エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』が凄かった話

 

5月24日(日) 22:00~
音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』

作・加藤拓也
読み・藤原季節


を、観た。というか聞いた?……というか、観た。


いや、もう、凄かった……………………ほんとにほんとに凄かった…………………………………こういうこと思い付く加藤拓也さん凄いし、それを藤原季節さんにオファーするセンスが最高すぎるし、こんな無茶苦茶な企画をちゃんと一つの作品として成り立たせる藤原季節さんがほんとにほんとに凄かった……………………

 


観賞直後の感想というかレポというか、とにかくこの気持ちを新鮮なまま残したいので、支離滅裂になるかもしれないけど書く。

 

 

YouTubeでの配信。アーカイブはなし。
「本作品は音がございません。上演台本と配信映像を同時にご覧いただきながら観賞する作品となっています」と説明されていたので、案内通り劇団公式LINEから台本をダウンロードした。

加藤拓也さんはTwitterで「先に台本読んでも、同時に読み始めるでも、自由です!」と仰っていたけど、私は事前に読んだ。


ダウンロードした台本は、「台本」というより「小説」だった。
ちょっとびっくりしたけど、よく考えたら「朗読」ってそういうものだ。


『私の世界のすべてだったお前』は、全部がウソの世界で、役割分担に苦しみながら、ぬるさを抱えて生きている「僕」の話だ。これ以上、なんて説明したらいいかわからない。小説としてめちゃめちゃ面白いし好みの話だったから、配信観てない人も今からでもダウンロードできるなら是非読んでほしい。

読めばわかるが、この話は「小説」であることに大きな意味がある。
あと、主人公のビジュアルや作品全体の雰囲気と、藤原季節さんのイメージが本当にぴったりで、配信を観る前から期待が高まった。

 

しかし、「音のない朗読」とは?

 

ドキドキしながら迎えた当日。
台本を印刷し、夕食やお風呂を済ませ、万全の状態でPCに向かった。


配信が始まり、画面に藤原季節さんが現れる。
「こんばんは」と言っているのがわかるが、音声は流れない。

「音のない朗読」は、文字通りの意味だった。朗読している。でも、一切の音が流れない。何も知らない人が観たら、端末の故障か、イヤホンの不具合を疑いそうな映像だった。
イヤホン刺さってないの忘れて流しちゃったりとか、電車の中で隣の人が動画を観ているのを横からちらっと見たりとか、あんな感じ。


でも、手元に台本があるからか、なんとなく何を言っているかはわかる。不思議な感覚だった。

画面だけ観ていてもわからない。
台本だけ読んでてもわからない。
でも、台本を読みながら観ると、わかる。

声は聞こえないけど、聞こえるような気がする。


私は、イヤホンをして観ていた。
声を聴くためではなく、周りの生活音を聞こえなくするために。
声なき声に耳を傾けるのは、ある意味では静寂以上の静寂と向き合うことになるなと思った。

 

集中して観ていても、時折、今どこを読んでいるのか見失った。
そういう時は、一生懸命台本を読みながら追うよりも、季節さんの口許を見ていた方がよかったのも不思議だった。じっと見ていると、突然"聞き取れる"瞬間があって、再び声が聞こえ出す。

 

季節さんは、本当に凄かった。
決して過剰ではない。でも、不足もしていない。
たぶん本当に普通に朗読してるんだと思う。その映像の音声だけカットしてる。
顔の動きだけで、良い声が出ているのがわかる。音声がないからこそ、微妙な表情の変化や、目線のやり方、口の開け方に集中できる。

 

通常の「朗読」は、多くの場合、音声だけだ。
だから聴き手は、その声を聴きながら、情景を想像する。

そういう意味で、「音のない朗読」は全く逆の営みだった。
観客は、画面を観ながら、声を想像する。


どちらも、限られた情報から、想像で世界を広げるという点では同じだが、私の中ではかなり感覚が違った。

耳で聞く「朗読」は受動的だが、目で観る「音のない朗読」は、ものすごく能動的というか…………観客である自分がかなり必死に「受け取ろう、受け取りたい」と思わないと、受け取れないような気がした。

 

 

季節さんは本当に凄かった。
「受け取ろう、受け取りたい」と思いながら向き合えば、ちゃんと手渡してもらえるような何かがあった。

押し付けるわけでもないし、出し渋るわけでもない。
でも、確かにこちらに向かって扉を開けて、手をさしのべてくれているような、そんな朗読だった。

 

物語の終盤、主人公が女の子と同じ布団に入る。
そして、彼女の身体に触れる。

一人で読んでいるときもドキドキした。
でも、そのときよりも、もっと、ずっと緊張しながら、私は耳を傾けていた。

この頃には、どちらかを注視していても今どこなのか見失うことはなくなっていた。
文章を読む自分と、画面の中で朗読をする季節さんと、主人公の見ている世界が、完全に繋がっているような気がした。

 

主人公の心が揺れる。
季節さんの瞳も揺れる。

目許をぬぐったのは、演出なのか、演技なのか、それとも自然に出た動きなのかはわからない。

 

劇団た組の芝居を観ると、私はいつもそのリアルさと、純度の高さに胸を打たれるけど、今回もそうだった。

自分の中のいろんな記憶と結び付いていくのも一緒だった。


女子大の女子寮で過ごした四年間のこと。
サークルの先輩や友達の家に何度も泊めてもらったこと。
働き始めてから、地元に戻った私のアパートに学生時代からの友人が泊まりに来たこと。


自分の記憶の中の自分と、自分の記憶の中の"女"たちと、目の前の藤原季節さんが、重なる。

 

ラストシーンは静寂に満ちていた。
ずっと音はないのに、でも声は確かに聞こえるのに、そう感じた。

孤独な魂が浮き彫りになるような静寂。


そして配信が終わる。
画面が真っ暗になり、自動で次の動画が再生されかけたところで、あわてて画面を閉じた。


私の目蓋の裏には、最後の季節さんの表情が焼き付いている。
耳の奥には、まだ声なき声の響きが残っている。


私は文字を読むと、脳内で音声が再生されるタイプだから、何を観ても何を読んでも今はノイズになってしまう気がする。
この感覚が残っているうちに何とか記録しておきたくて書いた。


今夜はこの静寂の中で眠ろうと思う。

ものすごく良いものを観た。

 

 

と、ここで終われば一つの文章として綺麗だよなと思ったけど、まだ書きたいことがあるからもうちょっと書く。


藤原季節さんは、『貴方なら生き残れるわ』で知った。
でも、その時は正直それほど意識してなかった。たぶん演じていた松坂が、私にとって思い入れのあるキャラクターではなかったからだと思う。
でもそれは、あの脚本の中の松坂としてはたぶん正解で、藤原季節さんはものすごく繊細な演技をしてたんだな……と気がついたのは、観てから随分経ってからだ。

私が「いや、藤原季節さんめちゃめちゃ良いな?」と気がついたのは『誰にも知られず死ぬ朝』だった。
青年の脆さ、危うさ、透明で繊細で壊れやすいがゆえの虚勢が、そのまま人間の形をして立っているようだった。

水面の揺らぎのような、微妙な、でも確かにそこにある、一言では言えない何かを、変にわかりやすい形にすることもなくそのままそっと持ってきて見せてくれるのが上手い人なんだな……という印象だ。

今回で、その思いは余計に強くなった。

 

ていうか、表情と少しの仕草だけであんだけ伝わるって凄くない!?

あと、顔を見てるだけで明らかに良い声が出てるのがわかったので、音声だけのデータもほしいです、私…………

藤原季節くんファンの人とか、今頃「……人魚姫じゃん」ってなってない?大丈夫?

 


そして、今回の台本の元となったのは『貴方なら生き残れるわ』のパンフレット巻末に掲載されてる未発表の小説だと思うんですけど、そこで加藤さん「この続きが8万字くらいあります。まじか~」って書かれてるんですよね…………続きは……続きはいつか読ませてもらえるんですか????
8万字あれば文庫本換算で120ページくらいになると思うんですけど、どうか……どうか………………

 


あと、タイトルについて少しだけ。
『私の世界のすべてだったお前』という題名だけど、主人公は「僕が見てる世界は全部ウソなのだ。いや、もしかしたら、僕の見えない部分がウソなのかもしれない」と言っている。
主人公の、ウソの世界の中では、目の前にいる彼女だけがホントウだったんだろうか。
それとも、ウソの世界の中で、"彼女"だけは、"ホントウ"の"私"を見てくれたんだろうか。

 


まとまらないけど、終わります。

 

 

劇団年一『肌の記録』を観て感じたこと、考えたこと


2020年5月7日(木)
劇団年一『肌の記録』

を観た。

 

脚本・演出は劇団た組の加藤拓也さん。出演は柄本時生さん、岡田将生さん、落合モトキさん、賀来賢人さんだ。
新型コロナウイルスの流行で、公演はおろか稽古すらできなくなった今、「オールリモートでビデオ通話を使った映像のような演劇のような新しい作品」として公開された。


上演期間は【5月7日(木)~5月21日(木)】の期間限定なので、まだ観ていない人はぜひ観てほしい。
https://youtu.be/cosy5UZML7g

 

 

以下、読んでいる人も観た前提で勝手に語ります。
またレポのような感想のような自分語りのようなまとまらない文章になってしまったけど許してほしい。

 

私は、脚本・演出の加藤拓也さんのファンだ。
出演者の四人のことは、ほとんど知らない状態で観た。


加藤拓也さんを知らない人にさらっとだけ説明しておくと、劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

どれくらい「今」を掬い取るのが上手いかというと、4月にはいち早く現在の状況を下敷きにSkypeを用いたインターネット公演を行っているくらいだ。*2

 

だから、今回の『肌の記録』も、とても楽しみにしていた。
こんなときだけど、こんなときだからこそ生まれた表現方法で、今しかできないことをやる。しかも、たぶんこんなときじゃなかったら一緒にできないようなメンバーで!もう絶対面白い……試みの時点で面白い……。
正直、かなりハードルを上げていたと思う。でも、その期待を裏切らない面白さだった。「映像のような演劇のような」と銘打たれており、本人たちは「映像作品」と呼んでいるが、私は観て「なるほど、これはこれで"演劇"だな」と思った。

 


舞台は今から100年くらい未来。
疫病の流行で、外出は基本的に禁止。仕事も学校も全部リモートで、友達と遊ぶのもオンライン。
そんな「もしかしたらあるかもしれない未来」のお話だ。

 


最初に画面に現れるのは、柄本時生さんだ。

「僕たち幼馴染で30歳なんですけど、まだ会ったことがないんですね、全員」


部屋を歩きながら、そんな物語の背景を説明していく。


登場人物は、四人だけ。
全員、役者さんと同じ名前のようだ。
中身まで同じかどうかは、私にはわからない。

 

カメラを持って部屋の中を移動する四人。
全員が白い壁を背に落ち着き、トキオの画面に「6」と書かれた紙が大きく映し出される。。


「では、6歳をやりまーす」

そう宣言したかと思うと、次の瞬間、マサキ、モトキ、ケントの三人は6歳になっていた。手には自分の子供時代の顔写真を張り付けた人形を持っている。


「先生やります」

トキオは眼鏡をかけて改めて画面を見つめ、子どもたちに自己紹介を促す。
これは、四人が初めて出会った日、小学校の入学式のようだ。

 


普通の映像作品であれば、別々に撮った映像を切ってつなぎ合わせ、時間や場所の変化を表現する。
演劇の舞台ではもちろんそんなことできないから、照明や舞台装置を変化させることで場面転換を行う。この不自由さが、演劇の面白いところでもある。


今回の『肌の記録』は、映像作品ではあるが、オールリモートの一発撮り。制約はむしろ演劇よりも多いくらいかもしれない。
だから自然とワンシチュエーションになるのかなと思っていたが、全然そんなことなかった。*3
カメラのアングルも工夫されていて、背景や角度が毎回違うため、観ていて面白かった。(ていうか生活感丸出しの柄本時生さんのおうち探訪したり、真下から落合モトキさんを観たり、落合モトキさんが猫ちゃんと戯れるところを観たり、岡田将生さんと一緒に寝転んだり、賀来賢人さんとくるくる回ったりなんて、なかなかできる経験ではないと思うんだけど、これ俳優推しの人、生きてる?大丈夫?)

