エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

劇場で『たむらさん』に会ってきた


10月11日(日) @新国立劇場 小劇場
『たむらさん』
作・演出:加藤拓也


を観てきた。
東京で!劇場で!生で!観てきた!!!!


劇場でお芝居を観るのは、2月の劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』以来、実に7ヶ月ぶり!

正直かなり迷った。
この時期に東京行って大丈夫かな……とか、もし何かあったらいろんな人に迷惑かかるな……とか。

でも、観なかったら絶対後悔するし、県外移動=悪いことではないよなと思ったから、行くことにした。
ただし、劇場以外には行かない、食事もしない、友人にも会わないと決めて行った。本当に行って、観て、帰るだけ。

でも、めちゃめちゃ良かった。
本当に本当にめちゃめちゃ良かった。


制限の解除された客席は満員御礼で、役者の一挙一動にざわめくあの空気に胸がいっぱいになって、全然そういうシーンじゃないところで込み上げてきてちょっと泣いた。

何より、舞台の空気をずっと肌で感じられたことが、生の感覚を同じ場で共有できたことが、本当に嬉しかった。

とくに今回の芝居は、橋本淳演ずる"たむらさん"の一人語りが中心で、語りから生まれる空気がすごくて、直接"たむらさん"に会えたことが嬉しかった。

 

以下、ネタバレとか気にせず勝手に語ります。
レポというか感想というか自分語りというか……なあれ。

 

 

舞台奥にはキッチン、その手前に食卓。そして椅子、椅子、椅子、椅子。
舞台上には様々な形の椅子がばらばらと置かれていた。


開演前のアナウンスが流れ、しばらくして豊田エリーがすたすたと歩いてくる。
しかし、客電は落ちない。舞台上の照明も変わらない。
客席が明るい状態のまま、豊田エリーはキッチンに向かう。観客に背を向け、何やら炊事を始める。


そこに、橋本淳がやってくる。
客席を見て、ぺこぺこと軽くお辞儀をしながら。
一言も発せず、中途半端な微笑みを浮かべているだけだが「あっ、どうもどうも、はい、あ、どうもどうも」といった雰囲気だ。

橋本淳が中央に立ち、客席を見渡し、静かに口を開く。

「あの、相談があって、あ、私たむらといいます。あー、で、相談の前にちょっと遡ってお話しすることになるんですけど、あ、僕、今年30になるんですけどね」

口調や内容はうろ覚えだが、だいたいこんな感じ。
演劇っぽいわざとらしさや力みは一切ない。
ただ目の前にいる人に、少しずつ自分のことを話していく。


それだけといえば、それだけだ。


橋本淳=たむらさんが、自分のことを語る。
その後ろではずっと、豊田エリーが無言で台所仕事をしている。


舞台上には二人の役者がいるが、ほとんど橋本淳の一人芝居のような語りが続く。
でも、それがちっとも退屈ではなくて、むしろただそこにいるだけの豊田エリーの存在感も相まって、不思議な緊張感の中、話が進んでいく。

 


たむらさんは話しながら、舞台上の椅子を動かす。
椅子に座ったり、椅子の上に立ったり、椅子を相手に見立てたりしながら、物語は進んでいく。


小さい頃、身体が弱かったこと。
だから水泳とフットサルをやっていたこと。
幼なじみの女の子が苦手だったこと。
小4で明るいキャラに転向したらいじめられたこと。


最初に動かした二脚の椅子の背には、赤いランドセルと黒いランドセルがかかっていた。
いじめの話をしながら、黒いランドセルの中から黄色い塗料を取り出したときには驚いた。

「なんかドラマで見たことある方法でいじめてくるんですよ。トイレの個室に閉じ込めてホースで水ビシャーとか」

そう言いながら、黒いランドセルに黄色い塗料を塗りたくる。
床に垂れた塗料はぞうきんで拭いて、またランドセルの中にしまう。


「でも、親には何も言えなかったですね。心配させたくないっていうか、普通に情けないなと思って。親父がちょっとやんちゃしてたような人で、俺にもやんちゃな方がいいみたいな話してくるような人だったし」


たむらさんは、いや橋本淳さんは、たむらさんになったり、たむらさんの父親になったり、母親になったり、友達になったりと、独白と会話を行き来する。
椅子に座って語る様子は、つい先日のMISHIMA2020『真夏の死』(『summer remind』)とよく似ている*1
独白と会話の移行がスムーズで、でもそれでいてちゃんと切り替わっていて、役者さんすごいな~としみじみ思う。


たむらさんの物語は続く。


たむらさんの両親は離婚する。
母親がホストに貢いでいたことがバレたからだが、根本的な原因は父親の風俗通いにあるらしい。
そして、たむらさんは父親の方についていくことを選ぶ。


たむらさんは地域のサッカーチームに入った。
いじめっこは、そのことも気にくわない。
些細なことで言いがかりをつけてくる。


たむらさんが、いじめっこと取っ組み合いの喧嘩をする場面。
実際の舞台上では、橋本淳が椅子を相手に格闘をしていた。
椅子に床に押し倒され、必死の抵抗で椅子をはねのけ、足をまきつけ、羽交い締めにする。
無言で行われるそれは、本人にとっては緊迫した場面なのに、目の前の景色は妙に可笑しくて、客席からは、さざ波のような笑いが起きる。
その客席から沸き起こる空気の振動は、劇場でないと感じられないもので、私はここでちょっと泣いた。

 

「でもね、死にました」


たむらさんがそう言ったとき、劇場の空気が一瞬止まった。
それまでの雰囲気と「死」という言葉が、あまりにそぐわなくて、私もすぐには意味が理解できなかった。


たむらさんをいじめていた男の子は、小5のときに死ぬ。母親に首を絞められて。
母親は心中のつもりだったが母親は死ねずに生き残り、息子はしっかり首を絞められて死んだ。


「学校でお別れ会をやって、みんな泣いてるんですけど、正直、雰囲気で泣いてた部分もあると思うんですよね。いや、自分も泣いてましたけど。まあでもいじめてたやつがいなくなったわけで、気が楽になった部分もありますね」

 

たむらさんは中学生になる。
坊主だった髪を伸ばして、美容院なんか行っちゃったりして、モテとか意識しちゃったりして。
イキッて「俺は先輩と知り合いなんだぞ」みたいな顔して上の学年の廊下を歩いたりなんかして。
たむらさんの地域のサッカーチームの先輩は、部活の後輩をトイレに呼び出して暴力を振るっていた。
たむらさんは、地域のサッカーチームに所属しているけど、サッカー部ではないから無関係なのに、何も知らずにその現場に入ってしまう。

殴られ、床に倒れる同級生たち。
ばったばったと倒される椅子。

 

たむらさんは高校生になる。

男子校だけど、近くに女子校が二つあって、女子とはすぐに繋がれる。
最初に付き合った彼女はなぜか一人暮らしをしていて、顔がめちゃめちゃタイプで、でも顔が好みすぎるからか、初めても二回目も失敗しちゃって、そのときに「お前とだと勃たねえわ」みたいなこと言って自然消滅。


同級生には、イキる方向性を間違えた変な奴がいる。
煙草を吸うとかじゃなく、野良猫を殺したりしている。


ポケットから取り出したペンで、床に絵を描き始めるたむらさん。
黒い床に、白いインクで、不恰好な猫が描かれる。


私はそれを見ながら気が気じゃなかった。
「いやちょっと待って!? 床に直接ペインティング!? それ落ちるんやろうな????さっきの黄色い塗料みたいにすぐ拭き取るんだよね????????????」と思っていたら、役者がその上で転がり始めたから、「まままままさか油性!? えっ、それポスカとか、そういう!!??!???!?」と、内心めちゃめちゃ動揺していた。
舞台の床って汚しちゃいけないものだと思っていたから、そんなのありかよ~~~~~~~~って感じだったし、これ一日1公演だからゆっくり落とせるけど、複数公演だったら難しいよなぁ……ていうか綺麗に落ちるんだよな?みたいなことばかり考えてしまった。
観劇後、舞台おたくの友人に話したら「同じ会場で血糊ってか赤い塗料ドバァしてたの見たことあるよ」と言われたので、新国立劇場小劇場はかなりそのへん自由みたい。

 

猫の絵を描き終わった橋本淳は、きょろきょろと舞台上を歩き回り、食卓の下に潜る。
このときの橋本淳はたむらさんではない。殺すための野良猫を探している同級生だ。
そして食卓から顔を出し、猫を見つけ、にやにやと近づいて、飛びかかる。

床に描いた猫の上で転げ回る橋本淳が立ち上がると、上着の中にじたばたともがく何かがいる。
実際は片手を服に突っ込んで動かしているだけなのだが、動きがめちゃめちゃリアルだし、何より橋本淳の目が異様で、明らかにヤバい奴だ。

橋本淳=同級生は、長椅子の裏の木箱に猫を入れる。
そしてその上に、もうひとつの木箱を打ち付ける。

ゴン。ゴン。

と響く乾いた音が恐ろしい。
そして、木箱からふわりと浮き上がった白い風船を迷いなく割る。

弾けた風船の、小さな命の欠片が床に散る。

 

息を飲む観客を引き戻すのも、やっぱり橋本淳だ。
橋本淳は一瞬で、軽やかな口調のたむらさんに戻り、そのヤバい同級生はいつの間にか学校を辞めたことを語る。

そして、自分は高校2年生でバスケ部に入ったと続ける。
今度は床にバスケットコートを描きながら。


たむらさんの語る、ゆるいバスケ部のエピソードは、劇団た組の『貴方なら生き残れるわ』*2のバスケ部とよく似ていて、脚本・演出の加藤さんの中にあるバスケ部がこういう姿なんだろうなと思った。

 

そしてバスケ部の友達に連れられて行った風俗店で、たむらさんは自分の母親を見つける。
先にフィニッシュして出口に送られていく友人の隣を歩く、自分の母親。
「いやいやそれどころじゃないんですけど」となりながらも、あえなく吐き出される精。
黒い床に黄色い塗料がピュッと飛び散る。

 

高校を卒業したたむらさんは、広告代理店に就職して、毎日つまんない飲み会やカラオケに連れ回されながらもなんとかやっていく。
そして、クライアントとして出会った女性と付き合い始める。
「この人と結婚すんのかな」と思いながら7年付き合って、彼女の誕生日にプロポーズする。


ようやく背後の女性が登場したことに私は安心した。
最初からずっと舞台上にいるのに全然話に絡んでこない女性の存在が、なんだか怖かったから。
これでようやく現在に話が戻って、今度は夫婦の話になるんだなと安心した。


「で、ここまでが振り返りで、ここからが相談なんですけど」


でも、その安心は一瞬だった。


「自殺したんですよ、彼女」


再び劇場の時が止まる。


どうして?
さっきまでめちゃめちゃ幸せなプロポーズのエピソードとか話してたのに?
じゃあずっといる彼女は、食事を作り終えようとしている彼女は、いったい……?

