エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』が凄かった話

 

5月24日(日) 22:00~
音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』

作・加藤拓也
読み・藤原季節


を、観た。というか聞いた?……というか、観た。


いや、もう、凄かった……………………ほんとにほんとに凄かった…………………………………こういうこと思い付く加藤拓也さん凄いし、それを藤原季節さんにオファーするセンスが最高すぎるし、こんな無茶苦茶な企画をちゃんと一つの作品として成り立たせる藤原季節さんがほんとにほんとに凄かった……………………

 


観賞直後の感想というかレポというか、とにかくこの気持ちを新鮮なまま残したいので、支離滅裂になるかもしれないけど書く。

 

 

YouTubeでの配信。アーカイブはなし。
「本作品は音がございません。上演台本と配信映像を同時にご覧いただきながら観賞する作品となっています」と説明されていたので、案内通り劇団公式LINEから台本をダウンロードした。

加藤拓也さんはTwitterで「先に台本読んでも、同時に読み始めるでも、自由です!」と仰っていたけど、私は事前に読んだ。


ダウンロードした台本は、「台本」というより「小説」だった。
ちょっとびっくりしたけど、よく考えたら「朗読」ってそういうものだ。


『私の世界のすべてだったお前』は、全部がウソの世界で、役割分担に苦しみながら、ぬるさを抱えて生きている「僕」の話だ。これ以上、なんて説明したらいいかわからない。小説としてめちゃめちゃ面白いし好みの話だったから、配信観てない人も今からでもダウンロードできるなら是非読んでほしい。

読めばわかるが、この話は「小説」であることに大きな意味がある。
あと、主人公のビジュアルや作品全体の雰囲気と、藤原季節さんのイメージが本当にぴったりで、配信を観る前から期待が高まった。

 

しかし、「音のない朗読」とは?

 

ドキドキしながら迎えた当日。
台本を印刷し、夕食やお風呂を済ませ、万全の状態でPCに向かった。


配信が始まり、画面に藤原季節さんが現れる。
「こんばんは」と言っているのがわかるが、音声は流れない。

「音のない朗読」は、文字通りの意味だった。朗読している。でも、一切の音が流れない。何も知らない人が観たら、端末の故障か、イヤホンの不具合を疑いそうな映像だった。
イヤホン刺さってないの忘れて流しちゃったりとか、電車の中で隣の人が動画を観ているのを横からちらっと見たりとか、あんな感じ。


でも、手元に台本があるからか、なんとなく何を言っているかはわかる。不思議な感覚だった。

画面だけ観ていてもわからない。
台本だけ読んでてもわからない。
でも、台本を読みながら観ると、わかる。

声は聞こえないけど、聞こえるような気がする。


私は、イヤホンをして観ていた。
声を聴くためではなく、周りの生活音を聞こえなくするために。
声なき声に耳を傾けるのは、ある意味では静寂以上の静寂と向き合うことになるなと思った。

 

集中して観ていても、時折、今どこを読んでいるのか見失った。
そういう時は、一生懸命台本を読みながら追うよりも、季節さんの口許を見ていた方がよかったのも不思議だった。じっと見ていると、突然"聞き取れる"瞬間があって、再び声が聞こえ出す。

 

季節さんは、本当に凄かった。
決して過剰ではない。でも、不足もしていない。
たぶん本当に普通に朗読してるんだと思う。その映像の音声だけカットしてる。
顔の動きだけで、良い声が出ているのがわかる。音声がないからこそ、微妙な表情の変化や、目線のやり方、口の開け方に集中できる。

 

通常の「朗読」は、多くの場合、音声だけだ。
だから聴き手は、その声を聴きながら、情景を想像する。

そういう意味で、「音のない朗読」は全く逆の営みだった。
観客は、画面を観ながら、声を想像する。


どちらも、限られた情報から、想像で世界を広げるという点では同じだが、私の中ではかなり感覚が違った。

耳で聞く「朗読」は受動的だが、目で観る「音のない朗読」は、ものすごく能動的というか…………観客である自分がかなり必死に「受け取ろう、受け取りたい」と思わないと、受け取れないような気がした。

 

 

季節さんは本当に凄かった。
「受け取ろう、受け取りたい」と思いながら向き合えば、ちゃんと手渡してもらえるような何かがあった。

押し付けるわけでもないし、出し渋るわけでもない。
でも、確かにこちらに向かって扉を開けて、手をさしのべてくれているような、そんな朗読だった。

 