 

場面転換のやり方はすべて同じ。
人物がカメラと共に移動し、トキオの画面に年齢を示す数字が書かれた紙が映る。そして、誰かが「〇〇やります」と宣言した瞬間、その年齢のその人物になる。


この「〇〇やります」と宣言して演技に入ったり、シュールな小道具を用いるやり方は、今年2月に上演された劇団た組 第20回目公演『誰にも知られず死ぬ朝』の演出に似ているなと思った。
『誰にも知られず死ぬ朝』でも、登場人物が冒頭に年齢を宣言する。安達祐実がはにかみながら「13歳をやります」と宣言した瞬間、本当に13歳の少女になったのには度肝を抜かれた。いや、本当の安達祐実は38歳なのはわかっているのだが、でも目の前に現れたのは13歳の少女だったのだ。小道具の使い方もそうだ。机の脚が屋上の手すりになったり、ラジコンカーが本物の車になったりする。それも、本当は違うのはわかっているが、舞台上で"そう"なっているから、観客も「ああ、"そう"いうことなんだな」と信じる。*4


演劇は制約が多い。
だから、そこにないものをあるように見せたり、そうじゃないものを本当にそうであるかのように思わせたりする。
舞台上はそういう「嘘」に満ちている。
でも、役者と観客がその「嘘」を信じることで、それは「本当」になる。


私は、演劇には「双方向性」が必要不可欠だと思っている。
役と役者の双方向性。舞台上と客席の双方向性。そこでは虚構と現実が混じりあい、新たな物語が生まれる。


どう見ても成人男性である俳優たちが「6歳をやります」と言った瞬間、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。
奇妙な裸の人形に顔写真が貼り付けられたものの掛け合いを観て、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。


どう見ても違うものを"そういうこと"として提示するのは、観客のことを信頼していないとできないことではないだろうか。
もちろん役者さんの演技や、脚本や演出が上手いのもあるけど、観客も同じ景色が見えている、同じ世界に生きていると信じてもらえている気がして、少し嬉しい。

 

 

このような場面転換を繰り返し、出会った時は6歳だった四人が少しずつ成長していく。
VRでゲームやスポーツをしたり、古い文献をもとにでたらめなかくれんぼをしたり、"おセック"への好奇心を膨らませたりしながら、大人になっていく。

とくに"おセック"への食いつきぶりはものすごかった。
この社会では、異性との出会いもオンラインでのお見合いに限られている。オンラインで知り合い、オンラインで親交を深める。そして、結婚することになって初めて会って"おセック"することができる。
だから、結婚相手以外との"おセック"は考えられないし、それも子作りという明確な目的があっての行為のようだ。コンドームは過去の遺物となり、AVなんてものも存在しない。子どもたちは18歳になると国が作った"おセック"の動画で勉強する。

でもこのへんは正直、「んなわけあるかいな」と思いながら観ていた。
実際に会うことはできなくても、小説や漫画は存在するはずだ。今だって1000年以上前のどえろい文章が読めるくらいなんだから、100年後でも今のえろ本は生き残っていそうである。
ていうかそんな社会ならVR風俗とか発達してそうだなと思ったりもした。いや、まあそのへんは描かれてないだけって可能性もあるれど。
エロの分野こそ、私はフィクションの力を信じたい。

 


さて、一つの転機は、マサキがお見合いで出会った女の子に実際に会いに行ったことだ。

外出は許可がないとできない、それどころか他人とリアルに触れ合う機会は皆無の社会で、マサキは危険を冒してまで行動した。
そして、感極まった様子で、好きになった相手と実際に会って、彼女を抱きしめたことを報告する。
外の世界に興味を持ちながらも、何度も「……リスクがね」と繰り返してたマサキがだ。


そんなマサキの行動に一番影響されたのはケントである。
ケントは一度も家から出たことがないらしい。
しかし、マサキの「意外と大丈夫だった」という言葉で考えが変わる。

そしてケントは「みんな一回オフラインで会ってみない?」と提案する。
だが、その誘いに賛同する者は誰もいない。
モトキは最初から外の世界に興味がないし、マサキも女の子には会いに行ったのにケントと会うのは乗り気ではないようだ。

「病気のリスクとかあるし、相手にうつすかもしれないし」という言葉は、今の現実世界の状況とも重なる。

 

「でも、みんな画面だから、ほんとにいるのかな、と思う」というケントの言葉には共感した。
SNSでどんなに親しくやり取りしていても、たとえ通話したことがあったとしても、オンラインで知り合った相手と初めてオフで会うときは「うわ~本当にいた~!生きてる~!」という気持ちになる。Twitterのフォロワーとか、全員botなのでは……と思うこともある。
離れていても繋がることができるツールがいろいろあるが、結局は「生」の感覚に敵うものはないんだなと、しみじみ思う。
でも、彼らはまだ、その「感覚」を知らない世界に生きているのだ。

 

それからケントは、少しずつ外出をするようになる。
街の人の少なさに驚きながら、まだ使われていない家に忍び込む遊びをするようになる。


四人は誰とも会わないまま30歳になった。
マサキも結局、結婚はしていない。

 

廃墟に忍び込むケントを、ビデオ通話で見守る三人。
そこでケントは、演劇の台本を見つける。

「映画は家で観るからいいけどさ、演劇って場所に集まって観てたらしいよ」
「え、それくそリスク高いじゃん」

そして四人はその台本を読み合わせてみることにする。
ケントが撮った写真を共有し、じゃんけんで配役を決める。(ずいぶん奇妙なじゃんけんで三すくみではないようだったけど、100年後のじゃんけんどうなっとるんや……?)

 

登場人物の名前を聞いてすぐに、劇団た組の『在庫に限りはありますが』だと気が付いた。
2019年4月に上演された、ハンバーグ屋が舞台のお芝居だ。*5


主人公の洸一は、人前で食事ができない。
妻の里奈とは、なんとなく上手くいっていない。

里奈は、「家族と一緒にご飯を食べたいって思っちゃいけないの?」と洸一に訴える。
と同時に、「家族だから、家族とセックスはできないよ」と洸一を拒む。

二人はお互いに初めて付き合った相手であり、そのまま結婚した。
でも里奈は、本当にそれでよかったのか、もやもやしたものを抱えている。


そんなお話だ。

 

最初は「え、何で『在庫に限りはありますが』?」と思ったが、四人が照れながら読み合わせを始めたのを聞いているうちに、「『在庫~』は、実際に会って触れることで心を通わせる社会だからこそ起きる問題の話なんだな」と気が付いた。
結婚する前に他の人と付き合ったり抱き合ったりするのが普通の社会だから、自分が一人の相手しか知らないことで思い悩む。
子どもを作るだけでなく、コミュニケーションとして肌を触れ合わせるのが普通の社会だから、仲の良い夫婦であってもセックスレスであることで亀裂が入る。
そして、洸一の「人前で食事ができない」ことが問題視されるのも、誰かと一緒に、向き合って食事をすることが大切にされている社会だからだ。


今の四人が生きている社会にはないものばかり。
それは、読み合わせながら本人たちも感じたらしい。


台詞にこめられた切実な思いに、読んでいる二人も、聞いている二人も、あてられていく。

 

この場面の、間と空気が、本当にすごい。


それぞれが、何かを感じているのがひしひしと伝わる。
そして、夢から覚めたように、あるいは何かを誤魔化すように、元の空気に戻そうと話し出す感覚が、本当にリアル……というか、手触りがあって、凄かった。

 

三人が飲み物を持って帰って来ると、ケントは泣いていた。

 

「これ実際の人間に会った時に言えんのかな……」

 


彼らは、オンライン上でしか誰かと会ったことがない。
実際に対面で話すときの、相手から言葉以上の何かが発せられるあの感覚を知らないのだと思うと、私も何も言えなかった。

 

 

沈黙を破ったのはケントだ。

「誰か来た!……音がした!」

「うそうそうそうそ」
「え、マジ?」
「ヤバいヤバい」
「声出さない方がいい!しーっ!しーっ!!」


一気に漲る緊張感。
息を潜める四人。
ケントの画面は暗闇に包まれる。


「……うっそ~!」


と次の瞬間、ケントが歌うような声で言った。


「うっそ~」

「は、え?」
「なんだよ~!」
「あー、よかったぁあ……マジでびっくりした~」


観客も、三人も、ケントの演技に騙されたのだ。

 


……ああ、またやられた。
加藤さんの脚本は、こういう演出が本当に上手い……。
嘘のような本当と、本当のような嘘が交差する。

 

と思ったら、これで終わりではなかった。

 

グループ通話から画面が切り替わり、トキオだけが大きく映し出される。


「はい、というわけでね、僕たち30歳になってそれでどうやって生きているのか……というお話でした。…………実際にはこうやって会わなくても機械のおかげで生きていけるんでね!機械様なんですよ!頼るのは人間じゃない!機械なんですよ!機械は裏切らないですからね!」

 

「お疲れさまでした~」と手を振るトキオ。
そして、画面が再び四分割に戻る。

映し出された四人の姿は、先ほどまでとは明らかに何かが違っていた。

 

「……はい、というのはどうかなと思うんですけど~」


頭をくしゃくしゃにしながら意見を求める時生に、三人がぽつりぽつりと意見を述べる。


劇中劇!!!!!!!!
100年後の未来、全部、劇中劇!!!!!!!!!!


演劇ではよくあるオチではあるが、完全にやられた。
フィクションの中でフィクションをやる、あれ。
しかもラストは私たちと同じ"今"に全員生きていることがわかる、裏の裏は表……的なあれ……。


劇団た組のインターネット公演では、最初が"今"の話で、そこから1年後、2年後とスキップしていったので、置いて行かれるような連れていかれるような感覚に陥ったが、今回はその反対だった。
一気に"今"の"現実"に引き戻される、強烈なショック。
彼らの"嘘"を"本当"だと信じていたからこそ、本当は嘘だった現実に衝撃を受けた。

 


タイトルの『肌の記録』は、「今、肌で感じることの記録」という意味なのかなと個人的には思った。


物理的な接触としてという意味でも、私たちは「肌の記録」と「肌の記憶」を持っている。
でも、100年後に生きる彼らは、肌と肌が触れる感覚を知らなかった。


実際に触れなくても、肌は様々な感覚を伝えてくれる。
ざわざわしたり、ぞくぞくしたり、ちりちりしたり、ひやりとしたり…………。
演劇を観ているときに私は、肌で、それらの感覚を受け止める。
舞台上の役者が起こす空気振動と、客席から起こるかすかなざわめきと、自分の奥底から沸き上がる何かが、私の肌を外からも内からも刺激する。
そうして私は、皮膚によって隔てられた「私」と「私以外」の狭間で、新たな何かに出会う。

 

 

「100年後、どうなってるのかね」

 

 

それは誰にもわからないけど、人間が生きている限り、そこには「物語」が生まれるし、人間は生きる中で様々な役割を演じながら暮らしているから、「演劇」がなくなることはないんじゃないかな~~~~~~~~~~~~~~~~と思う。

ていうか、こんな強烈に面白くて刺激的なもの、手放せるわけない。

 

映像作品だけど、演劇の魅力を再確認させられるような、「新しい作品」に出会えて良かった。


まとまらないけど、終わります。

 

 

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより

*2:そのときのレポと感想はここ→ 劇団た組インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観た - エモーショナルの向こう側

*3:ちなみに劇団た組のインターネット公演では、ビデオ通話のオフが暗転の代わりのような働きをし、時間の経過が表現されていた

*4:このへんの詳細は、『誰にも知られずに死ぬ朝』の記事で→ 劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側

*5:これの感想はこちら→ 劇団た組。『在庫に限りはありますが』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側

『要、不急、無意味(フィクション)』を今、私は求めてるんだなという話


昨夜、劇団た組のインターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観て、勢いのままにレポのような感想のようなものを書いた。
でも、朝になって読み返してみると、起きた事実の羅列ばかりで自分の考えたことほとんど書いてなくてびっくりした。大学のレポートで提出したら、教授から「引用が多すぎる!君の論はどこなんだ!?」と突き返されるレベル。


だから今度は、自分が感じたこと考えたことをもう少しまとめて書きたいと思う。

 


まず、今回のSkypeによる公演が発表されて思ったのは、「加藤拓也さん、やりおる~!」ということだ。
加藤拓也さんは劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

 

劇中で大河が「今回のことネタにしたやつ(作品)とか出んじゃね?」と言っていたが、本当にそれはあると思う。
でも、実際に起きた事件や事故や災害をフィクションとして作品に落とし込むためには、それが解決しているあるいは未解決でも"ある程度過去のもの"になっていることが大前提だと思う。

そういう意味では、「ウイルスの流行で外出できない日々が続く」という、今まさにリアルタイムで起きていることをフィクションに落とし込めるのは、加藤拓也さんの凄さだなと思う。Skypeを利用して、「グループ通話をしている男たちの"物語"を、観客もグループ通話に参加して観る」という形式もだ。この公演は、この形式でなければあり得なかった。

正直、SkypeよりもYouTube等の動画サイトで配信した方がトラブルも少ないんじゃないかと思ったりもした。でもそれでは、演劇の醍醐味のひとつである、役者と観客の双方向性が失われてしまう。

 

加藤拓也さんは、今回の公演に際してこのようなコメントを寄せている。

いわゆる演劇の中継や過去作品の配信ではなく、配信の特性をそのまま作品と上演に持ちこんで、それの、配信や生放送ドラマとの違いを体験しながら、演劇の性質は一体どこに担保されて、どこに求めているのか、インターネットをクローズドにして、今この環境の中、この機会に改めて自分の中で検討してみたいと思います。

 


そう、演劇って何だろうと考えたときに、私は「生身の人間が虚構を演じるもの」が演劇であり、そこには「観客との双方向性」が不可欠だと思う。

「舞台はお客さんに観てもらって初めて完成する」とよく言うが、本当にその通りなのだ。
実際に自分が舞台に立つときも会場の雰囲気やお客さんのリアクションで全然違うものになる。いやこれは私がアマチュアの素人だからで、プロの役者さんはどんな会場、どんなお客さんでも影響を受けないのかもしれないけど……でも、上手に空気を受け取れるとすごく気持ちいいのも事実で…………このへんの役者論みたいなのは自分でもよくわからないので、とりあえず置いておく。

観客としてもそうだ。
同じ舞台でも、観るときの自分の状態で全然違う感想を抱くことになる。
身体的なことだと、寝不足で観に行ってしまって集中できなかったり、劇場の椅子が固くて途中から「おしりいたい……」しか考えられなくなってしまったりするけど、まあそういうことではなくて。