 

彼女は、結婚式当日に、ウエディングドレスで踏切に飛び込んだ。

 

彼女の遺書には、彼女が、たむらさんの父親と関係を持ったことが綴られていた。
しかも、たむらさんの父親との子を堕胎していたことも。

 

「本当のところどうしてどうなったのか彼女に確かめることはもうできないわけで、同意だとしても嫌ですけど、レイプしたとも思いたくないし、親父は、誘ったのは彼女の方だって言いますけど、そうだとしても普通、息子の嫁と関係もちます? 」

 

そう話すたむらさんの顔はぐちゃぐちゃだった。
後方の席だったから、表情がはっきり見えたわけではなかったけど、そのときのたむらさんがぐちゃぐちゃなのはよくわかった。

 

「悪いのは明らかに親父なんですけど、でも実際のところ親父が何かの罪に問われて法で裁かれるかと言うと、たぶんできないんですよ。まあ、もう周りからいろいろ言われて社会的には裁かれてるんですけど」

「でも、何かしないと気が済まないんですよ。復讐したいのか、更正してほしいのか、日によってそのへんは変わるんですけど、俺の気が済まないんですよ」

 

中央でそう語るたむらさんの後ろでは、食事の準備が整いつつあった。
女が、二人分の皿を食卓に並べる。
少しずつ、しあわせそうな食卓が出来上がる。

 

たむらさんは、ぐちゃぐちゃだった。
私も、何をどうしたらいいのかわからなかった。

たむらさんの父親が悪いのは確かで、でもそれを裁くような法律がないのも確かで、でもここでたむらさん自身が父親を手にかけたらそれはきっと何かの罪に問われて法で裁かれるわけで、でもたとえ罪だとしても、それは父親の犯した罪を考えると軽いような気もしてしまって、さらにたむらさんが味わった苦しみにも釣り合わないような気がして、どうすればいいのかさっぱりわからなくて、結局たむらさんはどうするんだろうというのをただ見守るしかなくて、

 

やんちゃな方が好きな父親。
風俗通いが原因で離婚した両親。
母親に絞め殺されたいじめっこ。
先輩に殴られて、床に倒された友達。
野良猫を殺す同級生。
高校生も3千円で相手してくれる風俗にいた母親。


今までの光景が、全部繋がってよみがえる。

 


遠くから踏切の音が聞こえてくる。
舞台が暗くなり、SSがパカパカと点滅する。

食卓の下に、白い紙が貼られる。
たむらさんはそこに黒いペンで、線路と踏切を描く。

後ろから照明で照らされてスクリーンのようになったそこに、女が横から花嫁の影絵を差し出す。

踏切の警報音が大きくなる。
電車のゴーッという音が近づいてくる。

たむらさんは黒い床に、白いペンで電車の絵を描く。
影絵の花嫁は影絵の踏切の上を跳ね回る。


電車の音はどんどん大きくなる。

たむらさんの感情に飲み込まれる。
あまりに大きすぎる何かに触れて、ここでも涙が出た。


これはたむらさんの頭の中だ。
ずっと電車の音が鳴り止まない、たむらさんの頭の中。
様々な考えがごうごうと渦巻く、たむらさんの頭の中。

 

 

音が止み、暗転し、ほどなくして食卓のあたりが薄ぼんやりと明転する。

席につき、食事をする夫婦。


「やっぱりさ、復讐かな」
「いや、更正かもよ」


食事を口に運びながら、夫婦は言葉を交わす。


「いや、俺は復讐だと思うな」
「ええー、そうかなぁ」
「たむらさんはどうなんだろうね」


さっきまで"たむらさん"だった男が、他人事のように"たむらさん"の話をする。

いや、彼は、たむらさんではない。
本当に他人なのだ。

じゃあ、さっきのたむらさんは?


「てかさ、実家、犬飼った」
「あ、結局? 何?」
「柴。でもブサイクなの」
「柴でブサイクとかある?」
「ちょっと待って写真見せる」
「……ほんとだ、ちょっとブサイク入ってんね」
「でしょー?」
「名前は?」
アチャコ。で、アチャって呼んでるんだって」
「何それ、アチャでいいじゃん」
「ね、私もそれ送った」

 

他愛ない、しあわせそうな会話。
夫婦のなんてことない日常。

たむらさんが、手に入れる直前で失ったもの。


会話に、少しずつ雑音が混じる。

遠くてよく見えなかったけど、流しの水が落ちっぱなしになっているような気がした。

少しずつ大きくなる水の音。
他愛ない夫婦の会話。

 

 

 

いったい何だったんだろう。
たむらさんは、誰なんだろう。

観終わった後、そんなことを考えた。

 

夫婦の会話からすると、たむらさんはどうやら父親を手にかけたらしい。
それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつかない。

最後に父親を殺して地面に埋めた『今日もわからないうちに』を思い出したりもした*3

 

何が正解なのかも、何が本当なのかもよくわからなくて、でもめちゃめちゃ面白くて、終わってからもずっとぐるぐる考えてしまう。


加藤拓也作品は、この少しずつ暴かれていくような感覚が恐ろしいし、面白い。

あと橋本淳さんが本当に本当にすごかった。
あの人はいったい何者なんだ。

橋本淳と豊田エリーは、加藤拓也さんの『在庫に限りはありますが』*4にも出演していたが、そのときともまた全然印象が違った。

 


さっぱりまとまらないし、何の答えも出ないけど、演劇の面白さを全身で浴びた気がする。


劇場で、たむらさんに会えてよかった。

終わります。

 

 

 

 

 

三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」 『真夏の死』(『summer remind』) 『斑女』近代能楽集より に狂わされた話


9月27日(日) 16:00~
三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」
『真夏の死』(『summer remind』)
『斑女』近代能楽集より


を配信で観た。


前の週の第一弾『橋づくし』『(死なない)憂国』が期待以上に良くて、かなりハードル上がってたけど、今回の第二弾では全然違う方向から突き刺されてまたはっとした。

第一弾が"動"の芝居なら、第二弾のは"静"の芝居という印象。
『橋づくし』と『(死なない)憂国』はどちらも音の使い方や言葉をリズムに乗せていくのが気持ち良くて、流れる音と言葉に登場人物の感情が合わさって濁流になって、気がついたらめちゃめちゃに殴られてる……みたいな感覚だった。
今回の『真夏の死』(『summer remind』)と『班女』は、どちらも沈黙と静寂の見せ方が本当に上手くて、静謐な空気の中に滲む狂気が美しくて、恐ろしくて、鋭利な刃物で切り裂かれるような、突き刺されるような、そんな気持ちになった。


公演は現在アーカイブ配信がされてるので、未見の人は是非こちらからどうぞ。*1
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2065101
【販売期間:2020/10/11(日) 20:00まで】

 

ちなみに第一弾の感想はここ。

 

 

というわけで、また個人的な感想を書き留めておきたいと思う。
ネタバレとか一切気にせずに書くレポというか覚書というか自分語りというか……な何か。

 

 


『真夏の死』(『summer remind』)
作・演出:加藤拓也
出演:中村ゆり、平原テツ


舞台上には二脚の椅子と、男と女。
ノローグ中心のシンプルな語りで物語は進んでいく。


主人公は、海の事故で義理の妹と二人の子どもを亡くした女だ。
女と、その夫の語りが、物語の中心となる。


二人とも話し方がとても自然で、第三者に向けて話している場面でも変な気負いのようなものが全くなくて、本当にただ"その人"としてそこにいた。
語りから会話への切り替えも流れるようで、時間や場所の経過がすっと入ってくる。

二人は基本的に椅子から動かないので、最初は正直ちょっと退屈だった。画面がつまらないというか、淡々と進んでいってしまうというか……。
それがいつの間にか引き込まれていたのは、二人の吐露する心情が真に迫るものだったからだ。
どちらの気持ちも、よくわかる。複雑な気持ちが痛いほど伝わってくる。

 

女は、義理の妹と子どもの葬式で、来る人みんなに「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。
自分がついていながら、こんなことになったから。
自分がちゃんと子どもたちを見ていれば、こんなことにはならなかったかもしれないから。

そして、みんなは慰めの言葉をかけてくれるけど、本当は「お前のせいだ」と思っているんでしょう? と思っている。


自分を責める気持ち。
謝らずにはいられないような気持ち。
それは、他人がそれを望むからなのか?
己の内なる自己ならぬ、内なる他者がそれを言う。

 

女は、義理の両親の前で「申し訳ありませんでした」と泣き崩れる。
娘と孫をいっぺんに失った義理の両親の前で、ただ泣くことしかできない。そのことを悔しく思いながらも、ただ泣くことしかできない。


何人死んでも泣くしかできない。
怒っても泣いちゃうし、泣くだけじゃ悲しみの量とか大きさとか何も表せない。
ていうか泣くって何なんだ?

