エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

ハイバイ『投げられやすい石』を観た体験記のようなもの

12月5日(土) @三重県文化会館小ホール
ハイバイ『投げられやすい石』
作・演出:岩井秀人


を観てから気がついたら一ヶ月が経とうとしている。
ていうかあと数時間で今年が終わる。ヤバい。


よくわからない感情でぐちゃぐちゃになって、なんとか咀嚼したいなと思っていたんだけど、結局上手く飲み込めないまま年の瀬になってしまった。

スマホの中には観終わった直後から書き溜めた断片的なメモが溢れていて、これをどうまとめたらいいかもう全然わからないので、諦めてこのまま載せることにする。

結局また、レポでも感想でもないただの自分語り。
ネタバレとか気にせず、思いつくままに書いてる。

 


三重県文化会館小ホールを訪れるのは一週間ぶり。
先週は下鴨車窓を観に来た。

でも、同じホールなのに舞台の組み方が全然違ってびっくりした。


下鴨車窓の『散乱マリン』では、両側に袖幕があり、天井の高さが強調されていた。
一段上がったステージ上と、少し凹んだ芝生のスペース。そこにバラバラになった自転車が積み上げられていた。


ハイバイの『投げられやすい石』は、袖幕はなく、舞台脇の照明機材も全部丸見えだ。
一段高くステージが組まれているのは下鴨車窓と同じ。
舞台後方に大きな写真パネル。これが書割のような役割をしていた。
舞台上には、無造作に散りばめられたベンチや雑誌。そして、上手側の隅には、丸い小さな石がいくつも置いてある。


開演時間になり、舞台後方の幕を割って、男が一人現れた。
個性的な服を着た男は観客に向かって前説を始める。

「ご来場ありがとうございます。こういう時期なので、上演中に飲み物を飲んだり、飴を舐めたりしていただいて構いません。ただ、時々いるじゃないですか、飴の袋を、こう、ピリ……ピリ……って開ける人。あれ意外と気になるので、飴の袋を開けるときにはビリッと!ひと思いに!お願いいたします」

こんなことを言いながら、倒れていたベンチを起こして並べる。


女も出てきて、ベンチに座る。


そしてそのまま、本編が始まった。


出演する役者が出てきて喋って、そのままシームレスに芝居に移行するのは、最近の劇団た組でよく観た方法だけど、もしかしたら劇団た組の方がハイバイの手法を真似ていたのかもしれない。
どちらが先かはわからないけど、どちらにしても私はこういう演出がとても好き。

 

「天才」の佐藤と、「凡人」の山田。
佐藤は山田の才能を認めているが、山田は自分自身に才能があるなんてとても思えない。

周囲からも認められ、順風満帆の佐藤。
しかし、佐藤はある日突然、姿を消す。
佐藤の恋人の美紀は佐藤の失踪を機に心身のバランスを崩し、山田は山田で佐藤のことを思いながらも、美紀と寝て、まあそういう意味で寝て、まあそういうことになる。


そして2年後、山田が佐藤に呼び出され、物語が動き出す。

この頃にはベンチは、美紀に引きずられ、山田に組み立てられ、椅子になったりコンビニのラックになったりしていた。

山田は山田で、話しながら服を着替えていたりして、そういう場転がすごく面白かった。

 

2年後、佐藤は変わり果てた姿で現れる。

明らかに目つきがおかしいし、顔色も悪いし、服装もなんだかちぐはぐで、関わったらいけない空気が漂っていて、山田もできれば関わり合いになりたくないなと思ってしまうけど、佐藤はガンガン絡んでくるから、逃げることもできない。

でも、明らかに様子がおかしい。
それでいて小脇にキャンバスらしき黒い袋を抱えているのが、尚更おそろしい。

 

佐藤は山田に尋ねる。

「最近、描いてるか?」

山田は曖昧な返事しかできない。

 

なんだかこのあたりからずっと、私は「助けてくれ」みたいな気持ちでいっぱいだった。
明らかに様子がおかしい人間がずっと目の前にいるのがしんどい。
山田がしんどそうだから、余計にしんどい。
そしておそらく最近は全く描いてない山田が「描いてる」と答えるのもしんどい。
自分に言われてるわけじゃないのに、私は創作というほどの創作をしてるわけでもないのに、なんだか無性にしんどくて、逃げ出したくてたまらなかった。

 


山田と話していた佐藤が突然「これ知ってるか?」と、落ちていた石を掴む。
そしてそれを放り投げるのだが、なんだか意味のわからない動きでやる。

「え、何それ!?」と驚く山田。
佐藤曰く、右手で投げようとするぎりぎりで左手に持ち替えて投げるらしい。

説明を聞いても意味がわからないし、何が正解かも全くわからない。

でも、佐藤は夢中でそれをやる。
山田も佐藤に教えてもらいながら、夢中で石を投げる。


奇妙に身体をくねらす二人の男。
うまく飛ばずに散らばる石ころ。

止まった車から流れ出す音楽が二人を包む。
明らかにおかしいのに、なんだか可笑しくて、笑うのと泣くのの間みたいな不思議な感覚だった。

ゲラゲラ笑ってる二人を見ながら、なぜ自分は泣きそうなのかよくわからなくて、とにかく一生懸命に何かをやる様子っていうのは問答無用でぐっとくるんだなと思ったりした。
その行為に意味があるとか、ないとか、そんなのはたぶんどうでもよくて、一生懸命に、それをしてることが、たぶん大事で、佐藤はたぶん何に対しても一生懸命すぎるほど一生懸命でそれがこわくて、山田は山田で一生懸命になれることが今はないように見えて、そんな二人が一生懸命に石を投げているのが、なんだか、すごく、切なくて愛しくて、ぐちゃぐちゃになった。

 

 

 

創作活動をする人には狂気が必要な気がするけど本当に狂いきってしまったら作品なんて作れないような気もするし、でも創作活動してる時点で狂ってるような気もする。

どんなに下手でも書いてる奴のほうが偉いのは確かで、でも自分に才能がないことを知りながら書き続けるのはしんどくて……


芸術家というのは、石を投げられやすい存在なのか?

「投げられやすい石」って、「投げられやすい」は「石」にかかる修飾語だと思ってたけど、もしかして違うのか?

「投げられやすい、石」なのか?

 


書いてない人の方がたぶん世の中にはたくさんいるのに、書いてないことに罪悪感があるのは何故だろう。
書かないことは罪ではないのに。誰にも迷惑かけてないのに。

書かないことは罪なのか?

聖書の一節に、罪を犯したことのないものだけが石を投げなさいと言うと、誰も石を投げなくなったという有名なエピソードがある。
これは皆が自分の中にある罪を自覚し、恥じての行動だけど、書かないことが罪であるなら、書くのをやめたやつはもう二度と創作に身を投じることができないのか?

「石を投げる」というのが作品を作ることであったら?
才能のあるものだけが作品を作りなさいと言うと、誰も作品を作らなくなるのか?
他人に石を投げられてでも書きたいという強い気持ちがあるものだけが芸術家だと言うと、誰も作品を作らなくなるのか?


実際は、悩みながら迷いながら書き続けるしかないんじゃないか?

 

ていうかこの、何かを書かないと誰にも認められない、自分で自分を認めてあげられない感覚って何なんだろう?