観るときに自分の考えていることで、同じ舞台でも全然違う感想になる。
たとえば自分も似たような経験があるストーリーだと、当時の自分のことを思い出してしまう。
たとえば好きな役者さんが出ていると、その人の動きやその人がやっているキャラクターばかり観てしまう。そして自然と感想も、好きな役者さんや好きな役者さんがやっていたキャラクターについてが中心になる。
たとえば最近読んだ本に書いてあったことと描かれるテーマが似ていると、「ああこれはあの◯◯にも通ずることだな、なるほどそういう意味か」と理解が深まる。

同じ舞台を観たはずなのに、一緒に観た友人と話すと「えっ、そんな場面あった!?」とか「あれってそうなの? いや私はこういうことだと思ったんだけど……」みたいな状態になることもよくある。


結局は、舞台の中にストーリーがあると同時に、観ている側もそれぞれ独自の"ストーリー"を持っているから、そうなるんだと思う。

このへんについては、加藤拓也さんが『今日もわからないうちに』(2019)のパンフレットで語る「演劇行為」についての話に近いかなと思うので、引用しておく。

 

[前略]今から当たり前のことを言いますが、今回の作品は人生の歩み方によって見えるものや感じるものが違う作品になってゆくんだろうなと感じています。それは僕や僕たちの意図から離れたところでよく膨らむという意味です。そんな風に作品の中も、演劇ではなく演劇行為であったという外も、お客さんの記憶をたよりに僕らはきっと今後も演劇をやっていくんだろうなって思っています。
(『今日もわからないうちに』パンフレット、串田和美さんとの対談より)


今回の公演についていえば、私は鈴木勝大さんのファンで、11月の居酒屋公演も観劇していた。
だから点と点を繋いで線にするように、居酒屋公演で得た情報と今目の前で話す大河を結びつけて自分なりのストーリーを作って観ることができた。


さらに、観客は全員、画面の中と同じ世界(=ウイルスが流行しているため家にいるしかなくてSkypeでグループ通話をしている状況)を共有している。
彼らの会話が身近に感じるのも当たり前のことで、彼らに自分を重ねるのも自然な流れだ。
脚本の外側、演出家や役者の意図した以上の範囲にまで、演劇空間がどんどん膨らんでいく。


そうやって「今ってそうだよな~わかる~」と思っている内に、彼らの時間だけ一年後にスキップする。でもそれも「こういう可能性もなくはないな」と感じる範疇の未来で、なんだか怖くなる。フィクションのはずなのに、これが現実になったらどうしようという焦りがある。

結局、未来は誰にもわからないから、今、未来の話をするとそれはすべて「フィクション」になるのかもしれない。そんなわからない未来を「あるかも」と思わせるためには、過去から今へのリアリティーが必要だ。
仕事などで未来の話をするときも、「今こういう状態です」「過去にはこんな前例もありました」という過去から今への事実を積み重ねて、未来のストーリーを描く。
「今」が「リアル」に感じられるほど、未来の空想も現実味を帯びる。

 

演劇における「今」は、舞台で演ずる役者たちが生きる「今」であり、舞台で演じられる役の生きる「今」であり、舞台を観ている客がそこにいる「今」でもある。

そして、役者たちが役と共に積み上げてきた「過去」と、観客それぞれの持つ「過去」が、舞台上で「今」は「過去」となったことと響き合い、まだ見ぬ未来へと誘う。

生身の人間から生まれる「今」の手触りが、役者にも観客にも影響を及ぼし、相乗効果で面白くもなるし、その逆もあり得る。

 

画面を通した「配信」という形式だと、「生身の人間がいる」という感覚は薄れがちだ。
でも、それを「Skypeのグループ通話に参加する」という観客の能動的な行為と、「劇中の人物も同じ状況で、同じように画面を観ている」という体感的なリアリティーで克服したのが、今回のインターネット公演なのではないだろうか。
「役と役者の距離」「舞台上と客席の距離」という意味では、もしかしたら普通の劇場の公演よりも近かったくらいかもしれない。

しかも今、このタイミングで、「今しかできないな」と全員に感じさせながらやっちゃうのが本当に凄い。
なんかもう観る前から「やられた~!」感があるし、観たらさらに「なるほどな~!」という気持ちになってしまう。

 


そして、もう一つ。
あくまで「生配信」であることにこだわったのも、大事なポイントだろう。

前述の通り、演劇は「今」の「生」であることに大きな意味を持つと私も思っている。
もちろん良い作品はDVDやインターネットなどの映像で観ても面白いのだが、それでは「役者の"今"」と「観客の"今"」は解離しているから、双方向の相乗効果は薄れてしまう気がする。あと「良い作品は映像で観ても面白い」と書いたが、そんなに面白いと思えないような作品でも、生で観ると面白いのだ、不思議なことに。「わけわからんな」と思いながら観ているその時間が、なんかよくわからないけど面白かったりするんだ、本当に不思議だけど。

加藤拓也さんはとくに、舞台作品の映像化や書籍化を全然しない人だ。だから今回も、録画録音は絶対NGだし、アーカイブも残らないだろうなとは思っていた。まあそもそも「Skypeを使ったインターネット公演のアーカイブ」って、それ映像作品と何が違うんだよって感じだが。

前述の通り、加藤さんは「今」を何より重視する人で、かつ演劇は「演劇行為」だという持論を持っている。
ちなみに過去にはこのように語っている。

 

自分たちが上演する作品はやがてあなたの記憶だけが演劇行為の証になる。どんな演劇行為であったか、あなた達が頼りだ。私たちはあなたの記憶を頼りに演劇行為を思い返す日が来るかもしれない。演劇だけはなく、演劇行為であったことを忘れないでほしい。
(『今日もわからないうちに』パンフレット、前書きより)

 

こんなこと言われたら、書くおたくはますます書くしかなくなる。自分の記憶を記録するために観劇感想を書き留めていたが、それ以上の意味を持つ気がしてくる。
先ほど挙げた「双方向性」は、実際に観劇している瞬間だけでなく、見終わった後も続いているのかもしれない。

 

いやでも、私が今回「生配信」であることが大事だと思ったポイントはそこではない。

今回の公演で強く感じたのは、「今この瞬間ここにいないと観られない」という制限があることも、演劇の要素として欠かせないということだ。

もちろんこれは先の「今」「生身」「双方向」というところとも繋がってくるけど、「集中して観なければいけない場」があるのも大きいと思う。

見逃したら二度と観ることはできず、観ている最中に起きたこともすべて今しか味わえない。
だから、観るための準備を整えて、"劇場"へ向かう。

 

演劇でも映画でもライブでも、やっぱり「その場に行って観る」というのは特別だ。
このあたりについては、別の人が詳しく書いてくれていて、私もまさにその通りだと思ったので、リンクを貼っておく。


Skypeでの生配信、というか通話に参加するという公演形態は、劇場に行くのと同じとまではいかないけど、極めて似た状況に私を導いてくれたと思う。

 

 


じゃあ、なぜそこまでして、今、演劇なのだろうか。


私は最初の感想で「無意味な会話をフィクションでやる意味ってどこにあるんだろう」と書いた。

一晩経って思うのは、「無意味なものにこそ意味ってあるよな~」ということだ。
矛盾するようだけど、無意味だから意味がないわけではなく、無意味だからこそ意味があることもたくさんある気がする。

というか、たぶん意味があるかないかなんて、誰にもわからないのだ。
今は意味がないことも未来には意味のあることかもしれない。逆に今は意味があると思っていても、実は意味なんてなかったことがわかるかもしれない。あるいは、私には無意味に思えることが他の誰かにはとても大きな意味を持っていたり、私は意味があると思っていても誰にも理解されなかったりすることもあるだろう。

「それ何の役に立つの?」みたいな問いは、それこそ無意味なものだ。ナンセンスといった方がニュアンス近いかも。


無意味だから、意味がある。
「意味なんてない」と言われると、逆に「どういう意味?」と考えたくなる。

 

そして今回「無意味」と銘打って繰り広げられるのは、私たちの「日常」だ。

じゃあ私たちの日常は無意味なのか?
答えはNoだろう。
生きているだけでそこには何らかの意味が自然とついてくる。

 

物事に意味を見いだすことは、物語を紡ぐことと似ている。

 

だから、私には物語(フィクション)が必要なのだと思う。
他人の物語に触れることで、自分の物語の意味を知ることができる気がする。

 


さらに「演じる」ことも、すべての人が生きる中で無意識にしていることだと思う。家での自分、学校での自分、仕事をしている自分、友達と話す自分、恋人と過ごす自分、このすべてが同じだという人はなかなかいないだろう。
それを意識的にやるのが「演劇」なのだが、「演劇」という枠組みの中で演じることで、生きる上で無意識に背負っている役割から解放される部分もある。

これは決してやる側だけの話ではなく、観る側でも同じだ。私は、劇場の客席で「観客」という役割を演じている。


だから、今、私には演劇が必要だ。

今、自分の生きている世界を違う枠組みで捉えたい。
今、自分が生きている現実から解放されたい。
今、自分が生きている毎日に新たな意味を見出だしたい。

他の人はどうかわからないけど、私が演劇を、物語を、フィクションを、エンターテイメントを求めるのはこのあたりにあるような気がする。

エンターテイメントは生きていくのに必須ではない不急で無意味なことかもしれないけど、私には絶対に必要で、大切なものだ。
ライブも舞台も野球も全部が中止や延期になった今、劇団た組がこういう試みをしてくれたことが、私はとても嬉しかった。本当にありがとうございます。

 

 

 

ここからは役者さんの話。


普段の舞台では、衣装着て、髪の毛セットして、お化粧してるであろう役者さんたちが、髪の毛ぼさぼさノーメイクでビデオ通話してる無防備さがヤバかったので、若手俳優おたくはそれだけで観る価値あるかも。


とくに大河(勝大さん)、髪の毛ぐしゃぐしゃ~ってやったり、頬っぺたむにむにしたり可愛い。セットやメイクしてたらできないような仕草。
いやでも、めーーーっちゃ顔とか髪とか触るやん!そりゃ感染するわ!!!!とも思った。
そういえば大河は、居酒屋公演のときも、首とか触ってた印象強い。身体の一部を触りながら話すクセがあるんだな~。それが勝大さん本人のクセなのか、大河のクセなのかわからないけど。


秋元さんはとにかく声が良い~~~~!!!!
友達に話すラフな口調で、パソコンのスピーカーから声が聞こえる破壊力すごい。
お顔も端正な方だし、身なり整ったキャラクターだったから、目元が見えなかったのマジで悲しすぎる……通話参加者のアイコンはどうしたら消せたんだろう……顔の良さを浴びたかった…………。


健介、というか中山求一郎さん、髭生やすと別人だった!『貴方なら生き残れるわ』でしか知らなかったからびっくりした~!
大河とのやり取りに親しさが滲み出ててこっちもにこにこしてしまった。


幸作さんだけ私、映像が映らなかったの本当に悲しすぎる………腹筋も見たかったし、15歳の彼女の話とかどんな顔でしてたのか見たすぎた…………。
あと公式で「通信環境の良いところでないと映像のトラブルある」とアナウンスされていたけど、私が観ていたのはWi-Fiさくさくの自室だったから、通信環境に問題はなかったと思うんですよね……本当に謎……。

 

劇団た組の芝居は基本的に「素」ぽい演技を求めるタイプだから、役者ファンが観に行くとめちゃめちゃ楽しいと思う。毎回、キャスティングもめちゃめちゃ良いし、かなり狙ってその人ならではの役をあててる感じするから最高。

 

今回のインターネット公演も、それぞれが自然かつ意外ですごく良かった。

 


結局あんまりまとまらなかったけど、書きたいことは書いたので終わります。
早くまた劇場で演劇が観られるようになりますように!

 

※最初に書いたのはこちら

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより

劇団た組インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観た

 


劇団た組インターネット公演
『要、不急、無意味(フィクション)』
4月18日 19:00回

を観た。


新型コロナウイルスの流行で自粛が続く今の状況を逆手にとったSkypeによるインターネット公演。


実は私はチケットの予約ができず落ち込んでいたのだが、直前にある人から枠を譲ってもらえることになり、観劇ができた。
このへんの経緯の詳細は省くけど、本当に本当に嬉しかったです、ありがとう……。

 

というわけで、観られることになったのだが、Skypeのグループ通話を利用した今までにない公演形態で、最初はトラブルもあった。


具体的なトラブルとしては


・リンクからグループに参加しても通話に参加できない。
→PCからアクセスしたが、ブラウザだとどうしても無理で、アプリを起動したら参加できた(ともにゲストとして参加) 。たぶんスカイプのマイクとビデオのオフを、通話内ですればよかったのに、アプリへの許可でNG出してたから通話に参加できなかった。


・PCからだと上に参加者のアイコンが出るので、それによって役者さんの顔が隠れてしまっていた。とくに目元が隠れてしまって残念だった。
→表示をかえる方法があったのかもしれないけど、最後までどうしたらいいのかわからなかった。


・男3人の会話に後から1人加わって4人になる流れなのだが、4人目の映像が流れず、音声のみ。
→これも最後までどうしたらいいのかわからなかった。うまくいってた人がいたら是非教えてください……。

 

と、まあこんな感じだ。


私の操作ミスなのか、運営側の問題なのかは、正直わからない……というか、たぶん私のミスだったんだと思う。
でも、チャットで他にも「観れません」と報告してる人がいたし、通話に参加している人数が定員より少なかった気がするので、もしかしたらまるっきり観れなかった人もいるのかもしれない。

初回で観客側も運営側も予期せぬ事態も起きていたんじゃないかと思う。
これから観る人は無事に観劇できますように!
私の失敗も生かして、万全の状態で臨んでほしい。


まあでも、こういうドタバタも含めて、リアルタイムの公演の醍醐味なのかもしれない。

 


というわけで、ここからは肝心の中身についての話。
あらすじとレポと感想がうまく分けられなくて、いつも以上にぐちゃぐちゃになってしまった。でも、自分の記録のためと、譲ってくれた人への報告の意味も込めて、できる限り思い出して書いておく。まとまりは本当にない。


これから観る予定の人は、観てから読んでください!!!!
今回はネタバレなしで観た方がいいと思うので!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

開始前にチャットで運営からのアナウンス。
その中で、今回の役名が明らかになる。


【秋元・大河・健介・幸作】

 

大河!?
大河って、あの"タイガ"!?
居酒屋公演の!!?!!!!????!?!?