私にとっての「泣く」は、感情が溢れる瞬間だ。
その感情に名前はない。
一言では表せない何かが込み上げてきて、目から水滴となって落ちる。
その気持ちが何だったのかがわかるのはだいたい泣き止んでからで、最後まで結局わからないこともある。

だから、女が泣きながら「私の背中をさする手は私の気持ちをどこまでわかってるんだろう」と思っているのは、なんだかわかる気がした。

 


夫は、自らも妹と子どもを亡くした悲しみに苛まれながら、なんとか日常を取り戻そうとする。
しかし妻は、悲しみを忘れることを、自分の心の傷が癒えることを恐れる。


不幸な人はいつまで不幸でいなきゃいけないんだろう?
忘れることは悪いことなのか?
時間が一番の薬ともいうけれど、不幸なことを忘れて幸せになることは罪なのか?


いつまで悲しめばいいんだろう……というのも、なんとなくわかる。
親しい人を亡くしても、ご飯は美味しいし、ペットは可愛い。
でも、それを表に出すのはなんとなく憚られるような気がしてしまう。

もっと小さなところだと、Twitterで悲しいニュースを見たときも、思ったりする。
楽しいこと呟くためにTwitterを開いて、悲しいニュースを見ると、どうしたらいいかわからなくなる。

 


妻はライブに行くようになる。
子供の思い出話をするようになる。

自分を罰するために。
辛い気持ちを忘れないように。
徹底的に反省するために。

「楽しめば楽しむほど我に返ったときの反省が大きくていい」と語る女。
でも夫はそんな妻を見て「向き合おうとしてるんだ、立ち直ろうとしてるんだ」と喜ぶ。
致命的なすれ違い。


そうして夫婦は新しい命を授かる。
妊娠がわかったのは、二人の子どもを亡くした半年後だ。

新しい命が自分への戒めになると思っている妻。
素直に喜んだ夫。

ただ二人ともに共通しているのは、子供を亡くしたばかりの夫婦がすぐに新しい子を作るのはどうなんだろうと気にしていること。

 


そして、いよいよ出産のとき。


いきむ女。大きく膨らむ床。
女の苦しく切ない声と共に、床がどんどん膨らみ、椅子にしがみつく女を覆い隠す。


舞台の床にビニールのようなものが敷かれていて、その中に空気が入っていくのだが、これには本当に驚いた。
しかも、よく見ると床が膨らむたびに、さらさらと砂が押しのけられていく。砂!舞台上に砂!!!!
ちなみにぱっと目に入る舞台装置は二脚の椅子だけなのだが、この椅子の高さが変わるのにも驚いた。脚がするするとせり上がり、数メートルの高さになるのだ。ライブの場面ではぴかぴかと光ってもいた。
このシンプルだが、少し奇妙な舞台装置も、夫婦のいびつさを象徴しているのだろうか。


夫婦の間に満ちていた不穏な空気が、妊婦の腹の中でどんどん膨らんでいく。
足元から膨らみ、女を覆い隠すまでになる。
そしてそれがぷつりと弾け、産声と共に、へその緒が溢れ出す。


グロテスクな臓物。
新しく生まれた娘。


男は、慌てて駆け寄り、その肌色の物体を手繰り寄せ、持ち上げ、へその緒を切る。
そしていとおしそうに、自分の身体に巻き付け、抱き上げ、あやす。


夫にとっては希望の象徴。
女にとってはそれは戒め。

 


幸せそうな夫の横で、女は語る。

物語の中の事件は、登場人物にとって何らかの意味がある。
じゃあ、自分達の身に起こったことは?
私たちの子どもが死んだのは、何か私たちの成長に繋がるの?
海に行ったら子どもから目を離しちゃいけませんって教訓? でもそんなのしょぼすぎない?
何かの意味があったの?
でも物語の中の事件も登場人物にとっては意味がなくてもいいんじゃないか?

 


そして、事故から二年後の夏。
新しく生まれた娘が一歳の夏。


女は、あの海に行きたがる。
でも夫はそれに反対する。
夫は、また誰かを失うことを恐れている。


でも、結局行くことになる。
あのときと同じ旅館に泊まることにする。


女は、"戒め"を抱き上げて海へ行く。
話しながら青い布を引っ張って歩き、そこが海岸線になる。

夫は浜辺を歩く妻を、旅館の窓から見ている。
するすると高く上がった椅子の上で、煙草を吸いながら。


女は、浜辺を歩いているうちに、自分の中の子どもたちの記憶がまだ失われていないことに気がつく。


楽しかった日々の、他愛のない日常の記憶。

振り返った女の、中村ゆりの顔が、なんともいえない表情でどきりとした。


女は浜辺を歩く。
波の音が響く。

舞台上では青いバランスボールが跳ね回る。
潮騒が形を持ったら、たぶんこんな風なんだと思う。


女は、海を見つめる。
夫は、女を見ている。

波の音がふつりと途切れる。

 

あ。

 

と、思った瞬間、女は抱えていた"戒"めを海に投げ捨てた。

波にさらわれていくグロテスクな臓物。

でも、それは、グロテスクな臓物にしか見えないけど、それは、

波にさらわれていく、一歳になった娘。

 

私は画面の前で動けなかった。
一瞬の暗転の後、役者が並んで礼をして、観客が拍手を送り、MISHIMAのロゴが回り始める。


加藤拓也さんは、静寂を作るのが上手すぎる。
でも、その静寂をラストに持ってこられると、止まった心臓が動き出すタイミングを失ってしまう。

そしてこうして、物語自体を投げ捨てるような唐突な終わり方も、劇団た組の舞台で観てきたはずなのに、今回はとくに衝撃的だった。


女は、娘を海に投げ捨てた。

それは、戒めを捨てたということか?
もしくは新たな戒めを自分に課した?


どういうことか、わからない。
わからないけど、驚くほど美しい。
ひたひたと満ちていた女の狂気がこんな形で解放されるとは思わなかった。
それまでの夫婦の感情はどちらもなんとなくわかるなと思いながら観ていたからこそ、最後にこんな形で裏切られるとは思わなかった。


賛否両論あるだろうなと思うけど、私はすごく好き。
というか近代文学の終わり方ってこういう「ふつっ」と暗転するようなものが多い気がして、そういうのも含めてすごく好き。

加藤拓也さんのこういう突き放すような終わり方を観るたびに、坂口安吾の『文学のふるさと』に書かれてることってこういうことかなと思う。
このラストに対して「なんでや!!!!!!!!!!!!」って気持ちの収まりがつかない人は、読んでみてもいいかも。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

 

 

(閑話休題)

というわけで、『真夏の死』(『summer remind』)のラストが衝撃的すぎて呆然としていたのが、27日の夜。
続けて『班女』を観るつもりだったが、余韻がすごすぎてとてもそんな気持ちではなかったので、その夜はそのまま寝た。

そして、配信終了間際の29日深夜に、駆け込みで『班女』を観て、感想をまとめたいなと思っているうちに今日になってしまった。

以上、一週間も経ってから感想をあげる言い訳おわり。

 

 

『班女』近代能楽集より
演出:熊林弘高
出演:麻美れい、橋本愛中村蒼


今回の「MISHIMA2020」で、この作品だけは三島の戯曲そのものだ。
だから、舞台設定や言葉遣いにはやや時代を感じる。

でも、それも含めて最初から最後までずっと美しかった。

 


いつまでたっても現れない男を待ち続ける女、花子。
花子は毎日、駅のベンチに腰かけ、電車がくるたびに降りてくる男の顔を確かめるが、愛したあの人はどこにもいない。
待ち続けるうちに、女はついに気が狂ってしまった。


そんな記事が、新聞に載った。

それを読んで気が狂いそうになったのは、画家の実子だ。

実子は、美しい狂女・花子を自宅に住まわせている。
花子を描いた絵だけは展覧会に出してない。

実子が恐れるのは、新聞記事を見た男が、花子のところにやって来ることだ。
そして花子が、自分のもとを去ることだ。


「どこか遠くに旅に出よう。追い詰められたら死ねばいい」

そう実子は言う。

実子は花子の美しさに見入られている。
花子の美しさを愛している。
花子を、花子の愛した男・吉雄と会わせたくない。


実子にとって、吉雄は恋敵なのだ。

 

実際、花子は美しい。
花子を演じる橋本愛の顔が、本当に整っていて、つんと尖った鼻が人形のようで、実子がこの美しさに狂うのもわかる気がした。


花子が美しいのは姿形だけではない。
彼女は一途に愛した男を待ち続ける。
心を狂わせ執着する姿までも美しい。


心を狂わせ執着する姿が美しいのは、実子も同じだ。

「その人の心はあたしの心」
「愛されない人間」

 


そして、実子が恐れていたように、新聞記事を見た吉雄が、花子を訪ねてくる。

しかし、吉雄のことを花子は認識できない。

交換した扇を示しても、名を呼んでも、花子は「吉雄さんのお顔ではない」と繰り返す。

扇を投げ捨て帰っていく吉雄
橋を落とす実子。

「橋」と書いたが、そう呼んでいいのかはよくわからない。
舞台前方、エプロンの中が部屋のようになっていた。
ミュージカルだとオーケストラがいたりする場所だ。
冒頭、実子はそのエプロンから現れる。
でも、そこは会場の観客からは見えないと思うんだけど、どうなってたんだろう?

そして吉雄は、エプロンの前方をつたって、橋のようなものを渡り、花子に会いに来る。

それを、最後に実子は落とすのだ。
もう二度と邪魔者が現れないように。


そうして「私は待つ」と言う花子。
「私は何も待たない」と言う実子。


「こうして今日も日が暮れるのね」
「素晴らしい人生」


二人の、二人だけの人生が続く。

 

鬼気迫る情念、執念、狂気。

美しい。
構図が美しい。
顔が美しい。


『真夏の死』では忍び寄る狂気に自分まで侵食される気がしたが、『班女』は美しい女の孤独な狂気に指一本触れさせてもらえなかった。

ただただ、美しかった。

 

 


この二つの作品は、どちらも静かな狂気に満ちた美しい舞台だったけれど、その性質は全然違っていて、それぞれ面白かった。

第一弾も含め、三島の作品を下敷きに現代のいろんな演出家のお芝居が観れて本当にものすごく楽しかったから、またこういう企画があるといいなと思う。
三島の原作もちゃんと読みたくなった。というか読んでから観たらまた違う感想になる気もする。

 

相変わらずまとまりのない文章になってしまったけど、自分の考えを書いたから、これでようやく他の人の感想を読みに行ける。
あと、特典付アーカイブで加藤拓也さんのインタビューと脚本が見れるらしいので、それも楽しみ!

私はもともと加藤拓也さんのファンでこの企画を知ったけど、これで初めて加藤拓也作品を観た人がどんな感想を抱いているのか正直めちゃめちゃ気になっている。
もし逆に加藤拓也ファンの感想を読みたくてここにたどり着いた人がいれば、2018年以降の加藤拓也作品はだいたい観劇して感想書いてるので適当に漁っていってください。


もしかしたら、他の人の感想読んだり、加藤拓也さんのインタビュー見たりしたら、また何かを書きたくなるかもしれないけど、とりあえず終わります!

 

*1:脚本や演出家のインタビューが観られるスペシャル特典付もあるみたいですが、私はこれを書き終わったら観る。
自分の感想をまとめる前に余計な情報をいれたくないタイプのめんどくさいおたくなので。

三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」『橋づくし』『(死なない)憂国』にめちゃめちゃにされた記録


9月21日(月) 20:00~
三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」
『橋づくし』『(死なない)憂国


を配信で観た。


率直に言うと、事前のイメージと全然違った。
なんだか勝手に堅苦しい戯曲を想像してしまっていたけど、実際は現代的で、挑戦的で、なんていうか「こういうのを"アバンギャルド"って言うのかな」と思った。
そう、今は2020年。三島の自決から50年、コロナですべてがめちゃめちゃになった世界。


舞台自体もすごく良かったし、配信はカメラワークも凝っていて、配信ならではの面白さと演劇の良さが両方詰まっていたから、未見の人は是非アーカイブを観てほしい。
ていうかこれで3000円くらいって安すぎないか? これが家で観られるの最高すぎないか? コロナじゃなければ配信しなかったかもと思うと、コロナってやつも悪くないかもなと思えてくる。いいから観てくれ。


アーカイブ配信チケットはこちら
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2065101
【2020/9/23(水) 23:59まで】

 


さて、ここからは個人的な感想。
ネタバレとか一切気にせずに思い付いたまま書く覚書というか自分語りというか……な何か。

 


『橋づくし』
作・演出:野上絹代
出演:伊原六花井桁弘恵野口かおる高橋努

舞台上には不思議な石の土台のようなもの。
他には何もない真っ黒な舞台上に、賑やかに話しながら女が二人、三人、四人現れる。

甲高い声と、テンポの早い会話で、何を言っているかさっぱり聞き取れない。

そして四人が静かに並んで立ち止まる。


「では、始めましょう」


中心に立った女、小弓さんが先ほどとは打って変わった落ち着いた声で宣言すると、舞台は宵闇に包まれ、「それ」が始まった。


花柳界では古くから伝わる願掛け。
陰暦の8月15日、何も話さず、誰からも話しかけられず、一度通った道は再び通らずに、七つの橋を渡りきる。


闇夜に響く下駄の音。

四人はひたすら無言で歩き続ける。

それぞれに叶えたい願いを胸に。

 

ストップモーションで固まる一団から、満佐子がひらりと抜け出す。

そして、バレエのような、コンテンポラリーダンスのような動きで舞いながら、この状況と自らの心情についてを語る。


音声は録音だ。
その間も、他の三人は歩き続ける。


満佐子が隊列に戻ると、今度は小弓が同じようにひらりと舞い始める。
荒い息づかいと率直な動きがコミカルでチャーミング。
ていうかちょっと喋ってる。それはありなのか!?

そして、かな子も同じように舞いながら自らの心情を語る。
声はやや棒読みだが、ダンスは非常に表情豊か。

 

無言で歩くところを演劇にするってどうやるんだろうと思っていたから、なるほどそうきたか~~~~~と思った。
状況説明は歩きながらト書きを読むように台詞を並べるのもかっこいい。

 


そして、用心棒としてつけられた女中のみなだけ心情が一切語られない。ただただ、静かに三人の後をついて歩く。
みなを演じるのは高橋努さんだ。他の三人とは明らかに体格が違って、得体の知れなさが増す。

 


役者の身体表現もすごかったが、演出もすごかった。

 

最初は何だろうと思っていた舞台上の土台のようなものは、棒がさされ、帯が渡され、あっという間に橋の欄干になった。

舞台装置は非常にシンプルなのに、映像を使った演出や、帯のかけ方で表情を変える橋の欄干や、盆を回す仕掛けで、全然飽きない。

 

そして願掛けは、かな子が腹痛で脱落し、続いて小弓も知り合いに話しかけられ失敗する。
残されたのは、満佐子とみな。

だんだんみなのことが忌々しくなってくる満佐子。
ただでさえ大きなみなの身体が、照明に照らされ、大きな大きなシルエットとなって満佐子に襲いかかるようだ。

 

願いって何だろう。
願掛けをしてまで叶えたい願いって、何なんだろう。
彼女たちは、いったい本当は何を求めているんだろう。

 

そしてたどり着いた最後の橋で、満佐子も警官に呼び止められ、願掛けは後少しのところで失敗する。

最後まで無言を貫いて橋を渡りきったのは、ついてきただけのはずの、みなだけだ。


走り去るみな。
橋の真ん中で慟哭する満佐子。

 


流れ出すアップテンポなミュージック!!!!

ついさっきまで三味線だったのに!?
いきなり何!?

と思う間もなく、着物を脱ぎ捨て踊り出す三人の女!!!!!!


リゾートなファッションでグラス片手に揺れる三人の女を見ながら、私はなぜか泣きそうだった。
さっきまで真剣な表情で、己の願いを叶えるために奔走していた女たちが、そしてそれが叶わなかった女たちが、今は笑顔で踊っている。


願掛けは失敗したが、どうやら三人の女の願いはそれぞれ少し違った形で叶ったらしい。

「みなったら、いったい何を願ったのかしら」
「ほんとよねぇ、なーんにも教えてくれないんだもの」
「憎らしいわね、みなって本当に、憎らしい! 」

そう言って笑う女たちは本当に幸せそうで、みなが願ったのは三人の幸せだったのかもしれないなとぼんやり思った。

 

もしかすると、みなは「皆」で、それは私なのかもしれない。

私は、最初は物珍しい仕掛けや演出に感心しながら観ていたが、いつの間にか三人の女たちの願掛けが成功することを願っていた。
だから、最後の橋でみなだけが駆け抜けたとき、みなを恨んだ。満佐子の願掛けが失敗したのは、みなのせいだとすら思えた。

でも、もしかしたら三人が最後に笑えたのはみなのおかげかもしれない。
だとしたら、みなは、「皆」の幸せを願った「私」だ。

 

最後に全員が現代のファッションでパーティーに興じていたことで、なんだか彼女たちが身近に感じた。
今からずっと昔の女たちの切なる願いが、今を生きる私たちに通ずるもののように思えた。
「女の幸せ」の形は変わっても、「幸せになりたい」という思いは昔も今も変わらないんだろうなと思う。


観終わった後は、不思議と爽やかな気持ちになった。

 

 

(転換)

アゲアゲなミュージックなまま、役者たちが礼をして、躍りながらハケて、照明が変わる。


「(死なない)憂国 まで あと10分」というテロップが出て、暗転するかと思ったら、なんとカメラが回ったまま転換し始めてびっくりした。

大勢のスタッフが、『橋づくし』の装置を片付け、『(死なない)憂国』の装置をセッティングする。


これって普段は緞帳おろしてやることじゃないのか!?
それを丸々見せてもらっていいのか!?
やったーーーーーーーーーーーーー!!!!!!


なんだか対バンライブの転換時間みたいだな~
私あれ見るの好きなんだよな~

とか思いながら観ていたら、次の『(死なない)憂国』でライブが重要なモチーフとして出て来て、それもびっくりしたりした。

まさかそこまで含めてこの演出なのか!!?!

 

そうこうしている間に10分はあっという間に過ぎ、次の作品が始まった。

 


『(死なない)憂国
作・演出:長久允
出演:東出昌大、菅原小春


流れ始める映像。
バルコニーで演説をする三島由紀夫
そして、運び出される棺。


映像の前に、真っ白な服を着た男が現れる。

ハンドマイク片手に、自らの心情をぶちまける。

「2020年。つまり、あれから50年も経った。なのに、全然わからないんだ。あなたが守ろうとしてた日本って何なのか!」

 

そこからは濁流のような言葉と音楽とエネルギーに飲み込まれた。
画面から流れ出す熱がすごすぎて、ぐちゃぐちゃになった。
ぐちゃぐちゃのまま書いたら下手くそなレポみたいになってしまったけど、なんかもうここからどうにもできないからそのまま載せる。

 

満員のライブハウス、もみくちゃになる観客の上を人間が転がる。


「俺たちは!俺たちは!!!!」


主人公は、警官をしている男、信二。
ライブハウスに行くのが生き甲斐で、ライブハウスで出会った麗子と去年の12月に籍を入れた。


4月26日。
新型コロナウイルスの流行で緊急事態宣言が出された時期。
新宿ロフトに立て籠り、躍り狂う仲間たち。
それに呼ばれなかった、信二。

 

憂国だよ!三島の憂国と一緒だよ!何やってるんだよ、あいつら!!!!」

 

「俺たちはここで躍り続ける」と宣言し、立て籠る仲間たち。
それに呼ばれていない、むしろそれを取り締まりに行かなきゃならない信二。

 

ライブハウスに行かないと生きていけない。


濃厚接触は避けられない空間。
濃厚接触こそが、ライブ……生きる。
ライブハウスの「ライブ」は「生きる」って意味と同義で、今はそこに行ったがゆえに「デッド」しちゃう「デッドハウス」になってたとしても、死んだように生きるくらいならそこで躍り続けたい。


信二はソファの上に立ち上がって叫ぶ。


信二も麗子も、ずっとハンドマイクだ。
ライブのMCみたいに、時には支離滅裂なことを、マイクに向かって叫ぶ。


「三島ならどうする? いや、結果は出ている……『憂国』に書いてあるんだ。『憂国』の主人公は、2.26事件の仲間たちを討伐するくらいなら、と……」

「……そいつ、そいつはどうしたの?」

「じ、自決をした……切腹をして腸をぶちまけて、喉を切り裂いて、自決をしたんだ…………でも俺は、でも俺はもう正常な判断ができないぃいいコロナでぇええええ…………」

 

「俺は、裏切るよ……自衛だ…………自分を守るためにさ、あいつらを、裏切るよ……………………ロフト行ってくる~」

 

 

激しく揺さぶられ、引き裂かれそうになる信二の感情。

そこに重なるぐちゃぐちゃになりながら盛り上がるライブ映像。


普段の信二は、仕事のストレスを爆音とモッシュで癒しているんだろうなと思う。
ライブハウスの密な空間で、汗に濡れた身体をぶつけ合う気持ち良さを、私も知っている。


信二は、フェイスシールドをつけ、日本刀で、そのライブ映像が映し出された幕を切り裂く。

 

「武士ってこんな気持ちなのかな……」

仲間を取り締まる仕事から帰り、そんな風にうずくまる信二を麗子は一蹴する。

「武士ってんじゃねーーーよ!!!!『悦』じゃん!!!!!!!!」


「俺なんか……今すぐ消えた方がいい…………」と繰り返し呟く信二を抱き締め、麗子は「情緒……情緒、情緒…………」と囁く。


それはまるで、傷ついた自分自身を抱き締めているようだった。
ていうか私もメンタルぼろぼろでマイナス思考しかできないとき、誰かに「情緒情緒」って抱き締めてほしい。

 


信二は腹に日本刀を突き刺す。
憂国』の、自決をする場面を朗読しながら。

 

そんな信二を、麗子は救う。
2020年の『(死なない)憂国』の麗子は、泣くように笑いながら、あるいは笑うように泣きながら、氷結のぬるま湯割りで、信二を現実に引き戻す。


「酒の度数は上がれば上がるほど人を幸せにするんだぞ!氷結はそんじょそこらの宗教よりも人を救ってると思うのね。でね、お湯で割るとヤバいって気づいてさ……ぬるま湯で割るんだよ!氷結ぬるま湯割り!信二、飲もうよ……氷結ぬるま湯割り……」


そうして信二は息を吹き返す。
概念の刀で貫いた身体が、氷結ぬるま湯割りで甦る。

 

ここまでが、4月26日の話。

ここからは、9月21日の話。

 

半年後も、氷結に救われながら、信二と麗子は生きている。
そして再び信二のスマホが鳴る。


あのとき取り締まった、新宿ロフトの仲間から電話がかかってくる。

ライブハウスでイベントやるから来いよと誘われて、二人は袖を通してなかった結婚式の衣装に身を包み、ライブハウスへと向かう。

 


物理的には死んでないから!
まだ生きてるから!
ゾンビみたいになっちゃってるけど、まだ物理的には死んでないから!!!!

 

 

流れ出した音楽が「生きてるって何だろう 生きてるってなあに」と繰り返す。
ライブハウスの写真が映し出される。

 

そこに写る笑顔の人々と、チェック柄のタキシードに身を包んで叫ぶ信二と、チェック柄のドレスに身を包んで躍り狂う麗子を見ながら、私はまた泣きそうだった。

 

「生きてるって実感する場所」という意味では、ライブハウスも劇場も、たぶん一緒で、ていうか人それぞれきっとそういう場所があって、でも実感できなくても私たちは生きてるって事実は変わらなくて…………

コロナで、ずっと家にいなきゃならなくて、大好きなものがなくなっていくのを見ながら、どうすることもできなくて、でも、私たちは生きてて…………


なんか、上手く言えないけど、死んでる場合じゃねーーーーーーーーーーーーーみたいな気持ちになった。

 

感想がぐちゃぐちゃすぎるけど、綺麗なものに存在意義はないって麗子さんも言ってたし、作中でも汚ない×汚ないでむしろ良いみたいなことも言ってたし?

 


でもなんていうか、普段は言えないような気持ちを剥き出しにできる場所が、やっぱり必要だよなと思った。

私にとってはライブハウスも、演劇も、それができる場所だ。

 


あと、演劇って、自由でいいんだよなというのも、思った。
『橋づくし』も『(死なない)憂国』も、今まで見たことないような面白い演出がいろいろあって、でもそれが小手先だけのテクニックじゃなくてちゃんと意義のあるものになっていて、ここまでのことをしても受け止めてくれる「演劇」って空間はなんてあたたかいんだろうと思った。

現実世界じゃあり得ないようなことも、舞台上ではすんなり受け入れられて、でもそれは生身の人間がライブで演じるという不自由な制約があるからこそ成り立つ自由さでもあって…………演劇って面白いな、ほんとに!!!!!!!!

 


ていうかそもそも私は加藤拓也さんが作・演出をするということでこの企画を知って、今週は「まあせっかくだし観とくか」くらいの気持ちだったけど、本当に本当に観て良かった。

来週も楽しみ!!!!!!!!!!!!!!!!


相変わらずさっぱりまとまらないけど、終わります!

 

 

※2020/10/04 追記:

第二弾の感想も書きました。

中野劇団『会議家族』が面白かったよというだけの話


9月20日(日) 中野劇団
第21回公演 短編集『会議家族』
作・演出:中野守


を観た。

直接大阪へ……は行けなかったので、配信で。
ライブ配信も都合が合わなかったので、アーカイブで観た。


家族にまつわる、ゆるゆる不条理な短編コメディ4本。
めちゃめちゃ笑ってものすごく満たされて、最高の休日の夜だった。何より明日もお休みなのが最高。4連休バンザイ。


以下、レポというか感想というか、個人的な覚書。
ネタバレとか気にせずに書くので、未見の方は是非アーカイブでどうぞ。


アーカイブ視聴チケットはこちら
https://v2.kan-geki.com/live-streaming/ticket/57
【2020/10/4(日) 19:00まで】

 

 


◯論理家族
さまざまな制約の中で、家族全員が安全に川を渡るにはどうしたら?という論理思考ゲームのシチュエーションにおかれた家族の話。

「いや、そういうパズルの話かと思ったらほんまにあんたらが川渡るんかい!」って感じで、じわじわ面白かった。
よく考えたら「母がいないと父が娘を襲います」「父がいないと母が息子を襲います」「召し使いがいないと犬は家族を襲います」って全部意味がわからなくて面白いし、それに対して真面目に考察を試みるのも面白いし、答えが答えになってないのも面白い。

 


◯嘘つき
生き別れの親子の28年ぶりの再会……かと思いきや、「息子なら1か月前に帰ってきましたけど」と言われてしまい、どっちが本物の息子なんだ!?と討論するお話。

人狼に絡めて嘘をついている方を突き止めようとするんだけど、人狼ゲーム推しの男の子がマジで部外者すぎて
面白い。

あと、お母さん役の人の「?????」顔が本当に「?????」顔で、一目で「あっ、こいつ何もわかってない!」と伝わってきて観てるだけで面白かった。
微妙な表情の変化もコミカルで、ついついお母さんの顔を見てしまう。

途中の母親だと思って訪ねたら別人だった話が滅茶苦茶すぎて「これもしかして嘘か? 偽物か?」と思っていたら、そこがオチに繋がったのはびっくりした。

ていうか、よく考えたら、そもそも舞台上で演技をしている役者は全員「嘘つき」なのに、その話しぶりや振る舞いで「こいつは嘘をついている?」「こいつは本物っぽい?」とジャッジすること自体が矛盾していて面白いな…………。

 


◯五歳児
旦那がいない間に自宅で不倫相手と楽しもうとしていたら、そこに旦那が帰ってきちゃって!?なドタバタコメディ。

いや!さすがにどう見てもおっさんの不倫相手を「五歳のハルトが急に大きくなっちゃったの!」と誤魔化すのは無理があるやろ!!!!!!!めちゃめちゃすぎるわ!!!!!!!!!!!!!!

妻の言い分が支離滅裂すぎて腹がよじれるくらい笑った。
ようそんな言い訳思い付くな~~~~!!!!!!!

あと、これは本当に個人的な感想だけど、土肥希理子さんが不倫する妻役なのがちょっと今までのイメージからすると意外というか、彼女もこういう役をやる年齢になったんだな~と思ったりした。
学生劇団に所属していた10代の頃から知っている役者さんだし、少女の役をやっているイメージが強かったから、結婚して子供もいて不倫までしている大人の女性役に、少しドキドキした。
まあその数分後には支離滅裂な言い訳をもっともらしく捲し立てる面白お姉さんになってたわけだけど。

最後、旦那も浮気してたオチが綺麗で好き。

 


◯遺産
祖父の通夜の夜、遺産の取り分をオリジナル人生ゲームで決めることになった遺族たちの話。

最初に、冒頭の論理思考ゲームをやっていて「おっ」と思った。
空き缶に「父」「母」「娘」「息子」「召使」「犬」とか書かれたものを動かして、見事に対岸に渡らせる。
疑心暗鬼になりながら川を渡る方法について議論していた「彼ら」のことを、缶を動かしている人たちはきっと知らないと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。


そして、そんな風に「ある家族」の運命に思いを巡らせていたのも束の間、こんどは「この家族」が思いもよらない運命に巻き込まれる。

21時に突然現れた顧問弁護士。
そして告げられる遺産争奪人生ゲームのルール。

全部のマスに誰かの秘密が書かれている人生ゲームってだけでもう面白い。
しかも、その秘密が少しずつ絡み合ってるのも面白い。

面白すぎてあっという間で、これだけで60分くらい観たい~~~~~~と思うくらいだった。
結局、人生ゲームの勝敗はどうなったんだろう。
最後はみんなの秘密が全部明るみに出て、家族がめちゃめちゃになってしまうんだろうか? それともむしろ絆が深まる?

