで悲しすぎる……通話参加者のアイコンはどうしたら消せたんだろう……顔の良さを浴びたかった…………。


健介、というか中山求一郎さん、髭生やすと別人だった!『貴方なら生き残れるわ』でしか知らなかったからびっくりした~!
大河とのやり取りに親しさが滲み出ててこっちもにこにこしてしまった。


幸作さんだけ私、映像が映らなかったの本当に悲しすぎる………腹筋も見たかったし、15歳の彼女の話とかどんな顔でしてたのか見たすぎた…………。
あと公式で「通信環境の良いところでないと映像のトラブルある」とアナウンスされていたけど、私が観ていたのはWi-Fiさくさくの自室だったから、通信環境に問題はなかったと思うんですよね……本当に謎……。

 

劇団た組の芝居は基本的に「素」ぽい演技を求めるタイプだから、役者ファンが観に行くとめちゃめちゃ楽しいと思う。毎回、キャスティングもめちゃめちゃ良いし、かなり狙ってその人ならではの役をあててる感じするから最高。

 

今回のインターネット公演も、それぞれが自然かつ意外ですごく良かった。

 


結局あんまりまとまらなかったけど、書きたいことは書いたので終わります。
早くまた劇場で演劇が観られるようになりますように!

 

※最初に書いたのはこちら

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより