エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

劇団年一『肌の記録』を観て感じたこと、考えたこと


2020年5月7日(木)
劇団年一『肌の記録』

を観た。

 

脚本・演出は劇団た組の加藤拓也さん。出演は柄本時生さん、岡田将生さん、落合モトキさん、賀来賢人さんだ。
新型コロナウイルスの流行で、公演はおろか稽古すらできなくなった今、「オールリモートでビデオ通話を使った映像のような演劇のような新しい作品」として公開された。


上演期間は【5月7日(木)~5月21日(木)】の期間限定なので、まだ観ていない人はぜひ観てほしい。
https://youtu.be/cosy5UZML7g

 

 

以下、読んでいる人も観た前提で勝手に語ります。
またレポのような感想のような自分語りのようなまとまらない文章になってしまったけど許してほしい。

 

私は、脚本・演出の加藤拓也さんのファンだ。
出演者の四人のことは、ほとんど知らない状態で観た。


加藤拓也さんを知らない人にさらっとだけ説明しておくと、劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

どれくらい「今」を掬い取るのが上手いかというと、4月にはいち早く現在の状況を下敷きにSkypeを用いたインターネット公演を行っているくらいだ。*2

 

だから、今回の『肌の記録』も、とても楽しみにしていた。
こんなときだけど、こんなときだからこそ生まれた表現方法で、今しかできないことをやる。しかも、たぶんこんなときじゃなかったら一緒にできないようなメンバーで!もう絶対面白い……試みの時点で面白い……。
正直、かなりハードルを上げていたと思う。でも、その期待を裏切らない面白さだった。「映像のような演劇のような」と銘打たれており、本人たちは「映像作品」と呼んでいるが、私は観て「なるほど、これはこれで"演劇"だな」と思った。

 


舞台は今から100年くらい未来。
疫病の流行で、外出は基本的に禁止。仕事も学校も全部リモートで、友達と遊ぶのもオンライン。
そんな「もしかしたらあるかもしれない未来」のお話だ。

 


最初に画面に現れるのは、柄本時生さんだ。

「僕たち幼馴染で30歳なんですけど、まだ会ったことがないんですね、全員」


部屋を歩きながら、そんな物語の背景を説明していく。


登場人物は、四人だけ。
全員、役者さんと同じ名前のようだ。
中身まで同じかどうかは、私にはわからない。

 

カメラを持って部屋の中を移動する四人。
全員が白い壁を背に落ち着き、トキオの画面に「6」と書かれた紙が大きく映し出される。。


「では、6歳をやりまーす」

そう宣言したかと思うと、次の瞬間、マサキ、モトキ、ケントの三人は6歳になっていた。手には自分の子供時代の顔写真を張り付けた人形を持っている。


「先生やります」

トキオは眼鏡をかけて改めて画面を見つめ、子どもたちに自己紹介を促す。
これは、四人が初めて出会った日、小学校の入学式のようだ。

 


普通の映像作品であれば、別々に撮った映像を切ってつなぎ合わせ、時間や場所の変化を表現する。
演劇の舞台ではもちろんそんなことできないから、照明や舞台装置を変化させることで場面転換を行う。この不自由さが、演劇の面白いところでもある。


今回の『肌の記録』は、映像作品ではあるが、オールリモートの一発撮り。制約はむしろ演劇よりも多いくらいかもしれない。
だから自然とワンシチュエーションになるのかなと思っていたが、全然そんなことなかった。*3
カメラのアングルも工夫されていて、背景や角度が毎回違うため、観ていて面白かった。(ていうか生活感丸出しの柄本時生さんのおうち探訪したり、真下から落合モトキさんを観たり、落合モトキさんが猫ちゃんと戯れるところを観たり、岡田将生さんと一緒に寝転んだり、賀来賢人さんとくるくる回ったりなんて、なかなかできる経験ではないと思うんだけど、これ俳優推しの人、生きてる?大丈夫?)

 

場面転換のやり方はすべて同じ。
人物がカメラと共に移動し、トキオの画面に年齢を示す数字が書かれた紙が映る。そして、誰かが「〇〇やります」と宣言した瞬間、その年齢のその人物になる。


この「〇〇やります」と宣言して演技に入ったり、シュールな小道具を用いるやり方は、今年2月に上演された劇団た組 第20回目公演『誰にも知られず死ぬ朝』の演出に似ているなと思った。
『誰にも知られず死ぬ朝』でも、登場人物が冒頭に年齢を宣言する。安達祐実がはにかみながら「13歳をやります」と宣言した瞬間、本当に13歳の少女になったのには度肝を抜かれた。いや、本当の安達祐実は38歳なのはわかっているのだが、でも目の前に現れたのは13歳の少女だったのだ。小道具の使い方もそうだ。机の脚が屋上の手すりになったり、ラジコンカーが本物の車になったりする。それも、本当は違うのはわかっているが、舞台上で"そう"なっているから、観客も「ああ、"そう"いうことなんだな」と信じる。*4


演劇は制約が多い。
だから、そこにないものをあるように見せたり、そうじゃないものを本当にそうであるかのように思わせたりする。
舞台上はそういう「嘘」に満ちている。
でも、役者と観客がその「嘘」を信じることで、それは「本当」になる。


私は、演劇には「双方向性」が必要不可欠だと思っている。
役と役者の双方向性。舞台上と客席の双方向性。そこでは虚構と現実が混じりあい、新たな物語が生まれる。


どう見ても成人男性である俳優たちが「6歳をやります」と言った瞬間、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。
奇妙な裸の人形に顔写真が貼り付けられたものの掛け合いを観て、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。


どう見ても違うものを"そういうこと"として提示するのは、観客のことを信頼していないとできないことではないだろうか。
もちろん役者さんの演技や、脚本や演出が上手いのもあるけど、観客も同じ景色が見えている、同じ世界に生きていると信じてもらえている気がして、少し嬉しい。

 

 

このような場面転換を繰り返し、出会った時は6歳だった四人が少しずつ成長していく。
VRでゲームやスポーツをしたり、古い文献をもとにでたらめなかくれんぼをしたり、"おセック"への好奇心を膨らませたりしながら、大人になっていく。

とくに"おセック"への食いつきぶりはものすごかった。
この社会では、異性との出会いもオンラインでのお見合いに限られている。オンラインで知り合い、オンラインで親交を深める。そして、結婚することになって初めて会って"おセック"することができる。
だから、結婚相手以外との"おセック"は考えられないし、それも子作りという明確な目的があっての行為のようだ。コンドームは過去の遺物となり、AVなんてものも存在しない。子どもたちは18歳になると国が作った"おセック"の動画で勉強する。

でもこのへんは正直、「んなわけあるかいな」と思いながら観ていた。
実際に会うことはできなくても、小説や漫画は存在するはずだ。今だって1000年以上前のどえろい文章が読めるくらいなんだから、100年後でも今のえろ本は生き残っていそうである。
ていうかそんな社会ならVR風俗とか発達してそうだなと思ったりもした。いや、まあそのへんは描かれてないだけって可能性もあるれど。
エロの分野こそ、私はフィクションの力を信じたい。

 


さて、一つの転機は、マサキがお見合いで出会った女の子に実際に会いに行ったことだ。

外出は許可がないとできない、それどころか他人とリアルに触れ合う機会は皆無の社会で、マサキは危険を冒してまで行動した。
そして、感極まった様子で、好きになった相手と実際に会って、彼女を抱きしめたことを報告する。
外の世界に興味を持ちながらも、何度も「……リスクがね」と繰り返してたマサキがだ。


そんなマサキの行動に一番影響されたのはケントである。
ケントは一度も家から出たことがないらしい。
しかし、マサキの「意外と大丈夫だった」という言葉で考えが変わる。

そしてケントは「みんな一回オフラインで会ってみない?」と提案する。
だが、その誘いに賛同する者は誰もいない。
モトキは最初から外の世界に興味がないし、マサキも女の子には会いに行ったのにケントと会うのは乗り気ではないようだ。

「病気のリスクとかあるし、相手にうつすかもしれないし」という言葉は、今の現実世界の状況とも重なる。

 

「でも、みんな画面だから、ほんとにいるのかな、と思う」というケントの言葉には共感した。
SNSでどんなに親しくやり取りしていても、たとえ通話したことがあったとしても、オンラインで知り合った相手と初めてオフで会うときは「うわ~本当にいた~!生きてる~!」という気持ちになる。Twitterのフォロワーとか、全員botなのでは……と思うこともある。
離れていても繋がることができるツールがいろいろあるが、結局は「生」の感覚に敵うものはないんだなと、しみじみ思う。
でも、彼らはまだ、その「感覚」を知らない世界に生きているのだ。

 

それからケントは、少しずつ外出をするようになる。
街の人の少なさに驚きながら、まだ使われていない家に忍び込む遊びをするようになる。


四人は誰とも会わないまま30歳になった。
マサキも結局、結婚はしていない。

 

廃墟に忍び込むケントを、ビデオ通話で見守る三人。
そこでケントは、演劇の台本を見つける。

「映画は家で観るからいいけどさ、演劇って場所に集まって観てたらしいよ」
「え、それくそリスク高いじゃん」

そして四人はその台本を読み合わせてみることにする。
ケントが撮った写真を共有し、じゃんけんで配役を決める。(ずいぶん奇妙なじゃんけんで三すくみではないようだったけど、100年後のじゃんけんどうなっとるんや……?)

 

登場人物の名前を聞いてすぐに、劇団た組の『在庫に限りはありますが』だと気が付いた。
2019年4月に上演された、ハンバーグ屋が舞台のお芝居だ。*5


主人公の洸一は、人前で食事ができない。
妻の里奈とは、なんとなく上手くいっていない。

里奈は、「家族と一緒にご飯を食べたいって思っちゃいけないの?」と洸一に訴える。
と同時に、「家族だから、家族とセックスはできないよ」と洸一を拒む。

二人はお互いに初めて付き合った相手であり、そのまま結婚した。
でも里奈は、本当にそれでよかったのか、もやもやしたものを抱えている。


そんなお話だ。

 

最初は「え、何で『在庫に限りはありますが』?」と思ったが、四人が照れながら読み合わせを始めたのを聞いているうちに、「『在庫~』は、実際に会って触れることで心を通わせる社会だからこそ起きる問題の話なんだな」と気が付いた。
結婚する前に他の人と付き合ったり抱き合ったりするのが普通の社会だから、自分が一人の相手しか知らないことで思い悩む。
子どもを作るだけでなく、コミュニケーションとして肌を触れ合わせるのが普通の社会だから、仲の良い夫婦であってもセックスレスであることで亀裂が入る。
そして、洸一の「人前で食事ができない」ことが問題視されるのも、誰かと一緒に、向き合って食事をすることが大切にされている社会だからだ。


今の四人が生きている社会にはないものばかり。
それは、読み合わせながら本人たちも感じたらしい。


台詞にこめられた切実な思いに、読んでいる二人も、聞いている二人も、あてられていく。

 

この場面の、間と空気が、本当にすごい。


それぞれが、何かを感じているのがひしひしと伝わる。
そして、夢から覚めたように、あるいは何かを誤魔化すように、元の空気に戻そうと話し出す感覚が、本当にリアル……というか、手触りがあって、凄かった。

 

三人が飲み物を持って帰って来ると、ケントは泣いていた。

 

「これ実際の人間に会った時に言えんのかな……」

 


彼らは、オンライン上でしか誰かと会ったことがない。
実際に対面で話すときの、相手から言葉以上の何かが発せられるあの感覚を知らないのだと思うと、私も何も言えなかった。

 

 

沈黙を破ったのはケントだ。

「誰か来た!……音がした!」

「うそうそうそうそ」
「え、マジ?」
「ヤバいヤバい」
「声出さない方がいい!しーっ!しーっ!!」


一気に漲る緊張感。
息を潜める四人。
ケントの画面は暗闇に包まれる。


「……うっそ~!」


と次の瞬間、ケントが歌うような声で言った。


「うっそ~」

「は、え?」
「なんだよ~!」
「あー、よかったぁあ……マジでびっくりした~」


観客も、三人も、ケントの演技に騙されたのだ。

 


……ああ、またやられた。
加藤さんの脚本は、こういう演出が本当に上手い……。
嘘のような本当と、本当のような嘘が交差する。

 

と思ったら、これで終わりではなかった。

 

グループ通話から画面が切り替わり、トキオだけが大きく映し出される。


「はい、というわけでね、僕たち30歳になってそれでどうやって生きているのか……というお話でした。…………実際にはこうやって会わなくても機械のおかげで生きていけるんでね!機械様なんですよ!頼るのは人間じゃない!機械なんですよ!機械は裏切らないですからね!」

 

「お疲れさまでした~」と手を振るトキオ。
そして、画面が再び四分割に戻る。

映し出された四人の姿は、先ほどまでとは明らかに何かが違っていた。

 

「……はい、というのはどうかなと思うんですけど~」


頭をくしゃくしゃにしながら意見を求める時生に、三人がぽつりぽつりと意見を述べる。


劇中劇!!!!!!!!
100年後の未来、全部、劇中劇!!!!!!!!!!


演劇ではよくあるオチではあるが、完全にやられた。
フィクションの中でフィクションをやる、あれ。
しかもラストは私たちと同じ"今"に全員生きていることがわかる、裏の裏は表……的なあれ……。


劇団た組のインターネット公演では、最初が"今"の話で、そこから1年後、2年後とスキップしていったので、置いて行かれるような連れていかれるような感覚に陥ったが、今回はその反対だった。
一気に"今"の"現実"に引き戻される、強烈なショック。
彼らの"嘘"を"本当"だと信じていたからこそ、本当は嘘だった現実に衝撃を受けた。

 


タイトルの『肌の記録』は、「今、肌で感じることの記録」という意味なのかなと個人的には思った。


物理的な接触としてという意味でも、私たちは「肌の記録」と「肌の記憶」を持っている。
でも、100年後に生きる彼らは、肌と肌が触れる感覚を知らなかった。


実際に触れなくても、肌は様々な感覚を伝えてくれる。
ざわざわしたり、ぞくぞくしたり、ちりちりしたり、ひやりとしたり…………。
演劇を観ているときに私は、肌で、それらの感覚を受け止める。
舞台上の役者が起こす空気振動と、客席から起こるかすかなざわめきと、自分の奥底から沸き上がる何かが、私の肌を外からも内からも刺激する。
そうして私は、皮膚によって隔てられた「私」と「私以外」の狭間で、新たな何かに出会う。

 

 

「100年後、どうなってるのかね」

 

 

それは誰にもわからないけど、人間が生きている限り、そこには「物語」が生まれるし、人間は生きる中で様々な役割を演じながら暮らしているから、「演劇」がなくなることはないんじゃないかな~~~~~~~~~~~~~~~~と思う。

ていうか、こんな強烈に面白くて刺激的なもの、手放せるわけない。

 

映像作品だけど、演劇の魅力を再確認させられるような、「新しい作品」に出会えて良かった。


まとまらないけど、終わります。

 

 

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより

*2:そのときのレポと感想はここ→ 劇団た組インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観た - エモーショナルの向こう側

*3:ちなみに劇団た組のインターネット公演では、ビデオ通話のオフが暗転の代わりのような働きをし、時間の経過が表現されていた

*4:このへんの詳細は、『誰にも知られずに死ぬ朝』の記事で→ 劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側

*5:これの感想はこちら→ 劇団た組。『在庫に限りはありますが』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側