 

血が繋がっているからといって、互いのすべてを知っているわけではなくて、隠していることもたくさんある。知られたくないことも、知らない方がよかったことも、たくさんある。
親子でも、兄弟でも、わからないことがたくさんある。


そんな、今までの話の根底に流れるもの全部が詰まったようなお話だった。

 


観終わって、これを書いているうちに、なんか「家族」って何だろうな~みたいな気持ちになった。
血が繋がっているとはいえ、他人。でも「他の人」にはわからない何かがある。

あと、必死な人を見るのは面白いなとも思った。
その論理がめちゃめちゃであればあるほど面白い。

 

そういえば、短編4本を同じ役者さんが違う役をやりながら演じてたのも面白かった。
前の役のイメージと全然違ったり、逆になんとなく似てたり…………この短い転換の間に別人になれるってすごいな~と思ったりした。
そういう意味でも、一公演でいろんな楽しみ方ができる作品だった!


気負わずに観れて満足感あったから、アーカイブ期間中にまた見返したいな。

終わります!

 

 

中村彩乃『異郷を羽織る -Drape the Strange land-』から受け取ったこと

 


8月24日(月) 22:00~

一人芝居
『異郷を羽織る -Drape the Strange land- 』
企画・出演|中村彩乃
脚本・演出|岡本昌也
衣裳|yusho kobayashi


の配信を観た。


無観客上演の生中継。アーカイブなし。


うまく説明できないけど、なんだかものすごかったので、全然まとまらないけど書く。
例によってレポにも感想にもなりきらない何か。

 

本編はほぼ全編が英語で、単語は聞き取れたり、聞き取れなかったり。
ものすごく簡単な単語なのに意味がわからないこともあれば、何を言ってるのかわからないけどなんだかわかる瞬間もあって不思議だった。
時折するっと日本語が入ってきて、そうするとそこだけ浮き上がって聞こえるのも不思議だった。

 

上演台本は今日の24時まで公開されているらしい。
さっきダウンロードしてちらっと見たら、全部日本語に訳されていたので、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして慌てて閉じた。

まずは、率直に自分が観て受け取ったものだけを書こうと思う。
全然違ってたらごめんなさい。

 

そもそも全編英語なのは、この芝居が最初はロンドンで創作・上演されたものだからだ。

 


異国の地で、一人。

 


薄暗く照らされた舞台の上に、白い服をまとった中村彩乃がゆっくりと上る。
しかし、その身体はすぐに何かに押し潰されるように倒れてしまう。

容赦のない他者に晒される、無防備な自分。


──お前は誰だ? 何者だ? どこから来た?


私は、私は、私は、私は、


必死で立ち上がる。片足で。
両足では立てない。
地に足がつかない。
バランスを崩す。
立っていられない。


…………私は?


私は彷徨う。異国の地を一人。

木の枝にすがり、なんとか立ち上がろうとするが、上手くいかない。

私を支えるものはこれじゃない。

 

ポエムは私の国の言葉で、詩。
そして、同じ音の言葉の、死。

 

真っ暗な夜。白い息。

自分を包む孤独。


…………私は?

 

途方にくれて座り込む。

そして、だんだん自暴自棄になってくる。

 

中村彩乃は全編を通して身体表現がものすごかった。
見えない圧に押し潰されそうな肉体。
今にも消えてしまいそうな魂。
それらがそのまま舞台の上にあった。
どの瞬間を切り取っても美しくて、私が写真家なら夢中でシャッターを切るだろうなと思いながら観ていた。

衣装は、白い布が折り重なった上下だ。
動くとシャラシャラと音が鳴る。
折り重なった布が、静かに響く音が、中村彩乃の動きを際立たせる。

 

見えない圧に押し潰されそうな肉体は、その全てに抵抗しながらも、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。

 


そこに一冊の詩集が降ってくる。
文字通り、天から降ってくる。

ボードレールの詩集。
母が何度も読んでくれた。


椅子に座って、詩集を開く。
そうして繰り返し、繰り返し、その詩を読む。


椅子の背にかかっていた色とりどりの布が重なった衣装に、中村彩乃が袖を通す。


そうして繰り返し、繰り返し、その詩を読む。
最初はたぶん英語で、それから、故郷の、日本の、自分の言葉で。


最初の日本語の朗読は、生の声ではないように感じた。
拡声器を口許にあて、かすかに唇を動かしているが、それはどこか遠くから聞こえてくるような気がした。
おそらくそれは"私"の記憶の奥底からよみがえってきた言葉なのだろう。


そうして次は、自分の言葉で朗読する。
一語一語確かめるように。


そして最後は、力強く。
俯いて、フードを深く被り、拡声器を通して発せられる声は、日本語だけど日本語ではないようで、私には彼女があえて自分の中にある言葉と意味をバラバラにしているように思えた。

 

そして、中村彩乃が顔を上げる。
フードをとって、真っ直ぐに前を見据えて。


私は。

私は。

私は。

私は。

 

異素材が折り重なった、色鮮やかな上着
それを身に纏った彼女は、最初よりずっと大きく強くなったように見えた。


たくさんの「私」を、自分のものにして、前に進む。

 


なんだか凄いものを観たな……と思った。

 

 

 

 


ここまで書いて満足したので、脚本を読んできた。

全部が全部ではないかもしれないけど、私が感じたことは間違ってなかったような気がして、嬉しかった。

いや、正確にはちゃんと受け取れたかはわからないけど、演じ手が観客を信じて委ねてくれているのが嬉しい。

 

そういえばこの公演は、アーカイブなしの生配信という形式だった。
本当は劇場で生で観られると一番よかったのかもしれないけど、自室で静かに一人でPCに向かうのも悪くなかった。
とくに今回は、一人芝居ということもあって、本当に舞台上の俳優と観ている私が一対一になれた気がして、むしろ良かったかもしれない。

 

とにかくものすごく満たされたので、観て良かった。


まとまらないけど終わります。

 

 

 

 

音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』が凄かった話

 

5月24日(日) 22:00~
音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』

作・加藤拓也
読み・藤原季節


を、観た。というか聞いた?……というか、観た。


いや、もう、凄かった……………………ほんとにほんとに凄かった…………………………………こういうこと思い付く加藤拓也さん凄いし、それを藤原季節さんにオファーするセンスが最高すぎるし、こんな無茶苦茶な企画をちゃんと一つの作品として成り立たせる藤原季節さんがほんとにほんとに凄かった……………………

 


観賞直後の感想というかレポというか、とにかくこの気持ちを新鮮なまま残したいので、支離滅裂になるかもしれないけど書く。

 

 

YouTubeでの配信。アーカイブはなし。
「本作品は音がございません。上演台本と配信映像を同時にご覧いただきながら観賞する作品となっています」と説明されていたので、案内通り劇団公式LINEから台本をダウンロードした。

加藤拓也さんはTwitterで「先に台本読んでも、同時に読み始めるでも、自由です!」と仰っていたけど、私は事前に読んだ。


ダウンロードした台本は、「台本」というより「小説」だった。
ちょっとびっくりしたけど、よく考えたら「朗読」ってそういうものだ。


『私の世界のすべてだったお前』は、全部がウソの世界で、役割分担に苦しみながら、ぬるさを抱えて生きている「僕」の話だ。これ以上、なんて説明したらいいかわからない。小説としてめちゃめちゃ面白いし好みの話だったから、配信観てない人も今からでもダウンロードできるなら是非読んでほしい。

読めばわかるが、この話は「小説」であることに大きな意味がある。
あと、主人公のビジュアルや作品全体の雰囲気と、藤原季節さんのイメージが本当にぴったりで、配信を観る前から期待が高まった。

 

しかし、「音のない朗読」とは?

 

ドキドキしながら迎えた当日。
台本を印刷し、夕食やお風呂を済ませ、万全の状態でPCに向かった。


配信が始まり、画面に藤原季節さんが現れる。
「こんばんは」と言っているのがわかるが、音声は流れない。

「音のない朗読」は、文字通りの意味だった。朗読している。でも、一切の音が流れない。何も知らない人が観たら、端末の故障か、イヤホンの不具合を疑いそうな映像だった。
イヤホン刺さってないの忘れて流しちゃったりとか、電車の中で隣の人が動画を観ているのを横からちらっと見たりとか、あんな感じ。


でも、手元に台本があるからか、なんとなく何を言っているかはわかる。不思議な感覚だった。

画面だけ観ていてもわからない。
台本だけ読んでてもわからない。
でも、台本を読みながら観ると、わかる。

声は聞こえないけど、聞こえるような気がする。


私は、イヤホンをして観ていた。
声を聴くためではなく、周りの生活音を聞こえなくするために。
声なき声に耳を傾けるのは、ある意味では静寂以上の静寂と向き合うことになるなと思った。

 

集中して観ていても、時折、今どこを読んでいるのか見失った。
そういう時は、一生懸命台本を読みながら追うよりも、季節さんの口許を見ていた方がよかったのも不思議だった。じっと見ていると、突然"聞き取れる"瞬間があって、再び声が聞こえ出す。

 

季節さんは、本当に凄かった。
決して過剰ではない。でも、不足もしていない。
たぶん本当に普通に朗読してるんだと思う。その映像の音声だけカットしてる。
顔の動きだけで、良い声が出ているのがわかる。音声がないからこそ、微妙な表情の変化や、目線のやり方、口の開け方に集中できる。

 

通常の「朗読」は、多くの場合、音声だけだ。
だから聴き手は、その声を聴きながら、情景を想像する。

そういう意味で、「音のない朗読」は全く逆の営みだった。
観客は、画面を観ながら、声を想像する。


どちらも、限られた情報から、想像で世界を広げるという点では同じだが、私の中ではかなり感覚が違った。

耳で聞く「朗読」は受動的だが、目で観る「音のない朗読」は、ものすごく能動的というか…………観客である自分がかなり必死に「受け取ろう、受け取りたい」と思わないと、受け取れないような気がした。