と思ったら、本当にそうだった。
劇団た組は2019年11月に、居酒屋公演を行っている。

今回のインターネット公演が発表されたとき、「あの居酒屋公演みたいな感じかな? また勝大さんいるし……」とは思っていたが、まさなこんなに被せてくるとは……。

ていうか正直、居酒屋公演観てた方が楽しめたと思うので、当時の自分のレポ的なもの置いておきます。

 


そんなこんなで始まったSkypeの会話。
私は前述のトラブルでなかなか通話に参加できず、やっと入れたときにはおそらく5~10分経過していた。


あらすじは、説明しようがない。
本当に仲の良い男たちがSkypeでグループ通話をしているだけだ。

 

会話をしているのは、大河(鈴木勝大)、秋元(秋元龍太郎)、健介(中山求一郎)の三人。

新型コロナウイルスの流行で外出できない日々が続く中、友人同士でリモート飲み会をしているようだ。
でも、ビールを飲んでいるのは大河だけで、あとの二人はコーヒーを飲んでいる。


大河は劇団に所属しているが、こんな状況では公演も稽古もできない。ピザの配達のバイトを受け、今は結果待ちをしているらしい。
嫁は看護師をしているところも、居酒屋公演の設定そのまま、というか完全に同一人物である。設定云々よりも、空気の読めない振る舞いや、無意識に甘えるようなふざけかた、粗野な笑い声でそれが伝わる。これは間違いなく、11月に居酒屋で昔の演劇仲間と飲んでいた大河だ。

秋元は、普通に会社員?のようだ。
彼女はいない。

健介は、専門学校に通う予定だったけど、それもなくなった?

このへんの細かい設定は、聞き逃したか、通話に入る前に終わっていたかで、よくわかっていない。
とりあえずわかるのは、彼らはずっと以前からの親しい友人同士ということだ。


どれくらい親しいかというと、大河が通話繋いだままトイレに行くくらい。
他の二人は「いやお前映像切れよな」とわらっていたけれど。

 

背景は普通の家の中。
全員自宅に引きこもっているのだろう。

「いつ収まんのかね」
「仕事とか行ってるうちは無理じゃね?」

彼らの会話は、最近実際にいろいろな場所で耳にしたり口にしたりしている言葉そのままだ。

 

会話を引っ張るのは大河。
いや、引っ掻き回すといった方が正しいかもしれない。

自分が「話したい」と思ったらそのまま口から出てるというか、他人の話を聞く気があんまりなさそうに思える。本人はその自覚がないような気もするけど。

だから自分が話したいことを突然話し始めたり、突然口パクになって音声だけ切れる演技をしたり、突然固まって映像固まる演技をしたり、突然ぶんぶん揺れ始めたりする。


観客として観てる分には面白いけど、正直友達との会話でこれやられたらかなり鬱陶しいと思う。


そこにあとから幸作(諫早幸作)が参加してくる。
大河が「全員揺れてようぜ!」と言って、三人ともぶんぶんヘドバンしてるところにだ。謎すぎる。


私は幸作の映像が観られなかったので、どんな顔で話していたのかがわからないのだが、幸作は結婚してるのに彼女が二人いるらしい。しかも新しい二人目の彼女は15歳らしい。


15歳!?
え?は?どゆこと??????


三人の興味が一気にその15歳の彼女に向かう。


「きっかけは?」
「向こうからのナンパ。スタバで連絡先渡されて、ラインして~みたいな」

「15歳って気づかなかったの?」
「気づかなかった。韓国とのハーフで大人っぽくてさ」

「え、どこまでした?」
「してないよ何も!健全!健全!」

「まーじで!?」

 

正直、幸作が来るまでの会話は友人同士のとりとめもない日常会話で、「知らない人たちの会話覗き見してる」感覚が強かったのだが、幸作の15歳の彼女の話は自分も一生懸命聞いてしまった。
他人の恋愛話とかなれそめ聞くのって、何でこんなに楽しいんだろうか。

 


そして大河が、「幸作をムラムラさせてやる」といってPCでAVを再生し始める。
画面はこちらに向いてないので、音声だけ。
甲高い喘ぎ声を聞きながら「いや、何それ」と苦笑する他の三人。


「ムラムラした?」
「しねーよ、声だけだし」
「声だけだと逆に興奮しねえ?」
「いや、お前だけ観てんじゃん!」


そして、AVが閉じられなくなる。嫁の仕事用のPCなのに。嫁、いつコンビニから帰ってくるかわからないのに。


喘ぎ声をバックに続けられる会話を聞きながら、「私はいったい何を観させられているんだ?」と思っているうちに、通話が切れた。

 


そして一年後。

チャットでお互いに準備ができたか確認しあう四人。

通話が始まると、全員薄暗い部屋にいてびっくりした。
どうやらまだ流行は続いており、外出などに厳しい制限がかかっているらしい。


食事はまずい配給を食べるしかなく、トイレットペーパーは幅が狭くて木のように固い。
髪を切りにいくにも許可証が必要で、申請はLINEでもできるけど手続きに最短三日はかかる。
そんな、もしかしたらあるかもしれない未来に、彼らはいる。

大河の嫁は看護師だから、もうずっと家に帰ってきていない。
幸作の15歳の彼女は16歳になったが、ずっと会えておらずビデオ通話が精一杯。


「このまま会えなくて次に会うとき彼女30歳とかだったらどうする!?」
「それは嫌だな~。そうなる前にちゃんとしとけばよかったと思うよね」
「何?セックス?」
「ちげーよ、自粛とか!」


「AVも自粛始まった頃に新作も旧作も無料とかあったけど、今もう新作ないから見飽きたよね」
「そんときアクセスありすぎてサイト落ちてなかった?」
「落ちてた落ちてた!」
「どんだけ皆シコってんだよっていうな!」
「同時多発シコ」
「AVとかオススメ出てくるじゃん? 似たようなのばっかで新しい出会いがないよな」
「オススメ何出てくる? 俺はナース」
「嫁じゃん」


四人の会話は一年前のままだが、社会の情勢はずいぶん変わったようだ。
電話をするにも許可が必要で、電気がついていないのもきっと規制されているからだろう。

そんな中で裏営業してるところもあるようで、大河は行きたそうな雰囲気だ。


現実世界でも、もしこのまま流行が収まらなかったら、こんなディストピアになってしまうんだろうか?

 


そしてさらに一年後。

今度はみんな明るい部屋にいる。
一番最初にいたのと同じところのようだ。
それだけで、状況が少し好転したのかなという気がする。

白いシャツ姿で仕事帰りらしい秋元。
通勤電車の混雑はまだ8割ほどだが、多くの人が仕事に行けているようだ。

一人だけ通話に参加するのが遅かった健介は、新しいマイナンバーの申請に行ってきたと話す。

これは、流行が一段落した世界なのだろう。
でもまだ自粛や規制が完全に解除されたわけでもないらしい。
AVも、新作が撮影されても接触しないためにすべてエアーで行われているという謎設定。逆に観た過ぎる。

 

そして大河は、大真面目な顔で、「陰謀論」を語りだす。
今回のウイルスは、"悪"を一網打尽にするために意図的にばらまかれたものだという、なんとも胡散臭い話だ。

聞いている三人は、苦笑するしかないが、大河は真剣である。

「いや、そんなん最初から言われてたデマじゃん」
「これは本当なんだって!信頼できる筋の情報だから!」
「証拠ゼロ」


居酒屋公演のときも思ったが、大河は"わかりやすいもの"が欲しいのだろう。
不確実なものや未解決のものを受容する力(ネガティブ・ケイパビリティ)が欠けているというか、自分が"わからない"ものがある状態に耐えられないんだと思う。
だから、わかりやすい「実は……」という話を簡単に信じてしまうし、他人のリアクションにもわかりやすいものを求める。
他人からすると、そんな大河が一番"わからない"存在なのかもしれないけど。


「コロナの隔離期間が終わっても大河は隔離だな」
「外出れずに偏った情報ばっかり見てるからそんなの信じちまうんだよ」
「つーか大河が感染したの、裏営業のとこ行ったからだろ?」
「ずっとそこにいた方がいい」
「エアAV観てみてよ。そんでレビューして」


大真面目に語った陰謀論は全否定され、感染したこともからかわれ、泣き出す大河。

「もう何なんだよお前ら!嫁にも会えねえし!やっと出たAVはエアだし!何だよ2メートル離れて腰振るとかリズムと喘ぎ声ズレてんだよ!だからもう俺やめたし!ダウンロードとか!嫁のハメ撮りでシコってるよ!会えないから!!!!」

そして半ギレの状態で泣きながら嫁のハメ撮りを流す大河。
相変わらず画面は向こうを向いているので、音声だけだ。

「いや、どういう感情?」
「どんな気持ちで聞けばいいの?」

観客が思っていたことは、全部画面の中で言ってくれた。


と思ったら、大河がけろっと「うっそー」と笑う。

「いや、どこから?」
「泣いたのとか、これもAVだし」

「俺はキレ始めたときから演技ってわかってたけどね」
「俺も」
「まあおかしいとは思ったよね」
「これ、詫びでガチのハメ撮り見せるしかないよ」


ニヤニヤしながら迫る秋元、じゃんけんを要求する健介、そしてなぜか後出しで負ける大河。そこに幸作も追い討ちをかけ、ついに声だけ嫁のハメ撮りを流すことになる。

もう完全に、居酒屋公演のときと同じ流れで、私は「まじか!」となりながら腹を抱えて笑っていた。


大河の嫁の喘ぎ声に耳を澄ませながら、なおも会話を続ける四人。

そして、真剣に耳を傾ける映像を最後に、ビデオが切られる。


「この物語は、フィクションでした」

 


これが、今回のSkypeによるインターネット公演の全貌だ。
細かいとこ思い出せないけど、だいたいこんな感じ。

 

正直なことを言うと、100%手放しで「面白かった!」と人にすすめたくなるような内容ではなかった。

私はめちゃめちゃ笑ったけど、でもそれは勝大さんのファンで、11月の居酒屋公演を観ていたおかげでわかるネタがあったからだ。
だから、とくに誰のファンでもなく、居酒屋公演も観ていない人が観たら、どう思うのかは純粋に疑問に思う。
いろんな人の感想を知りたいから、Twitterでもブログでも何でもいいから感想を公開してほしい。


でも、Skypeで公演をするという試みは、本当に面白いと思う。
グループ通話という形式も、「自分も通話に参加している」という意味で、観客である私も、演者である俳優も地続きの状態だった。
"観客"側の誰かがビデオ通話をかけて、この会話に入ることも、不可能なことではない。フィクションとノンフィクション、観客と俳優の境界線って、案外そんなものなのかもしれない。


グループ通話で話す四人は、現在の私(たち)と全く同じ状況の中を生きていた。
でも途中から、彼らの時間だけスキップしていく。

一年後のディストピアは、もしかしたら私たちにも待っている未来かもしれない。
二年後のなんとか回復した状態に早くなればいいなと思うけど、それが現実世界で実現するのはいつになるかわからない。

 

終盤、「うっそー」と演技だったことを明かす大河に、友人たちが「いや、どこから嘘?」とツッコむ。
最後に「この物語は、フィクションでした」と言われたときの私も、同じ気持ちだった。

「いや、どこからがフィクション?」

 


あえて「フィクション」ということで、逆に「いやいやいや」みたいな気持ちになるのは何故だろう。

あとめちゃめちゃどうでもいいけど、最後にフィクションであることをアナウンスするのって、涼宮ハルヒっぽい。
思えば、2月に始まったコロナ騒ぎが4月も中盤になった今も全く収束しそうにない今の状況は、ちょっとタイムリープものっぽい。


「この物語は、フィクションでした」と言ってしまえば、あのディストピアな未来予想図もフィクションでした~で終われるだろうか。
でもその理論で行くと、収束した未来予想図もフィクションになってしまうのか?