物語の終盤、主人公が女の子と同じ布団に入る。
そして、彼女の身体に触れる。

一人で読んでいるときもドキドキした。
でも、そのときよりも、もっと、ずっと緊張しながら、私は耳を傾けていた。

この頃には、どちらかを注視していても今どこなのか見失うことはなくなっていた。
文章を読む自分と、画面の中で朗読をする季節さんと、主人公の見ている世界が、完全に繋がっているような気がした。

 

主人公の心が揺れる。
季節さんの瞳も揺れる。

目許をぬぐったのは、演出なのか、演技なのか、それとも自然に出た動きなのかはわからない。

 

劇団た組の芝居を観ると、私はいつもそのリアルさと、純度の高さに胸を打たれるけど、今回もそうだった。

自分の中のいろんな記憶と結び付いていくのも一緒だった。


女子大の女子寮で過ごした四年間のこと。
サークルの先輩や友達の家に何度も泊めてもらったこと。
働き始めてから、地元に戻った私のアパートに学生時代からの友人が泊まりに来たこと。


自分の記憶の中の自分と、自分の記憶の中の"女"たちと、目の前の藤原季節さんが、重なる。

 

ラストシーンは静寂に満ちていた。
ずっと音はないのに、でも声は確かに聞こえるのに、そう感じた。

孤独な魂が浮き彫りになるような静寂。


そして配信が終わる。
画面が真っ暗になり、自動で次の動画が再生されかけたところで、あわてて画面を閉じた。


私の目蓋の裏には、最後の季節さんの表情が焼き付いている。
耳の奥には、まだ声なき声の響きが残っている。


私は文字を読むと、脳内で音声が再生されるタイプだから、何を観ても何を読んでも今はノイズになってしまう気がする。
この感覚が残っているうちに何とか記録しておきたくて書いた。


今夜はこの静寂の中で眠ろうと思う。

ものすごく良いものを観た。

 

 

と、ここで終われば一つの文章として綺麗だよなと思ったけど、まだ書きたいことがあるからもうちょっと書く。


藤原季節さんは、『貴方なら生き残れるわ』で知った。
でも、その時は正直それほど意識してなかった。たぶん演じていた松坂が、私にとって思い入れのあるキャラクターではなかったからだと思う。
でもそれは、あの脚本の中の松坂としてはたぶん正解で、藤原季節さんはものすごく繊細な演技をしてたんだな……と気がついたのは、観てから随分経ってからだ。

私が「いや、藤原季節さんめちゃめちゃ良いな?」と気がついたのは『誰にも知られず死ぬ朝』だった。
青年の脆さ、危うさ、透明で繊細で壊れやすいがゆえの虚勢が、そのまま人間の形をして立っているようだった。

水面の揺らぎのような、微妙な、でも確かにそこにある、一言では言えない何かを、変にわかりやすい形にすることもなくそのままそっと持ってきて見せてくれるのが上手い人なんだな……という印象だ。

今回で、その思いは余計に強くなった。

 

ていうか、表情と少しの仕草だけであんだけ伝わるって凄くない!?

あと、顔を見てるだけで明らかに良い声が出てるのがわかったので、音声だけのデータもほしいです、私…………

藤原季節くんファンの人とか、今頃「……人魚姫じゃん」ってなってない?大丈夫?

 


そして、今回の台本の元となったのは『貴方なら生き残れるわ』のパンフレット巻末に掲載されてる未発表の小説だと思うんですけど、そこで加藤さん「この続きが8万字くらいあります。まじか~」って書かれてるんですよね…………続きは……続きはいつか読ませてもらえるんですか????
8万字あれば文庫本換算で120ページくらいになると思うんですけど、どうか……どうか………………

 


あと、タイトルについて少しだけ。
『私の世界のすべてだったお前』という題名だけど、主人公は「僕が見てる世界は全部ウソなのだ。いや、もしかしたら、僕の見えない部分がウソなのかもしれない」と言っている。
主人公の、ウソの世界の中では、目の前にいる彼女だけがホントウだったんだろうか。
それとも、ウソの世界の中で、"彼女"だけは、"ホントウ"の"私"を見てくれたんだろうか。

 


まとまらないけど、終わります。