 

 

季節さんは本当に凄かった。
「受け取ろう、受け取りたい」と思いながら向き合えば、ちゃんと手渡してもらえるような何かがあった。

押し付けるわけでもないし、出し渋るわけでもない。
でも、確かにこちらに向かって扉を開けて、手をさしのべてくれているような、そんな朗読だった。

 

物語の終盤、主人公が女の子と同じ布団に入る。
そして、彼女の身体に触れる。

一人で読んでいるときもドキドキした。
でも、そのときよりも、もっと、ずっと緊張しながら、私は耳を傾けていた。

この頃には、どちらかを注視していても今どこなのか見失うことはなくなっていた。
文章を読む自分と、画面の中で朗読をする季節さんと、主人公の見ている世界が、完全に繋がっているような気がした。

 

主人公の心が揺れる。
季節さんの瞳も揺れる。

目許をぬぐったのは、演出なのか、演技なのか、それとも自然に出た動きなのかはわからない。

 

劇団た組の芝居を観ると、私はいつもそのリアルさと、純度の高さに胸を打たれるけど、今回もそうだった。

自分の中のいろんな記憶と結び付いていくのも一緒だった。


女子大の女子寮で過ごした四年間のこと。
サークルの先輩や友達の家に何度も泊めてもらったこと。
働き始めてから、地元に戻った私のアパートに学生時代からの友人が泊まりに来たこと。


自分の記憶の中の自分と、自分の記憶の中の"女"たちと、目の前の藤原季節さんが、重なる。

 

ラストシーンは静寂に満ちていた。
ずっと音はないのに、でも声は確かに聞こえるのに、そう感じた。

孤独な魂が浮き彫りになるような静寂。


そして配信が終わる。
画面が真っ暗になり、自動で次の動画が再生されかけたところで、あわてて画面を閉じた。


私の目蓋の裏には、最後の季節さんの表情が焼き付いている。
耳の奥には、まだ声なき声の響きが残っている。


私は文字を読むと、脳内で音声が再生されるタイプだから、何を観ても何を読んでも今はノイズになってしまう気がする。
この感覚が残っているうちに何とか記録しておきたくて書いた。


今夜はこの静寂の中で眠ろうと思う。

ものすごく良いものを観た。

 

 

と、ここで終われば一つの文章として綺麗だよなと思ったけど、まだ書きたいことがあるからもうちょっと書く。


藤原季節さんは、『貴方なら生き残れるわ』で知った。
でも、その時は正直それほど意識してなかった。たぶん演じていた松坂が、私にとって思い入れのあるキャラクターではなかったからだと思う。
でもそれは、あの脚本の中の松坂としてはたぶん正解で、藤原季節さんはものすごく繊細な演技をしてたんだな……と気がついたのは、観てから随分経ってからだ。

私が「いや、藤原季節さんめちゃめちゃ良いな?」と気がついたのは『誰にも知られず死ぬ朝』だった。
青年の脆さ、危うさ、透明で繊細で壊れやすいがゆえの虚勢が、そのまま人間の形をして立っているようだった。

水面の揺らぎのような、微妙な、でも確かにそこにある、一言では言えない何かを、変にわかりやすい形にすることもなくそのままそっと持ってきて見せてくれるのが上手い人なんだな……という印象だ。

今回で、その思いは余計に強くなった。

 

ていうか、表情と少しの仕草だけであんだけ伝わるって凄くない!?

あと、顔を見てるだけで明らかに良い声が出てるのがわかったので、音声だけのデータもほしいです、私…………

藤原季節くんファンの人とか、今頃「……人魚姫じゃん」ってなってない?大丈夫?

 


そして、今回の台本の元となったのは『貴方なら生き残れるわ』のパンフレット巻末に掲載されてる未発表の小説だと思うんですけど、そこで加藤さん「この続きが8万字くらいあります。まじか~」って書かれてるんですよね…………続きは……続きはいつか読ませてもらえるんですか????
8万字あれば文庫本換算で120ページくらいになると思うんですけど、どうか……どうか………………

 


あと、タイトルについて少しだけ。
『私の世界のすべてだったお前』という題名だけど、主人公は「僕が見てる世界は全部ウソなのだ。いや、もしかしたら、僕の見えない部分がウソなのかもしれない」と言っている。
主人公の、ウソの世界の中では、目の前にいる彼女だけがホントウだったんだろうか。
それとも、ウソの世界の中で、"彼女"だけは、"ホントウ"の"私"を見てくれたんだろうか。

 


まとまらないけど、終わります。

 

 

劇団年一『肌の記録』を観て感じたこと、考えたこと


2020年5月7日(木)
劇団年一『肌の記録』

を観た。

 

脚本・演出は劇団た組の加藤拓也さん。出演は柄本時生さん、岡田将生さん、落合モトキさん、賀来賢人さんだ。
新型コロナウイルスの流行で、公演はおろか稽古すらできなくなった今、「オールリモートでビデオ通話を使った映像のような演劇のような新しい作品」として公開された。


上演期間は【5月7日(木)~5月21日(木)】の期間限定なので、まだ観ていない人はぜひ観てほしい。
https://youtu.be/cosy5UZML7g

 

 

以下、読んでいる人も観た前提で勝手に語ります。
またレポのような感想のような自分語りのようなまとまらない文章になってしまったけど許してほしい。

 

私は、脚本・演出の加藤拓也さんのファンだ。
出演者の四人のことは、ほとんど知らない状態で観た。


加藤拓也さんを知らない人にさらっとだけ説明しておくと、劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

どれくらい「今」を掬い取るのが上手いかというと、4月にはいち早く現在の状況を下敷きにSkypeを用いたインターネット公演を行っているくらいだ。*2

 

だから、今回の『肌の記録』も、とても楽しみにしていた。
こんなときだけど、こんなときだからこそ生まれた表現方法で、今しかできないことをやる。しかも、たぶんこんなときじゃなかったら一緒にできないようなメンバーで!もう絶対面白い……試みの時点で面白い……。
正直、かなりハードルを上げていたと思う。でも、その期待を裏切らない面白さだった。「映像のような演劇のような」と銘打たれており、本人たちは「映像作品」と呼んでいるが、私は観て「なるほど、これはこれで"演劇"だな」と思った。

 


舞台は今から100年くらい未来。
疫病の流行で、外出は基本的に禁止。仕事も学校も全部リモートで、友達と遊ぶのもオンライン。
そんな「もしかしたらあるかもしれない未来」のお話だ。

 


最初に画面に現れるのは、柄本時生さんだ。

「僕たち幼馴染で30歳なんですけど、まだ会ったことがないんですね、全員」


部屋を歩きながら、そんな物語の背景を説明していく。


登場人物は、四人だけ。
全員、役者さんと同じ名前のようだ。
中身まで同じかどうかは、私にはわからない。

 

カメラを持って部屋の中を移動する四人。
全員が白い壁を背に落ち着き、トキオの画面に「6」と書かれた紙が大きく映し出される。。


「では、6歳をやりまーす」

そう宣言したかと思うと、次の瞬間、マサキ、モトキ、ケントの三人は6歳になっていた。手には自分の子供時代の顔写真を張り付けた人形を持っている。


「先生やります」

トキオは眼鏡をかけて改めて画面を見つめ、子どもたちに自己紹介を促す。
これは、四人が初めて出会った日、小学校の入学式のようだ。

 


普通の映像作品であれば、別々に撮った映像を切ってつなぎ合わせ、時間や場所の変化を表現する。
演劇の舞台ではもちろんそんなことできないから、照明や舞台装置を変化させることで場面転換を行う。この不自由さが、演劇の面白いところでもある。


今回の『肌の記録』は、映像作品ではあるが、オールリモートの一発撮り。制約はむしろ演劇よりも多いくらいかもしれない。
だから自然とワンシチュエーションになるのかなと思っていたが、全然そんなことなかった。*3
カメラのアングルも工夫されていて、背景や角度が毎回違うため、観ていて面白かった。(ていうか生活感丸出しの柄本時生さんのおうち探訪したり、真下から落合モトキさんを観たり、落合モトキさんが猫ちゃんと戯れるところを観たり、岡田将生さんと一緒に寝転んだり、賀来賢人さんとくるくる回ったりなんて、なかなかできる経験ではないと思うんだけど、これ俳優推しの人、生きてる?大丈夫?)

 

場面転換のやり方はすべて同じ。
人物がカメラと共に移動し、トキオの画面に年齢を示す数字が書かれた紙が映る。そして、誰かが「〇〇やります」と宣言した瞬間、その年齢のその人物になる。


この「〇〇やります」と宣言して演技に入ったり、シュールな小道具を用いるやり方は、今年2月に上演された劇団た組 第20回目公演『誰にも知られず死ぬ朝』の演出に似ているなと思った。
『誰にも知られず死ぬ朝』でも、登場人物が冒頭に年齢を宣言する。安達祐実がはにかみながら「13歳をやります」と宣言した瞬間、本当に13歳の少女になったのには度肝を抜かれた。いや、本当の安達祐実は38歳なのはわかっているのだが、でも目の前に現れたのは13歳の少女だったのだ。小道具の使い方もそうだ。机の脚が屋上の手すりになったり、ラジコンカーが本物の車になったりする。それも、本当は違うのはわかっているが、舞台上で"そう"なっているから、観客も「ああ、"そう"いうことなんだな」と信じる。*4


演劇は制約が多い。
だから、そこにないものをあるように見せたり、そうじゃないものを本当にそうであるかのように思わせたりする。
舞台上はそういう「嘘」に満ちている。
でも、役者と観客がその「嘘」を信じることで、それは「本当」になる。


私は、演劇には「双方向性」が必要不可欠だと思っている。
役と役者の双方向性。舞台上と客席の双方向性。そこでは虚構と現実が混じりあい、新たな物語が生まれる。


どう見ても成人男性である俳優たちが「6歳をやります」と言った瞬間、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。
奇妙な裸の人形に顔写真が貼り付けられたものの掛け合いを観て、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。