とにかく私(たち)は、新型ウイルスに翻弄される今の現実を生き抜かねばならないのは、間違いなく事実だ。

 

 

そういえばこの公演は『要、不急、無意味(フィクション)』というタイトルだが、たいへん端的で良いなと思う。

不急でも、この4人にはこの時間が必要なのだろう。それがたとえ無意味だとしても。

そしてそんな無意味な会話をフィクションでやる意味ってどこにあるんだろう、ほんとに…………

でも、今の私にはフィクションが必要だ。

 

 

全然まとまらないけど終わります。

 

※まとまらなさすぎたので、さらに書きました。

劇団た組『貴方なら生き残れるわ』の配信を観て考えたこと

 

劇団た組。第17回目公演『貴方なら生き残れるわ』が、YouTubeで無料配信された。


劇団た組は、普段、まったく公演の映像化や書籍化、音源化などをしない。
だから、あの公演をもう一度観れるなんて思いもしなかった。


私にとって、『貴方なら生き残れるわ』は劇団た組の作品の中でも特別なものだ。
初めて観に行った劇団た組の公演で、めちゃめちゃ刺さって、揺さぶられて、一気に脚本・演出・主宰である加藤拓也さんのファンになった。

ちなみに、その時にぐちゃぐちゃな感情を必死で書き留めたのがこれ。片方ははてな匿名ですが、書いたのは私です。


 

今回は観るの二回目だし、生じゃなくてネット配信だし、もう少し落ち着いて観れるかな~と思っていたけど、実際は初めて観たとき以上にかき乱されてしまった。

ので、改めて感想というか自分語りというかを書いておきたくなった。

 


再生して最初に感じたのは、やっぱりこの芝居は、彩の国さいたま芸術劇場小ホールだからこそだなということだ。

中央のバスケットゴールと、床に引かれたコートのラインは、高校の体育館そのものだ。
客席は、そこをぐるりと囲んで見下ろすような構造になっている。

映像で観ると、客席に座る人々が、本当に体育館やスタジアムで観戦をしているようで、余計に「劇場」というよりも、ここは「体育館」だという気がした。


役者は、四方の出入り口から"体育館"に駆け込んできて、縦横無尽に走り回り、本当にバスケの試合をする。


そこには「正面」とか「センター」とかいう概念はない。
彼らはただただ体育館で部活をしているだけだ。


だから実際の劇場では、どうしても「死角」が生まれる。
男の子たちがわちゃわちゃと集まっていたり、自分の位置からだと背中しか見えなかったり…………それがこの舞台の立体感やリアルさを造り出していたとも思う。


映像では、役者の表情がよく見えて、それはカメラを通すメリットだなと思った。
何人かが次々に話す場面で、実際の劇場だと「今の誰の言葉?」となっていたところがわかったこともだ。


演劇は「今 ここ」で「生」であることに大きな意味があるものだと思う。
そのため、演劇を映像として画面越しに観ると、劇場での経験に比べて情報量がものすごく少なくなってしまう印象だったが、今回の『貴方なら生き残れるわ』に関しては、映像だからこそ新たに得られる情報がたくさんあって面白かった。

それに、「映像だと集中できない」とか「なんとなく鮮度が落ちている」というようなことが全くなかった。
元々の作品が好きで、衝撃的な観劇体験だったからこそ、映像で観ることにためらいもあったのだが、そんな心配は無用だった。

 

 

映像だからこそ、クローズアップされる表情、動き、言葉。

二回目だからこそわかる、伏線。

話の筋がわかっているからこそ響く、展開。

 

 

初めて劇場で観たとき、私は最後の試合のあたりからずっと泣いていた。
今回は映像だし、二回目だし、もう少し落ち着いて観れるかな~と思っていたが、実際は劇場で観たとき以上に泣いてしまった。家だと嗚咽を堪える必要がないから余計かもしれない。

 


この作品は、「松坂の目を通して見た吉住の物語」だと思う。
初めて観たとき、私は吉住・當座・沖先生の3人の物語に没頭していた。それは二回目に観た今もそうで、やっぱり沖先生が部活に来れなくなるところで胸が締め付けられたし、當座がいつも何かを誤魔化すように笑い混じりの話し方をしているのに気がついてどきりとしたし、激昂する吉住の純度の高さに震えた。


とくに當座がやばかった。
吉住と沖先生の方に意識がいきがちだったが、當座の物語も最初からずっと描かれ続けていた。改めて観ると本当に最初からずっと勉強のことを気にしているし、自分に引け目を感じているようだし、それでいて後輩たちとも仲良しだし、そんな姿を見続けてからの「辞める」の破壊力は凄まじかった。

 


その他の部員たちもそれぞれに個性があり、成長があり、"物語"があるが、どうしても吉住・當座・沖先生の物語の陰に隠れてしまう。というか、ストーリーの中で明確に重みがつけてある。でも、だからといってその他の部員それぞれの"物語"が軽んじられているわけでは決してない。

 

私が二回目に観て初めて気がついてはっとしたのは、ヤマピーだ。
ヤマピーは最初の練習試合のとき、積極的に攻めることができないでいた。

「全然仕掛けないじゃん」

そう言ってヤマピーを責めたのは、同級生の友喜だ。

「今日、決めたの俺と吉住さんだけ」
「吉住さん、ずっとイライラしてたじゃん」
「パス出さない、一対一もしない、それならヤマピーじゃなくてよくない?」

ヤマピーだって、自分の不甲斐なさはわかっている。

だから「俺だって自分に何ができるか考えてるよ、パスなのか一対一なのかシュートなのか」と反論する。

でも、「それじゃ勝てない」と一蹴されてしまう。

 


次の練習のゲーム形式で、ヤマピーは「攻めろ!」と言われて吉住相手に仕掛けてオフェンスファールを取られた。
だが、そんなヤマピーを、沖先生も友喜も吉住も「それでいい」と褒める。ヤマピーに押されて転んだ吉住もだ。

「まずは攻めろ。パスとか考えるな」

 

沖先生の言葉は、直前の松坂と野球部仲間とのやり取りとも繋がると思う。

 

《どれくらいのヤツらが将来の野球をやってる自分と今の自分をリンクさせているんだろう》

《将来の自分にとってやりたい事ってなんだったんだろうか》

 

自分は何ができるか。
自分は何をやりたいか。
自分は何のために生きているか。
自分は何になろうとしているのか。

 

最後の試合、IH予選の二回戦で、ヤマピーはオフェンスファールを取られる。
でもそれは、今この瞬間にかけて攻めた結果だから、誰もヤマピーを責めはしない。
ヤマピーにとっては、吉住さんと一緒にバスケができる時間が終わってしまう結果になったけど。

 

IH予選二回戦は、全員の集大成ともいえる試合だった。


松坂は、ずっと練習してきたスリーポイントシュートを決める。


當座は、ルーズボールを必死で追いかけ、ケガをする。でも、それを隠してまで最後までコートに立ち続けようとする。
一回戦の後に「俺の代わりはいる」と言って辞めようとしていた彼がである。


當座の足の異変に気がついた先生とコーチは、続けさせるわけにはいかないと彼を下げようとする。
でも、當座は最後までコートに立ち続けようとする。

「いいから!…………次とかないから……もう、次とか………………今、できればいいから」

 

ケガを隠すのは、部活ではよくある。
指導者の立場からすると、今ここで無理をするよりも将来のために自分の身体を大切にした方がいいと言いたくなってしまう。
でも、彼・彼女たちには「今」しかないのだ。

 

當座は最後までコートに立ち続けようとする。
将来のためとか、進路がどうとか、そんなの関係なく、今ここでみんなでバスケをやるために。

 


あと、数秒で試合が終わる。
点差は1点。
シュートを入れれば明日もまたバスケができて、ダメならこのまま終わり。


吉住がボールを持つ。
みんなが吉住のパスを呼ぶ。

でも、吉住は一人で抜けようとして、抜けなくて、試合は終わる。


吉住の、當座の、沖先生の三年間が終わる。

 

《もっと練習しとけば良かった》

 

 

自分の今が、自分の未来にとってどう影響するかなんて、その時になってみないとわからない。

"今"が"過去"になり、"未来"が"現在"になって初めて、人は後悔をする。

 

体育館行って、適当に部活やって、コンビニによって帰る、そんな当たり前の日常がどれほど大切で得難いものかわかるのも、それが"過去"になってからだ。

 

吉住と當座と沖先生の三年間が終わる。
彼らの"高校のバスケ部での物語"が終わる。


そして、松坂も部活を辞める。

このあたりのことは以前の記事にも書いたけど、でも結局、松坂が辞めてよかったかどうかは誰にもわからなくて、沖先生も言っていたように松坂自身が「その選択をしてよかった」を思えるように生きるしかない。

 

 

 

そういえば、どうして『貴方なら生き残れるわ』というタイトルなのかは、最初から疑問に思っていた。

一年半経って思うのは、結局、この先どうなるかは誰にもわからないということだ。

部活を辞めてよかったのかなんて誰にもわからないし、将来どうしてるのかもわからないし、もしかしたら明日死ぬかもしれないし、もしかしたら今日もわからないうちに未来に重大な影響を与えるような何かを経験しているのかもしれない。

人生は選択の連続で、そんな"わからない"世界を何とか生き抜いていくしかない。

何が正解かはわからないから、「貴方なら生き残れるわ」と誰かに肯定してもらいたいような気もする。

 


今さら隠しても仕方がないから書くけど、私の仕事は高校の教員だ。
学校現場では「生きる力」という言葉が頻繁に用いられる。
先の見えない現代社会を「生きる力」を育むのが、私たちの仕事だ。

でも、結局「生きる力」って何なのか、その力はどうやったらつくのかは、はっきりとはわからない。

だから、それぞれが自分なりの答えを出して、自分の信じたやり方で、何とか目の前の生徒たちがよりよく生きていけるようにと願って仕事をしている。

自分のやっていることが正解かはわからない。
生徒たちの将来にどう繋がっていくかもわからない。

でも、だからこそ、今ここで目の前のことを一生懸命にやるしかないよなと思っている。

 


これは非常に個人的な余談だが、今年から私は演劇部の顧問になった。自分自身はずっと演劇に関わり続けていたが、指導者の立場に立つのは初めてだ。
「顧問」として見る高校演劇はどんなものなんだろうとわくわくしていたのに、新型コロナウイルスの流行で、生徒にすら会えない毎日が続いている。
どんなに長い休暇でも部活まで全くないなんてことは今までになくて、本当に寂しい。

そして当然だが、行く予定だったライブや舞台や野球の試合もすべて延期や中止になってしまった。
部活もない、趣味のイベントもない、で生きる希望を失いそうだ。

 

でも、こんな情勢だからこそ、普段は映像公開などを全くしない劇団た組が、無料で配信に踏み切ってくれた。
しかも、大好きな『貴方なら生き残れるわ』!!!!
ずっと「あの人にもあの人にも観てほしいな~!」と思いながら手段がなくて諦めていた作品なので、これを機にいろいろな人に観てもらいたいと思う。


加藤拓也さんが、「今ここ」の「演劇体験」を大切にする人だから、記録を残さない主義だというのはわかっている。
でも、映像でも劇団た組の演劇体験としての質は全く落ちないし、むしろ「これは生で観たかった!」と思えるような作品ばかりだと思うから、できればどんどん公開や販売をしてほしい。

 


そういえば私が配信を観るときに恐れていたのは、映像を観ることで自分の実際に観た記憶が上書きされてしまうことだったのだが、それも杞憂に終わった。むしろ、当時の記憶が補強されて、よりはっきりした。
ていうか、配信されたのは私が観に行った回だった。「このへんで観てたな~」と客席を眺めていたら自分がいたから間違いない。本当にびっくりしたし、これは神に感謝するしかない。神様ありがとう。

 


そもそも私が『貴方なら生き残れるわ』を観に行ったのは、出演者の鈴木勝大さんのファンだからなのだが、始まってみたら話そのものが面白すぎて、「勝大さんの記憶」は正直あまり残ってなかった。
でも今回、映像で観て思ったのは、やっぱり勝大さんの話してないときの立ち居振舞いが最高すぎるということだ。聞き方とか、話す直前の空気がめちゃめちゃ上手い。
勝大さんの表情アップもたくさんあって嬉しかったです、神様ありがとう。


劇団た組の舞台では、役者さんの自然な姿とか今までにない演技がたくさん観れるし、いつも「この人にしかできない!」って役をあててる感じがして、楽しい。

 


劇団た組の舞台はやっぱりめちゃめちゃ良いことを再確認したから、次も絶対観に行きたい。


まとまらないので終わります。

 

 


劇団た組
「貴方なら生き残れるわ」記録映像
https://youtu.be/7QHhaiufY1s

 

劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』を観て考えたこと。

 

2月23日(日) @彩の国さいたま劇場 小ホール
劇団た組。第20回目公演 『誰にも知られず死ぬ朝』
作・演出◎加藤拓也/音楽・演奏◎谷川正憲(UNCHAIN

 

を観た。


死にたくても死ねない主人公と、死にたくなくても死んでしまう人たちの話。


タイトルとあらすじだけ見ると「死」という言葉と「死なない」という設定に少し身構えてしまうけど、実際は観る前に想像したよりもずっと朗らかで、身近で、親しみやすく、だからこそ切なく、とても純度の高い話だった。


以下、ネタバレとか一切気にせずに勝手に書きたいことを書きます。
感想というか、レポというか、わりと感情ぐちゃぐちゃのまま書いた個人的な何か。

 

 

 

 


まず最初に言いたい……

 

安達祐実ヤバない!?

 

いや、ほんとにヤバいよ、安達祐実…………私、昨日の昼に観てから今までですでに3人の友人・知人に「安達祐実のヤバさ」を熱弁してしまった…………


芝居が始まり、役者たちがゆっくりと位置につく。
そして一人ずつ「今から◯歳くらいをやります」と宣言していく。

その最後が安達祐実だったのだが、ミントグリーンのパーカーを着て白いスカートを履いた彼女は、はにかんだ笑みで「私は13歳くらいをやります」と言ったのだ。


13歳!!!!!!
安達祐実!!!!13歳!!!!!!!!!!!!