 

私は舞台を観たら出来るだけ感想を書くことにしてる。
誰に求められてるわけでもないけど、書かないとなんとなくもやもやする。
なぜか「書かなきゃ書かなきゃ」みたいな気持ちがあって、それが「まあいっか」になるにはわりとそれなりに時間がかかる。
このブログにあげてなくても、Twitterで呟いたり、同行者と語り合ったり、とにかく何らかの形でアウトプットしないと落ち着かない。
長文感想をブログに載せるか、Twitterで感想ツイートを呟くかには自分なりの基準があって、それは観終わった時点で「これはブログ書かねば〜」みたいな気持ちになる。
書きたいという意志と、書かねばという義務感が半々くらい。


感想以外の創作物も書いてないわけじゃないんだけど、書いてるってほどは書いてなくて、私はいったい何者なんだというような気もする。
小説家でも脚本家でも評論家でもない一般人だけど、小説も戯曲も観劇感想も書く。全く書いてない人と、一度でも書いたことがある人間は何かが違う気がするけど、一度書いたことがあるからと言って人生が大きく変わるわけでもないし、良いものが書けているかは全くわからない。
自分が書くおたくだったからか、昔から今まで周りにはずっと書いてる人間がいるけど、でも、大人になってからもずっと創作活動を続けている人は実は意外と少ないんじゃないかと気がついたのは割と最近の話。でも、少ないといいつつ確実にいるよなと思ったのも最近の話。
書かないと何者かになれないような気がしているけど、書いたところで何者になりたいのかはよくわからない。


自分に才能がないのは、自分が一番よくわかっていて、でも私が書かなきゃ誰が書くんだというような気もするから書いてて、書く苦しみと書く楽しさと書いたものへの愛着はまた全然別の話で、あと自分が小説書いてることとか誰にもバレたくなくて、でも書いたからには読んでほしいとも思っていて、でもこれでお金が取れるとかは全く思ってなくて、自意識と欲望と承認欲求と自己嫌悪と、その他もろもろでよくわからなくて、


狂ってるから、かくのか?
かくから、狂うのか?

 

 

舞台上の人間は全員が必死だった。
面白いとか面白くないとか、そういうのはもうよくわからなくて、必死な人間が必死になにかと戦い続けているから、必死で見守るしかなかったし、見ている私は私で身を守らないと死にそうだった。

 


ラスト、佐藤は死ぬ。
狂った絵を残し、美紀の歌を聞きながら、山田の目の前で、店員の姿をした死神に連れて行かれる。

美紀は泣きながら歌いきり、山田はただ、それを見ている。

 

 


観終わってから、どうしたらいいかわからなくなった。
観ている最中はずっとしんどかったから、なんとなく「助かった……」みたいな気持ちだったけど、よく考えたら何も助かってなくて、ただただぐちゃぐちゃだった。


車で来ていたらから帰ろうと思ってナビをセットしていたら、伊勢湾が近いことに気がついて、海を見ていくことにした。

堤防に車を止めたけど、真っ暗で何も見えなかった。
「な〜んだ、夜の海ってつまんないな」と思って、それでも一応車から降りてみようとドアを開けたら、潮騒がぶわっと身体を包んで、唐突に「ここは海なんだ!!!!」という実感が押し寄せてきた。
スマホのライトで照らすと、堤防の下は波が打ち寄せていて、真っ暗だったけど確かに海だった。

寒すぎてすぐに車に戻って帰路についた。

 

 

全然まとまらないけど、私の『投げられやすい石』体験はこんな感じ。

脚本も買って読んだし、あれなら何度もぐるぐる考えたけど、全然まとまらなかった。
たぶんこれはもう私の自意識との戦いなんだと思う。

 

佐藤と山田と美紀の、あの気まずい逃げ出したいような空気の手触りは、たぶんずっと忘れないと思う。
あと佐藤が書いた絵も。怖すぎて、夢に出そうだなと思った。

そういえば終演後もずっと、佐藤の書いた絵の中の佐藤らしき男がこちらを見ていて、こわくてこわくてたまらなかった。
何があんなに人をぞっとさせるんだろう。

 


つらつら書き始めたらまた収まりがつかなくなりそうなので無理やり終わり!

 

ぎりぎり2020年間に合ったぞ!
よいお年を!