どう見ても違うものを"そういうこと"として提示するのは、観客のことを信頼していないとできないことではないだろうか。
もちろん役者さんの演技や、脚本や演出が上手いのもあるけど、観客も同じ景色が見えている、同じ世界に生きていると信じてもらえている気がして、少し嬉しい。

 

 

このような場面転換を繰り返し、出会った時は6歳だった四人が少しずつ成長していく。
VRでゲームやスポーツをしたり、古い文献をもとにでたらめなかくれんぼをしたり、"おセック"への好奇心を膨らませたりしながら、大人になっていく。

とくに"おセック"への食いつきぶりはものすごかった。
この社会では、異性との出会いもオンラインでのお見合いに限られている。オンラインで知り合い、オンラインで親交を深める。そして、結婚することになって初めて会って"おセック"することができる。
だから、結婚相手以外との"おセック"は考えられないし、それも子作りという明確な目的があっての行為のようだ。コンドームは過去の遺物となり、AVなんてものも存在しない。子どもたちは18歳になると国が作った"おセック"の動画で勉強する。

でもこのへんは正直、「んなわけあるかいな」と思いながら観ていた。
実際に会うことはできなくても、小説や漫画は存在するはずだ。今だって1000年以上前のどえろい文章が読めるくらいなんだから、100年後でも今のえろ本は生き残っていそうである。
ていうかそんな社会ならVR風俗とか発達してそうだなと思ったりもした。いや、まあそのへんは描かれてないだけって可能性もあるれど。
エロの分野こそ、私はフィクションの力を信じたい。

 


さて、一つの転機は、マサキがお見合いで出会った女の子に実際に会いに行ったことだ。

外出は許可がないとできない、それどころか他人とリアルに触れ合う機会は皆無の社会で、マサキは危険を冒してまで行動した。
そして、感極まった様子で、好きになった相手と実際に会って、彼女を抱きしめたことを報告する。
外の世界に興味を持ちながらも、何度も「……リスクがね」と繰り返してたマサキがだ。


そんなマサキの行動に一番影響されたのはケントである。
ケントは一度も家から出たことがないらしい。
しかし、マサキの「意外と大丈夫だった」という言葉で考えが変わる。

そしてケントは「みんな一回オフラインで会ってみない?」と提案する。
だが、その誘いに賛同する者は誰もいない。
モトキは最初から外の世界に興味がないし、マサキも女の子には会いに行ったのにケントと会うのは乗り気ではないようだ。

「病気のリスクとかあるし、相手にうつすかもしれないし」という言葉は、今の現実世界の状況とも重なる。

 

「でも、みんな画面だから、ほんとにいるのかな、と思う」というケントの言葉には共感した。
SNSでどんなに親しくやり取りしていても、たとえ通話したことがあったとしても、オンラインで知り合った相手と初めてオフで会うときは「うわ~本当にいた~!生きてる~!」という気持ちになる。Twitterのフォロワーとか、全員botなのでは……と思うこともある。
離れていても繋がることができるツールがいろいろあるが、結局は「生」の感覚に敵うものはないんだなと、しみじみ思う。
でも、彼らはまだ、その「感覚」を知らない世界に生きているのだ。

 

それからケントは、少しずつ外出をするようになる。
街の人の少なさに驚きながら、まだ使われていない家に忍び込む遊びをするようになる。


四人は誰とも会わないまま30歳になった。
マサキも結局、結婚はしていない。

 

廃墟に忍び込むケントを、ビデオ通話で見守る三人。
そこでケントは、演劇の台本を見つける。

「映画は家で観るからいいけどさ、演劇って場所に集まって観てたらしいよ」
「え、それくそリスク高いじゃん」

そして四人はその台本を読み合わせてみることにする。
ケントが撮った写真を共有し、じゃんけんで配役を決める。(ずいぶん奇妙なじゃんけんで三すくみではないようだったけど、100年後のじゃんけんどうなっとるんや……?)

 

登場人物の名前を聞いてすぐに、劇団た組の『在庫に限りはありますが』だと気が付いた。
2019年4月に上演された、ハンバーグ屋が舞台のお芝居だ。*5


主人公の洸一は、人前で食事ができない。
妻の里奈とは、なんとなく上手くいっていない。

里奈は、「家族と一緒にご飯を食べたいって思っちゃいけないの?」と洸一に訴える。
と同時に、「家族だから、家族とセックスはできないよ」と洸一を拒む。

二人はお互いに初めて付き合った相手であり、そのまま結婚した。
でも里奈は、本当にそれでよかったのか、もやもやしたものを抱えている。


そんなお話だ。

 

最初は「え、何で『在庫に限りはありますが』?」と思ったが、四人が照れながら読み合わせを始めたのを聞いているうちに、「『在庫~』は、実際に会って触れることで心を通わせる社会だからこそ起きる問題の話なんだな」と気が付いた。
結婚する前に他の人と付き合ったり抱き合ったりするのが普通の社会だから、自分が一人の相手しか知らないことで思い悩む。
子どもを作るだけでなく、コミュニケーションとして肌を触れ合わせるのが普通の社会だから、仲の良い夫婦であってもセックスレスであることで亀裂が入る。
そして、洸一の「人前で食事ができない」ことが問題視されるのも、誰かと一緒に、向き合って食事をすることが大切にされている社会だからだ。


今の四人が生きている社会にはないものばかり。
それは、読み合わせながら本人たちも感じたらしい。


台詞にこめられた切実な思いに、読んでいる二人も、聞いている二人も、あてられていく。

 

この場面の、間と空気が、本当にすごい。


それぞれが、何かを感じているのがひしひしと伝わる。
そして、夢から覚めたように、あるいは何かを誤魔化すように、元の空気に戻そうと話し出す感覚が、本当にリアル……というか、手触りがあって、凄かった。

 

三人が飲み物を持って帰って来ると、ケントは泣いていた。

 

「これ実際の人間に会った時に言えんのかな……」

 


彼らは、オンライン上でしか誰かと会ったことがない。
実際に対面で話すときの、相手から言葉以上の何かが発せられるあの感覚を知らないのだと思うと、私も何も言えなかった。

 

 

沈黙を破ったのはケントだ。

「誰か来た!……音がした!」

「うそうそうそうそ」
「え、マジ?」
「ヤバいヤバい」
「声出さない方がいい!しーっ!しーっ!!」


一気に漲る緊張感。
息を潜める四人。
ケントの画面は暗闇に包まれる。


「……うっそ~!」


と次の瞬間、ケントが歌うような声で言った。


「うっそ~」

「は、え?」
「なんだよ~!」
「あー、よかったぁあ……マジでびっくりした~」


観客も、三人も、ケントの演技に騙されたのだ。

 


……ああ、またやられた。
加藤さんの脚本は、こういう演出が本当に上手い……。
嘘のような本当と、本当のような嘘が交差する。

 

と思ったら、これで終わりではなかった。

 

グループ通話から画面が切り替わり、トキオだけが大きく映し出される。


「はい、というわけでね、僕たち30歳になってそれでどうやって生きているのか……というお話でした。…………実際にはこうやって会わなくても機械のおかげで生きていけるんでね!機械様なんですよ!頼るのは人間じゃない!機械なんですよ!機械は裏切らないですからね!」

 

「お疲れさまでした~」と手を振るトキオ。
そして、画面が再び四分割に戻る。

映し出された四人の姿は、先ほどまでとは明らかに何かが違っていた。

 

「……はい、というのはどうかなと思うんですけど~」


頭をくしゃくしゃにしながら意見を求める時生に、三人がぽつりぽつりと意見を述べる。


劇中劇!!!!!!!!
100年後の未来、全部、劇中劇!!!!!!!!!!


演劇ではよくあるオチではあるが、完全にやられた。
フィクションの中でフィクションをやる、あれ。
しかもラストは私たちと同じ"今"に全員生きていることがわかる、裏の裏は表……的なあれ……。


劇団た組のインターネット公演では、最初が"今"の話で、そこから1年後、2年後とスキップしていったので、置いて行かれるような連れていかれるような感覚に陥ったが、今回はその反対だった。
一気に"今"の"現実"に引き戻される、強烈なショック。
彼らの"嘘"を"本当"だと信じていたからこそ、本当は嘘だった現実に衝撃を受けた。

 


タイトルの『肌の記録』は、「今、肌で感じることの記録」という意味なのかなと個人的には思った。


物理的な接触としてという意味でも、私たちは「肌の記録」と「肌の記憶」を持っている。
でも、100年後に生きる彼らは、肌と肌が触れる感覚を知らなかった。


実際に触れなくても、肌は様々な感覚を伝えてくれる。
ざわざわしたり、ぞくぞくしたり、ちりちりしたり、ひやりとしたり…………。
演劇を観ているときに私は、肌で、それらの感覚を受け止める。
舞台上の役者が起こす空気振動と、客席から起こるかすかなざわめきと、自分の奥底から沸き上がる何かが、私の肌を外からも内からも刺激する。
そうして私は、皮膚によって隔てられた「私」と「私以外」の狭間で、新たな何かに出会う。

 

 

「100年後、どうなってるのかね」

 

 

それは誰にもわからないけど、人間が生きている限り、そこには「物語」が生まれるし、人間は生きる中で様々な役割を演じながら暮らしているから、「演劇」がなくなることはないんじゃないかな~~~~~~~~~~~~~~~~と思う。

ていうか、こんな強烈に面白くて刺激的なもの、手放せるわけない。

 

映像作品だけど、演劇の魅力を再確認させられるような、「新しい作品」に出会えて良かった。


まとまらないけど、終わります。

 

 

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより

*2:そのときのレポと感想はここ→ 劇団た組インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観た - エモーショナルの向こう側

*3:ちなみに劇団た組のインターネット公演では、ビデオ通話のオフが暗転の代わりのような働きをし、時間の経過が表現されていた

*4:このへんの詳細は、『誰にも知られずに死ぬ朝』の記事で→ 劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側

*5:これの感想はこちら→ 劇団た組。『在庫に限りはありますが』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側