 

もうその時点で、安達祐実が会場の空気の全部をひっさらってしまった。

 

本当に彼女は13歳に見えるのだ……見た目も言動もすべてが思春期の少女なのだ…………

 


でも、安達祐実は歳をとる。
正確には、安達祐実演ずる「りっちゃん」は、劇中で順調に歳をとっていく。

最初は13歳の不安定な少女だった彼女が、20歳になり、結婚と妊娠をして、最後には38歳(つまり安達祐実の実年齢)になる。その頃には生まれた子どもは18歳だ。


歳を取らない見た目変わらない主人公のすぐそばに、常に歳を取り続けるけど見た目が全く変わらない安達祐実がいるヤバさ。


りっちゃん(安達祐実)が、主人公の歩美に「ねえ、ほんとは何歳?」と無邪気に尋ねる場面があるのだが、観ている側としては「いや、お前もな!!?!!???!?!?」って感じだ。

 

でも、見た目が変わらなくても中身が成長と共に変化してるのは明らかで、13歳のりっちゃんと、38歳でお母さんのりっちゃんでは全然違っていて、そんなところも安達祐実はヤバかった。

 

実は前回の『今日もわからないうちに』*1のとき、一緒に観に行った友人はヅカオタだった。
そんな彼女は終演後に「主演の大空ゆうひさんは宝塚のトップスターだった」と教えてくれた。そして二人で「宝塚で男役やってた女優に『女の子なんだから(男みたいなことやめなさい)』って言わせるの、かなりエグいんだけど、わざとかな?」と話していたのだが、今なら言える…………絶対わざとだ…………………加藤拓也さん、たぶんそこまで狙ってキャスティングしてる…………………………

 


13歳のりっちゃんと、歩美。
20歳のりっちゃんと、歩美。
38歳のりっちゃんと、歩美。

 

この二人の対比関係が、物語を鮮やかに彩る。

 

 

ストーリーの中心となるのは、死にたくても死ねない歩美(村川絵梨)と、その夫・良嗣(平原テツ)の二人だ。


歩美は、死なない。
正確には死んでもすぐに生き返る。
いつから生きているかもわからないし、どうやって生き返っているのかもわからない。どうして死なないのかも、どうしたら死ぬのかもわからない。


周りの人はみんな歳をとって死んでいくのに、歩美だけはずっと死んでは生き返りを繰り返しながら生き続けている。


良嗣は、歩美が死なないことを知り、それでもなお共に生きたいと願った。
そして歩美と一緒に死ぬために、歩美が死なない秘密を探ることにする。


医者である良嗣は、いつかは必ず死ぬ人間の命を助けることの意義を考えて悩んでいた。
死なない歩美は、人間はいつか必ず死ぬから、特別な人を作らないようにしていたけど、良嗣と結婚した。

 

 

必ず死ぬのに誰かを愛する。
必ず死ぬから誰かを愛さない。
必ず死ぬから誰にも愛されたくない。

いつ死ぬかわからないのはみんな一緒。

 


劇中は、「死」という言葉で満ちている。


冒頭、母親に頬を打たれたりっちゃんは、部屋を飛び出し、屋上に向かう。
そしてそんなりっちゃんを、歩美と良嗣が追いかける。

頬を打った母親は、良嗣の兄の妻で、要するに良嗣と歩美から見ると、りっちゃんは姪にあたる。
でも、兄夫婦=りっちゃんの両親は追いかけてこない。「いつものことだから」と溜め息をついている。

 


本当には死なないなら「死ぬ」と言っていいかは、本気で死ぬつもりがあるかないかに関わらず、微妙なところだな……と思う。

 

歩美は13歳のりっちゃんに、「『死ぬ』なんて言わないで」と言う。
38歳のりっちゃんは18歳の息子に、「『死ぬ』なんて言わないで」と言う。

そして歩美は、たいへんカジュアルに死ぬ。
死んで生き返れば身体の不調が治るから、寝違えを治すために死んだりする。
でも、毎回「このまま本当に死ねたらいいな」と思いながら死んでいる。

歩美は死んでも生き返るから、死んでいいのかというと、それも微妙なところだなと思う。

 


私自身も、本気で死ぬつもりはなく「死ぬ」と言うことがよくある。誰かに言うわけでも、SNSに投稿するわけでもない。ただ、本当に死にたいわけじゃなくて「恥ずかしい」とかそういう気持ちが高まると「しにたい~~~~」と独り言がぽろっと口から出てしまう。
誰かに何かをというよりは自分自身の羞恥心と自尊心で死にたくなることが多い。虎になるより前に死にたくなっちゃう、自分が嫌すぎて。でも実際に死ぬわけじゃない。いや、死にたくなくはないけど、どうせいつかは死ぬし、それなら死ぬまで生きるか~と思うし。


ていうかそもそも私は「死」を、唯一人間が選べるものだと思っていて、だからそれを選びたくても選べない歩美はしんどいよな~~~~~~~~と思いながら観ていた。
人生は選択の連続だから選択肢は常に少しでも多い方が人生豊かになるような気がする。そして、どんなに選択肢の少ない人生だとしても常に1枚は持ってるカードが「死」というイメージだ。でも、それは選択肢として持っていることに価値があるカードだから、絶対に選んじゃいけない。選ぶと手持ちの選択肢が1枚もなくなっちゃうから、常に選ばずに持ち続けていることが大事だと、個人的には思っている。
「いつでも死ねるけど、今は死なない」方が人生楽しい気がするし。


でも現実問題、"普通"の人は、いつか「死」のカードを引く瞬間がくるわけで、そうなったときに何をよしとするかはたぶん人それぞれで……。つまり、自分でも意識しないうちに「死」が訪れるといいと思う人もいれば、自分で今度は「どうやって死ぬか」という選択肢の中から選びたいという人もいると思う。

 

良嗣は、歩美が生き返ると知ってからも、歩美が死ぬと悲しむ。
でも、歩美と一緒に死ぬために、歩美が死んでも生き返る理由を探るために、何度も歩美を殺す。悲痛な声で「ごめん」と言いながら、歩美を殺す。
歩美はそのたびに「このまま本当に死ねたらいいな」と思いながら殺される。そして生き返る。だから、良嗣が謝る必要はないと思っている。


「どうやって死ぬか」は、裏返せば「どう生きるか」であって、そうなると死ねない歩美は生きられないような気もして、だから良嗣に「殺してもらう」ことで歩実の「生きる意味」も生まれたのかなと思ったりもする。

 


良嗣は結局、歩美が死んでも生き返る理由を見つけることはできず、そして歩美より先に死ぬ。

 


作中では、歩美以外の人は全員歳をとる。
役者の見た目が劇的に変化するわけではないが、見せる表情、話す言葉、ちょっとした仕草や立ち居振舞いに年齢が感じられる。
それが本当に本当にすごく上手で、当たり前なんだけど「役者さんって演技上手いな」としみじみ思った。


一番「成長した」と感じるのは、13歳の少女から38歳の母親になるりっちゃんなのだが、一番「歳をとったな」と感じるのは、良嗣だ。


良嗣は病気で、もう後がない状態になる。
兄よりもずっと老けて見えるし、歩美と比べると見た目にはかなり差が出てくる。実際は歩美の方がずっと年上のはずなのに、見た目は良嗣の方がずっと年上のようになってしまっている。

 

良嗣と結婚するときに、歩美が一番恐れていた瞬間が、近づいてくる。


劇中では、歩美と良嗣のなれそめが断片的に挿入される。


今までと同じように、良嗣の前からも姿を消そうとする歩美。
そして、そんな歩美を必死で探し、追いかける良嗣。


誰かを特別に思うと、その人が死ぬときにつらいから、特別な人を作らないようにしているのだと訴える歩美に、良嗣はめちゃめちゃな告白をする。


「家帰って、歩美がいると、"沸く"んだよ!」
「"沸く"って、なに……」
「気持ちが?」

「そんなに言うなら、何で俺の電話出たの?」
「それ、は、…………私も、ちょっと、……"沸いた"……から…………」


お互いの気持ちを認め、キスをしようと顔を近づけた次の瞬間、そのまま時間軸がすっと"現在"にスライドする。ゆっくりと顔を近づけた良嗣は、背中の曲がった老いた病人に。応える歩美の手が、良嗣の歩みを支える。


歩美はあの頃のままで、良嗣だけが、老いて死のうとしている事実を、まざまざと見せつけられる。

 

良嗣は死ぬ。
家で死ぬことを望み、「飲むとゆっくり心臓が止まる薬」をもらって、歩美と共に眠りにつく。そして、歩美が眠っている間に、こっそりその薬を飲み、誰にも知られず死ぬ。

 

 


た組の舞台は、静寂を作るのが巧すぎる。

ただの無音ではなく、……孤独な魂が浮き彫りになるようなそんな"しん"とした静寂。

そこに染み込んでくる谷川さんの歌もすごい。
歌っているのに静寂に満ちていて、すごい。


自分の肉体が邪魔に思えるくらいの、静寂。

そして静寂の中で浮き彫りになる、孤独な歩美の魂。

 

 

 

 


純度の高いものに触れるとこちらまで泣けてきてしまう。

 

このシーンで涙が出たのも、良嗣が死んだことが悲しかったのではなく、あまりにも純度の高いものに触れたからだと思う。


私はわけわからんところで泣けてくるな~~~と思うようなことがよくあったんだけど、たぶんそういうことなんだなと今回でわかった。


自分の感情が昂って泣くと言うよりは、純度の高い美しい何かを目の前にすると共鳴して泣いてしまう。

たとえば後藤まりこちゃん、たとえば1917の戦場を駆け抜けるシーン、たとえば三浦しをん舟を編む』の「辞書は言葉の海を渡る舟だ」のくだり、たとえば宮下奈都『羊と鋼の森』冒頭の描写、たとえば『今日もわからないうちに』でぐるぐる回る迷子の母娘を観たとき、たとえば『誰にも知られず死ぬ朝』で安達祐実演ずる母親が息子を叱責する場面。


そう、実は私は、良嗣が死んだときよりも、安達祐実演ずるりっちゃんが、息子である基樹に感情をぶつける場面でぼろぼろに泣いていた。


りっちゃんの息子、基樹(藤原季節)は、18歳の高校卒業間際の青年だ。
面白いことがなくて、毎日酒を飲んでは友達と遊び回っていて、見た目がとても若い歩美のことを「良嗣の遺産目当てで近づいた女」だと思っている。


基樹は、良嗣から歩美宛の遺書を預かるが、酒に酔ってそれを窓から投げ捨ててしまう。
もちろん大切なものだとわかっているし、探しても見つからないから焦ったし、悪いことをしたとも思っている。

でも、それを母親に突きつけられると、素直に謝れない。

「だから、ごめんって言ってんじゃん!」

と、開き直ったように吐き捨てることしかできない。

「でもどうせ遺産のことだろ? 歩美さん、若すぎるもん、おかしいよ!どうせ遺産目当てなんだろ?」

挙げ句の果てには、そんなことを言ってしまう。
基樹は、歩美が何年も生きていることを知らない。何度も死んで、何度も生き返っていることを知らない。だから、歩美と良嗣が歩んできた過去なんて知るよしもない。


りっちゃんは、基樹の頬を打つ。
「何てこと言うの!」と全身を震わせるりっちゃんは私の角度では背中しか見えなかったけど、表情が見えないからこそ、余計にりっちゃんの感情が立ち現れてくるように感じられた。

そこにいたのは、38歳の、基樹の母親であると同時に、13歳のりっちゃんだった。

 

そのりっちゃんから、私はりっちゃんと歩美が歩きながら話していた姿を思い出し、歩美がりっちゃんと歩きながら話した良嗣のことを思い出し、

…………いやそんな理屈は後から思い付いた余計なもので、とにかく私はここでぼろぼろに泣いた。

そこに立つりっちゃんの純度の高さに、震えて泣いた。

 


良嗣の遺書は、結局、りっちゃんを通して歩美の手に渡ることになる。

 

歩美は、良嗣の後を追おうとしていた。


包丁を手にした彼女は、「これは初めて」と呟く。
たとえ生き返るとしても、死ぬ瞬間は痛いし苦しい。


歩美は、少しの躊躇いのあとに、意を決して自らの腹に包丁を突き刺す。そして傷口から手を突っ込み、腸を引きずり出す。

「これは演劇上での、演技で、嘘だ」と、わかっているはずなのに、観ているこっちまで痛くなってくる。

歩美は、わざと今まで経験したことがないくらい痛くて苦しい方法で死のうとしているように思えた。
良嗣を失った悲しみとのバランスを取ろうとしているように思えた。


でも、歩美は死ねなかった。


そこにりっちゃんがやってくる。
歩美は、腸を引きずったまま、自分の血にまみれた手で、良嗣の遺書を受けとる。


歩美が遺書を読んでいる、そのとき…………


基樹の運転する車が、赤信号で停止する。
そして次の瞬間、横から出てきた車とぶつかり、……………………ぷつんと照明が落ちる。

 

これがラストシーンだ。

 

基樹、絶対死ぬじゃん……っていうのは、正直わりと序盤から思ってた。
いやまあ普通の人間なんだから、いつかは必ず死ぬんだけど、周りの人間が基樹に「お前はまだこの先の人生長いから」と語りかけるたびに、(それは誰にもわからないことだけどな?)と思っていた。

だから、常にどのシーンでも「もしかして次の瞬間、基樹死ぬのでは?」と思ってた。
友達と自転車を2人乗りする場面も、友達4人で高いところに登ってお酒を飲んでいる場面も、無免許の友達に車に乗るように誘われる場面も、すべてが刹那的に感じた。

 

基樹は、自分が死ぬなんて思ってない。
どう生きてどう死ぬかなんて考えてない。
毎日、つまんないな~と思いながらぼんやり生きている。
すっかり大人になってしまった私からしたら、そういう瞬間のきらめきみたいなものは少し羨ましくもあるんだけど、かつてそういう子どもだった自分もどこかにいる。

 

最後も、基樹がどうなったかは明言されない。
一命をとり止めているかもしれないし、あのままあっさり死んでしまっているかもしれない。
それは誰にもわからない。


そして、良嗣の遺書に何が書いてあったかも、観客は知ることができない。
なぜ、基樹から渡してほしいものだったのかも、はっきりとはわからない。

 


これは完全に私個人の妄想だけど、良嗣が「"基樹から"歩美に渡すこと」を重視していたとしたら、もしかしたらあの遺書は、歩美へのメッセージであると同時に基樹へのメッセージだったのかもしれないなと思う。

良嗣は、基樹に遺書を手渡すとき、「お前が一番若くて、一番長生きするから」と言っていた。
ということは、自分が死んですぐ歩美に読んでほしいような内容ではなかったのではないだろうか。良嗣はもっと未来のことを考えたいたのではないだろうか。
たとえば遺書の内容が、「俺のかわりに、基樹の将来を見届けてやってくれ」みたいな感じだった場合、歩美だけでなく基樹の将来も願っていることになる。

基樹は、遺書を読まずに窓から投げ捨てた。精子をくるんだティッシュと同じように。
そしてそれは祖父に拾われ、母に見つかり、結局は母の手から歩美に渡ることになった。
もし、そういうことで、最後に基樹が本当に死んだのなら、それもそういうことなのかもしれないなと思う。


まあ、これは私の勝手な妄想なので、本当のことはわからない。

 

 


そういえば私はよく何かを観ながら全然関係ないことを考えてしまったり、目の前のことを即座にツイートとかブログ投稿する想定をしてしまったりして、見ているのに見ていない状態になることがあるんだけど、た組は会話のテンポが早いから、ちょっとでも意識が散ると一瞬で聞き逃す……。
とくに今回はとにかく密度が凄かった。

会話のテンポが早いっていうのは、走ってるわけじゃなくて、親しい人とならこれくらいのテンポで話すなという速さで、聴いててめちゃめちゃ気持ち良いものではある。
ポンポンポンってピンポン球みたいに言葉が行き来するから楽しい。

でも集中力がいる。
だって舞台上の二人は親しい仲かもしれないけど、私は二人には今日初めて会った赤の他人だから。
他人の会話はテンポを掴むのが難しい。
でも、いつの間にか、私も溶け込んでしまっている。取り込まれる。呑み込まれる。


そうして集中していたから、逆に些細な会話が思い出せなくて、今こうして書きながら必死に思い出しているけど、忘れてしまっていることがめちゃめちゃある。
でも、生きていくってそういうことの積み重ねなんだよなぁ……。

 

 

 

 


全然違う話をする。


彩の国さいたま劇場 小ホールは、中央の空間を半円のすり鉢状になった客席が囲むという、少し変わったつくりの劇場だ。私は初めて行ったとき、「野球のスタジアムみたいだな」と思った。
つまり何が言いたいかというと、演技スペースと最前列の客席を仕切るものが何もない。最前列の客は、演者と完全に同じ地面に存在することになる。

そして私は今回、最前列だった。
要するに私は、以前からたびたび感じている「境界線がなくて、こわい」状況に置かれることとなった。


劇団た組の舞台は、ただでさえ毎回、リアルすぎて現実と虚構の境界線が曖昧になる。
「今ここで交わされている会話はフィクションだけど、私はいつか誰かと似たような話をしたことがある」「どうしてこの人は、あのときの私の気持ちを知っているんだろう」という気持ちになる。


今までに私が観た劇団た組のお芝居は、すべて現代が舞台で、わかりやすい言い方をすると「とてもリアルな話」だったから、余計だ。

そういう意味では、今回の舞台は少しファンタジーと言えるだろう。
"死なない"なんて、"あり得ない"。

 

開演前に、パンフレットの前書きを読んで、私は心臓が止まるかと思った。
それは、加藤拓也さんの書いていることが、私自身ずっと考えていたこととあまりにも似通っていたからだ。


わかるとかわからないとか、共感できるとかできないとか、リアルとかリアルじゃないとか、嘘とか本当とか、フィクションとかノンフィクションとか、そういう話だ。


私はずっと「虚構と現実の境界線」と「わからないから面白い」ことについて考えていた。

他の芝居を観たり、仕事をしたりする中で考えるきっかけとなるような出来事もたくさんあったけど、最近とくにこのことをぐるぐる考えているのは、あきらかに劇団た組の芝居のせいだった。

だから近いうちに、自分の考えを整理してまとめたいな~~~~と思っていたのだけど、なんだか完全に先を越された気がしてめちゃめちゃ悔しかった。
いやまあ、これも私の勝手な思い込みだし、誰かが先に何を言っていたとしても、私は私の考えを書くんだけど。


ちなみに最初に読んだときはびっくりしすぎて「何これ加藤さん、私のブログ読んでるの??????」とか思ったけど、よくよく考えたら『誰にも知られず死ぬ朝』が発表された当初から「フィクションとノンフィクションの狭間」という言葉も劇団公式Twitterで発信されているから、単に私が観客としてある種の"正しい解釈"をたまたま受けとることができていただけの話っぽい。

 


前書きで加藤さんは、「あちこちでダメだと言われる嘘を、ここでは良しとしたい。嘘に寛容であれる場所にしておきたい」と述べている。


演劇の舞台は、"嘘"ばっかりだ。

でも観客は、安達祐実を13歳の少女と信じ、椅子の上が屋上の手すりの外側に見え、そこから飛び降りたら本当に死んでしまうと焦る。

 

私は今まで、「た組の舞台は本当にリアル」と何度も書いてきた気がするが、それは裏を返せば「めちゃめちゃ嘘が上手い」のと同義だ。

うまく嘘をつくために必要なのは、「徹底して本物を観察して真似ること」…………ではなく、「本物を観察し、その本質だけ抽出した別物をつくること」と「騙す側がその価値を信じること」だと思う。

たとえば、具象舞台だとちょっとの不自然さが気になるが、ルールに基づいた抽象舞台ではだいたい何がどうなっても許されるのは、そういうことなんだろう。
机の足が突然、屋上の手すりになっても、役者が本気でその"手すり"にしがみつけば、それは本物になる。

 


そして、嘘は必ず、本当のことを元に作られる。
た組の舞台は、その嘘の元となった「本当」の気配がいろんなところに潜んでいるのも面白い。

でも人によって、何を「本当」と思うかは違うんだろうなとも思う。

大きなテーマとは別に、小さな要素があらゆるところに散りばめられていて、その全部を拾っていたらキリがない。
そして観客の今まで歩んできた経験により、どこに気がつき、どこが響くかはきっと変わる。

登場人物全員が、ひとりひとり様々な要素を持っていて、観る人の切り取りかたで全く違う人物像になりそうな気もする。

 

なんだかここまで安達祐実のことばっかり話してしまっているけど、他の役者さんもめちゃめちゃ良かった。別の舞台で見たことがある人ばかりだったけど、そのどれよりも良かった気がする。

劇中で私がとくに好きだったのは、中嶋朋子さん演ずる江梨香だ。
良嗣の兄の妻、歩美から見ると義理の姉で、りっちゃんの母親なのだが、ものすごく良かった。大好き。

 


そういえばタイトルの『誰にも知られず死ぬ朝』というのを見て、"朝"という時間帯もいつ"死んで"いるのかわからないよな~とぼんやり思ったりもした。
何時まで「おはよう」なんだろうね、的な。

 

 

 


なんか他にも書きたいこと、書いておかなきゃいけないことがある気がするんだけど、まとまらないのでこのへんで終わろうと思う。


今までで一番まとまってない自覚はある。あと長い。

でも観て感じて受け取ったものはこんなもんじゃないんだよ…………どうしたもんかな…………


とりあえず「現実と虚構の境界線」みたいな話は、本当に近いうちにまとめたい。

 

終わります。

 

 

 

埼玉西武ライオンズ南郷春季キャンプ2020覚書


埼玉西武ライオンズ春季キャンプ2020
@宮崎県・南郷スタジアム

に行って来た。


私が行ったのは、2月1日(土)、2日(日)の二日間。
初めてのキャンプ、初めての宮崎、ていうかそもそも九州初上陸と、初めて尽くしの旅だったけど、とても楽しかった。

行く前はめちゃめちゃ不安だったし、行ってみて初めてわかったこともたくさんあったので、来年のための覚書。
これからキャンプ行く人の参考にもなるといいなと思うけど、実際参考になるかはわからない。

 

 

 

行く前に悩んでいたこと


日程

A班キャンプの期間は2月1日(日)~19日(水)
平日は仕事があるから、土日で行って帰ってくるか、祝日に絡めて休みをとるしかない…………となると、選択肢はかなり狭まってくるけど、前半後半どっちがいいんだ~~~~?????と悩んでいた。
Twitterで助けを求めたところ、「終盤に行くにつれて実戦に近い練習や紅白戦が増える」「今年は第2クールから実戦が多くなりそう」「個人をひたすら追うなら前半がオススメ」と教えてもらったので、最初の土日に行くことにした。
土曜の早朝に家を出て、一番早い飛行機で昼頃に現地着、日曜の夕方の一番遅い飛行機で宮崎を経ち、深夜に帰宅というスケジュール。

 


泊まる場所

キャンプ行きを決めたのが年明けで日南市のホテルはほぼ全滅だったため、宮崎駅から徒歩20分で一泊9000円くらいのビジネスホテルに泊まることにした。
どうせお風呂入って寝るだけだったので、とくに期待もこだわりもなかった。ホテルのレベルとしては及第点……というか、この設備ならもう少し安くてもよくないかって感じだった。宮崎駅自体は構内にお土産屋さんや飲食店もあり便利。
ちなみに宮崎駅南郷駅は電車で1時間半~2時間ほど。実質の移動時間や距離よりも、電車の本数がないことのほうがつらい。(詳細後述)

 

 

服装

・ショートダウン
ヒートテック+Vネックニット
・スキニー
・スニーカー

宮崎の気温を調べるもいまいちピンと来ず、とりあえずアウターはダウンで、脱ぐとやや薄着……くらいで行った。結果的に大正解。
日中は陽射しが強くて、風もなく、メインスタジアムの内野に座ってると暑いくらい。ダウン脱いでてちょうど良かった。
ただし、日陰はひんやりしてるし、風が吹くとちょっと寒い。朝晩も冷える。
アウターは風を通さない素材なら、ブルゾンとかでも良かったかもしれない。(ただ、地元が余裕で氷点下だからダウンじゃないと私はしんでた)

 


荷物

・大きめリュック
サコッシュぽいショルダー

一泊二日で、服も二日間同じニットとスキニーで過ごしたから、荷物はこれだけ。
飛行機乗り慣れてないから、預ける荷物があると時間がどれくらいかかるかわからなくて、機内持ち込みギリギリサイズのリュックにした。

それぞれの中身は
・リュック→着替え、化粧品、スキンケア用品、ヘアアイロン、充電器、眼鏡、カメラ、ユニフォーム、タオル

サコッシュ→財布、リップ、鏡、のど飴、ハンドクリーム、モバイルバッテリー、双眼鏡、サインペン、サイン帳

球場ではカメラは首から下げていた。
あと、二日目は買ったお土産をリュックにいれるために、カメラバッグは出して別で持って歩いた。

 


行ってみてわかったこと

持ってて良かったもの

・カメラ
これまで全くカメラに触れたことがなかったが、キャンプに合わせてミラーレスを購入。レンズキットの望遠レンズだけでもスマホよりは遠くまで綺麗に撮れるので、素人には十分だった。ずっとカメラ構えていたわけではなかったし、二日目の午後はバッテリー切れで物理的に使えなかったけどキャンプ自体はすごく楽しかったので、必須アイテムではない。
ただ、持ってて良かったと思う点としては、やっぱり良い瞬間を残せると嬉しい。あと、遠くでわちゃわちゃしてるところをとりあえず最大ズームで撮っておけば、手元で拡大して「あ、一緒にいたの◯◯選手か~」とわかって良かった。


・双眼鏡
普段、試合に持っていくのと同じものを持参。メインスタジアムで入れるのは内野席のみなので、外野での練習は普通に遠い。良い望遠レンズつけたカメラがあれば双眼鏡いらないのかもしれないけど、私は"撮る"より"見る"がメインだったので、持っていって良かった。


ヒートテックレギンス
寒かったらスキニーの下に履こうと思って持っていったけど、上述の通り日中は暑いくらいだったので、その必要はなし。ただ、夜のホテルの部屋が寒くて、部屋着として履いていた。エアコンはあったけど夜の間ずっと暖房つけてると乾燥するし、荷物減らしたくて寝間着持っていかなかったからホテル備え付けの浴衣切るしかないし……という状態だったけど、ヒートテックレギンスのおかげで安眠できた。ジャージ持ってくよりかさばらないから、お風呂上がり誰にも見られない宿なら寝間着代わりにヒートテックレギンスありだなと学ぶ。


・信頼できるフォロワー
マジでこれが一番持ってて良かった!!!!
キャンプに行くのを迷っていたときに背中を押してくれたフォロワー、日程や服装や持ち物を悩んでいるときにアドバイスくれたフォロワー、早起き応援してくれたフォロワー、現地で合流して二日間行動を共にしてくれたフォロワー…………楽しいキャンプを過ごせたのは、あなた方のおかげです、本当にありがとう……。
とくに現地で、キャンプ慣れしてるフォロワーさんと合流できたのは幸運だった。わりと一人でどこにでも行くタイプだし、合流してからも「ちょっと私はブルペンへ!」みたいに別行動もしてたけど、やっぱり仲間がいるのは心強い。あと、「えっ、今の見ました!?可愛い~!」みたいなことを言える人がすぐ隣にいるのは本当に有難い。文字通り。
持つべきものは信頼できるおたくのフォロワーだなとしみじみ…………。

 


なくてもよかったもの

・カイロ
寒いかと思って貼るタイプを持った行ったけど全然必要なかった!天気にもよるだろうけど、この二日間は一切出番なし!


・ユニフォームやタオル
一応、最推し野手のユニフォームとタオル、最推し投手のタオルは持った行ったけど、ほとんど出しもしなかった。選手にサインもらうならユニがあるといいかもしれないけど、選手タオルはまず必要ない。そして最推し選手は二人ともサインのチャンスもなかったので、出す機会なかった。
現地では、ユニフォーム着てる人はほとんどいない。むしろトートバッグやキーホルダーで推しアピールしてる人が多い。

 


現地で買えたもの

・お昼ご飯
うどん、やきそば、たこやき、チキン南蛮丼などの屋台が出ている。一日目はチキン南蛮丼、二日目は肉うどんと焼き芋を食べたけど、どれも美味しかった。


・グッズ
御朱印帳(サイン帳)
・サインペン(マッキー)
球団グッズの屋台もあり、2020年球団カレンダー、ねこげんカレンダー、骨牙カレンダー、松坂大輔グッズなどが売られていた。
同じ屋台で、マッキーや御朱印帳、色紙、ボールの販売もあり。私はサインペンは持参していたけど書いてもらうものを何も持っていなかったので、念のため御朱印帳のみ購入(2500円)。でも、御朱印帳が埋まるほどサインをもらう予定もなかったし、実際にもらったのも一人だけだったので、普通に家から普段使いの手帳かスケブ持って来ればよかったとちょっと後悔。

 


移動がたいへんだった話

・電車の本数がなさすぎる
岐阜県民にしか伝わらない例えをすると「宮崎県の宮崎駅だから岐阜県の岐阜駅くらいかと思ってたら、東海道本線じゃなくて高山線だった」レベルで本数がない。一時間に1本もない。
一番困ったのは、二日目の朝。宮崎駅から南郷駅まで行こうとすると、始発(宮崎5:28発―南郷7:38着)を逃したら次は南郷10:58着しかなかった。
途中の油津駅まで行く電車はもう少し本数があったので、とりあえず油津まで電車で行って、そこからタクシーで南郷に行くことした。油津から南郷スタジアムまではタクシーで20分くらい……のはずが、いろいろあって南郷駅までに(詳細後述)。油津駅から南郷駅までも、タクシーで20分ほどで2300円くらいだった。たぶん油津から南郷スタジアムまででも3000円あれば行けると思う。


南郷駅からもまあまあ歩く
南郷駅からスタジアムまでは、徒歩15~20分くらい。
行きはひたすら上り坂、帰りはひたすら下り坂。道自体はわかりやすいし、個人的にはこの距離なら歩くか~くらいの道程だったけど、後から地味に足腰に来た。シャトルバスやタクシーという選択肢もあったし、二日目の帰りはフォロワーさんに便乗してタクシーで駅まで行った。ギリギリまで現地にいようと思うと、タクシーの方がいいかも。まあでもこの距離なら特に何もなければ次回も歩くかな……。重い靴だと確実にしぬので、軽めのスニーカー推奨。


・メインとサブ・ブルペンの移動は高低差がヤバい
たぶんこのツイートがわかりやすいと思うけど、本当に高低差がヤバい。


しかも、この青いシートは選手・関係者用の通路なので、一般のファンはこの横にある坂を利用することになってるんだけど、これがまた地味につらかった。

 

 

今回の現地での動き、簡易レポ

【一日目】2月1日(土)

・9:45頃、宮崎空港
・すぐに宮崎空港駅に向かうも、一番早い電車が10:20発だったため、そのまましばらく待つ。
・電車の中でサンデーライオンズと文化放送ライオンズナイターのアカウントをチェック。キャンプのスケジュールを確認。
・12時過ぎに南郷駅着。駅舎がライオンズのデザインになっていてテンション上がる。そこから歩いてスタジアムへ。
・到着してすぐメインを覗くと、少し早いがランチ特打に入っているっぽい。栗山がいるのは確認できた。
・とりあえず一周してみようと思い、ブルペンへ。
・不意に現れた今井くんがカッコ良すぎてビビる。
・メインに戻り、チキン南蛮丼を食べながら打廻りを見る。
・金子は、少し打つたびに赤田コーチとお話していた。
・鈴木将平くんがうるさくて可愛い。「バッティング入りまーす!」とか言ってた。
・予定よりだいぶ早く個別練習に入ったらしく、14時半頃にメインから人が消える。
ブルペンの方に行ってみると、今井くんと大将くんがいる。
・サブでは森くんをはじめとする捕手陣が練習中。フェンス一枚隔てただけの距離の近さにビビる。
・通路付近には、サイン待ちのファンが列を成している。ブルペンのあたりで、光成くんと本田さんとルーキー浜屋くんがサインをしていた。
・メイン近くの通路付近もサイン待ちのファンで溢れている。金子がメインから出て来たが、すぐにバスに乗ってしまう。
松坂大輔がメインから出て来て、「サインお願いします」の声に答えてファンの方に来てびっくりした。何人かにサインをしていたっぽい。
・下のブルペンから小川さんと森脇さんが上がってくる。途中、子どもに呼び止められ、サインに応じる二人。森脇さんが目の前に来たので、思い切ってサインをお願いする。緊張しすぎてよく覚えてないけど、対応めちゃめちゃ丁寧で優しかった。
・森脇さんはそのあと小さい子にサインをお願いされていたが、どうやらその子の差し出したグッズが違う選手のものだったらしく、「これ?サインしていいの?ほんとに?」と笑いながら尋ねていた表情が柔らかすぎてしんだ。
・小川さんもゆっくりサインしながら進んでいてめちゃめちゃ優しい。
・その後も、投手が続々と上がってくる。サインはしたりしなかったり。疲れてるだろうからファンサなくても全然いいし、練習ほんとにお疲れ様だし、早く帰って美味しいもの食べてあったかい布団で寝てほしい。
・17時頃に現地を出て、歩いて南郷駅へ。南郷17:28発―宮崎19:03着の電車に乗る。
宮崎駅構内の居酒屋で夕食をとる。何を食べても美味しかったけど、とくに鰹が印象的。ただ、駅を出てホテルに向かうまでにも居酒屋や飲食店はたくさんあったから、次回はもう少し調べて行きたい。
・ホテル到着。寝る前に翌朝の電車を調べ、絶望的に本数がないことを知る。
・去年のキャンプの練習スケジュールを見ると、だいたい9時前に早出の練習、10時頃に全員来て、11時頃にキャッチボールを始めている。遅くとも11時には着いていたいので、早起きできるように祈りながら就寝。

 

【二日目】2月2日(日)

・朝5時半起床。6時すぎにホテルを出る。まだ暗い宮崎の街を歩いて駅へ。
宮崎駅のファミマでお金をおろし、朝ごはんと飲み物を買う。
・宮崎6:43発―油津8:10着の電車に乗る。電車は空いてて、4人掛けのボックスシートに一人で座れた。他の乗客もたぶんみんなキャンプ民。
油津駅は広島のキャンプ地の最寄り駅で、駅舎もカープ仕様。
・ロータリーには、客待ちのタクシーが3台くらい。タクシーに乗り込んで「南郷スタジアムまで」と言うと、「今、パレードがあるとかで南郷駅のところ交通規制してるみたいだよ」と言われる。「パレード?????」となりながらも、とりあえず南郷駅まで行ってもらうことに。
・タクシーの運転手さんに「西武のファンの人はおとなしいイメージ」と言われる。
・8時半頃、タクシーで南郷駅着。確かに人だかりができていて、報道陣もたくさんいる。
・よくわからないまま駅の前で何かを待っていると、紙の特製フラッグが配られる。その後のアナウンスで、これからあるのは「ライオンズ南郷駅誕生セレモニー」だと判明。ライオンズ仕様の駅舎は、地元の高校生が発案し、クラウドファンディングや地元企業の協力があって実現したものらしい。
・その情報をもとにTwitter検索すると、宮崎駅を7時半頃に出発し、南郷駅に9時頃に到着する臨時列車が運行されているらしい。それ乗れば良い時間に来れたやん!!!!検索結果に出してくれよ乗換ナビ!!!!
・臨時列車には、一般客の他に、協力企業の方や、ライオンズ辻監督、森選手、源田選手、山川選手、平井選手も一緒に乗っていることがアナウンスされる。平井さん!!?!えっ、ほんとに!??!?!???!?
・9時頃、臨時列車が到着し、セレモニー開始。
・ライオンズ南郷駅を発案した地元高校生グループの代表の子の名前が「レオ」くんで、どよめく(が、本人いわくライオンズとは関係ない由来らしい)。
・セレモニー中、後列の端に並んだ球団マスコットのレオと源田くんが、ずっとひそひそお話ししてて可愛かった。写真撮影タイム前後には太ももの太さを比べるようなやりとりも。
・山川は、隣の高校生にちょくちょく話しかけている。観客席の少年野球の子の声にも反応したりしていて、山川は子どもに優しいことを再確認。
・セレモニーは30分ほどで終了。そこからまたスタジアムまで徒歩で向かう。
・10時頃に現地着。メインでは早出の練習が終わりがけ。まだ二日目の朝なのに、佐藤龍世くんが守備練習でへろへろになっていた。
・メインでひたすらウォーミングアップやアジリティを見る。
・龍世くんが、源田くんをはじめとした先輩たちに弄られてて可愛い。リアクションが大きいので構いたくなる気持ちはとてもよくわかる。
・アジリティ中、源田くんと金子はよく隣で話してて、やっぱり仲良さげ。そこに森くんも加わって、三人で固まっていることが多い。
・キャッチボール、前日のペアが金子&栗山さんだったと聞いて楽しみにしてたけど、この日は違った。金子は木村と、栗山さんは阪神から移籍してきた森越さんと。
・投内連携が見ていて楽しすぎて、外野を見るのをすっかり忘れる。状況に合わせてキャッチャーが指示だす声まで聞こえてめちゃめちゃ楽しかった。
・投内連携では、平良くんが、ボールをこぼして投げられない場面もあった。あと、源田くんの守備は練習でも抜群に美しくてたまらん。
・レオがめちゃめちゃスタンドに来る。そしてファンに手を振ったり、子どもの頭を撫でたり、カメラを構える真似をしたり、空いてる席に座ったり、めちゃめちゃ自由。ファンサがヤバい。レオくんの夢女ならしんでた。
・このあたりでカメラのバッテリーが切れる。昨夜、充電せずに寝たから自業自得。
・練習スケジュールの投手の方に「サードスロー25」とあったので、サブの方に行ってみる。平井さんの姿を探すも、最初は見つからず。ブルペンでは8人くらい投げていた。
・サブに平井さんを発見。サードから、ファーストまで投げる練習。バッテリー瀕死のカメラで必死にシャッターを切る。
・ファーストにいるコーチが「いいねいいね~!」みたいに言い始めるのを、平井さんが「出た!野次将軍!」と笑っていた。
・平井さん一人だけの練習だったので、それほど時間は長くなかった。その後はしばらくブルペンを眺める。ブルペンの脇のベンチでは、與座くんと松本くんが一緒にスマホを覗き込んでて可愛かった。しばらくして與座くんは「てっちゃん、めしいこ~」と同い年の宮川哲選手(おそらく)に声をかけて消える。
・メインに戻り、ランチ特打を眺めながらお昼を食べる。ランチ特打のメンバーは昨日と同じで、栗山、メヒア、スパンジェンバーグ。
・特打が終わると、栗山さんやスパンジェンバーグもボール拾って片付けててぐっとくる。スパンジェンバーグはバッティングピッチャーさんにも握手を求めていた。
・打廻りと個別強化(打撃)でひたすら金子を見る。
・その間、龍世くんはコーチとマンツーマンでフォーム改善をしていた。膝?太もも?のあたりにゴムのバンドをつけて、引っ張ってもらいながらバットを振る。下半身の修正?
・15時すぎ、タクシーで南郷駅へ。
宮崎駅15:35発の電車で空港へ。ちょうどいい時間の電車が観光用の特急しかなかったが、自由席に乗れて一安心。
宮崎空港に17時半頃到着。空港でキャンプに来ている球団の選手の私物等が展示されていることを初めて知る。
・使用機到着遅れで、飛行機の離着陸が30~40分ほど遅れての運行になる。夕食をとり、お土産を買って待つ。
・21時頃、中部国際空港着。

 


来年に向けて

・飛行機と宿は早めに手配する。とくに宿はもう少し南郷の近くに泊まりたい。
・美味しいお店を調べておいても良かった。何食べても美味しかったから良かったけど、あとから知って気になるお店もあったため。
・カメラの充電は必ずしておく。予備バッテリーもあった方がいい。

 


まとめ

めちゃめちゃ楽しかったから絶対また行きたい!
宮崎県自体もすごく良いところだったから、今度はもう少しゆっくり行って観光もしたい!
写真撮らない、サインもらわないでもキャンプは十分楽しめる!でも、このへんは時と場合によるので準備をしておくに越したことはない!
ほんとに楽しかったし、開幕が楽しみ~~~~~~~~!!!!!!!!!!!

 

 

 

おまけ

スタンドでめちゃめちゃ自由だったレオ
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打撃練習中のねこさん

(一日目、ミラーレスで撮影)

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(二日目、スマホで撮影)

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サードスローをする平井さん

(ミラーレスで撮影)

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(スマホで撮影)

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おしまい!