エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」『橋づくし』『(死なない)憂国』にめちゃめちゃにされた記録


9月21日(月) 20:00~
三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」
『橋づくし』『(死なない)憂国


を配信で観た。


率直に言うと、事前のイメージと全然違った。
なんだか勝手に堅苦しい戯曲を想像してしまっていたけど、実際は現代的で、挑戦的で、なんていうか「こういうのを"アバンギャルド"って言うのかな」と思った。
そう、今は2020年。三島の自決から50年、コロナですべてがめちゃめちゃになった世界。


舞台自体もすごく良かったし、配信はカメラワークも凝っていて、配信ならではの面白さと演劇の良さが両方詰まっていたから、未見の人は是非アーカイブを観てほしい。
ていうかこれで3000円くらいって安すぎないか? これが家で観られるの最高すぎないか? コロナじゃなければ配信しなかったかもと思うと、コロナってやつも悪くないかもなと思えてくる。いいから観てくれ。


アーカイブ配信チケットはこちら
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2065101
【2020/9/23(水) 23:59まで】

 


さて、ここからは個人的な感想。
ネタバレとか一切気にせずに思い付いたまま書く覚書というか自分語りというか……な何か。

 


『橋づくし』
作・演出:野上絹代
出演:伊原六花井桁弘恵野口かおる高橋努

舞台上には不思議な石の土台のようなもの。
他には何もない真っ黒な舞台上に、賑やかに話しながら女が二人、三人、四人現れる。

甲高い声と、テンポの早い会話で、何を言っているかさっぱり聞き取れない。

そして四人が静かに並んで立ち止まる。


「では、始めましょう」


中心に立った女、小弓さんが先ほどとは打って変わった落ち着いた声で宣言すると、舞台は宵闇に包まれ、「それ」が始まった。


花柳界では古くから伝わる願掛け。
陰暦の8月15日、何も話さず、誰からも話しかけられず、一度通った道は再び通らずに、七つの橋を渡りきる。


闇夜に響く下駄の音。

四人はひたすら無言で歩き続ける。

それぞれに叶えたい願いを胸に。

 

ストップモーションで固まる一団から、満佐子がひらりと抜け出す。

そして、バレエのような、コンテンポラリーダンスのような動きで舞いながら、この状況と自らの心情についてを語る。


音声は録音だ。
その間も、他の三人は歩き続ける。


満佐子が隊列に戻ると、今度は小弓が同じようにひらりと舞い始める。
荒い息づかいと率直な動きがコミカルでチャーミング。
ていうかちょっと喋ってる。それはありなのか!?

そして、かな子も同じように舞いながら自らの心情を語る。
声はやや棒読みだが、ダンスは非常に表情豊か。

 

無言で歩くところを演劇にするってどうやるんだろうと思っていたから、なるほどそうきたか~~~~~と思った。
状況説明は歩きながらト書きを読むように台詞を並べるのもかっこいい。

 


そして、用心棒としてつけられた女中のみなだけ心情が一切語られない。ただただ、静かに三人の後をついて歩く。
みなを演じるのは高橋努さんだ。他の三人とは明らかに体格が違って、得体の知れなさが増す。

 


役者の身体表現もすごかったが、演出もすごかった。

 

最初は何だろうと思っていた舞台上の土台のようなものは、棒がさされ、帯が渡され、あっという間に橋の欄干になった。

舞台装置は非常にシンプルなのに、映像を使った演出や、帯のかけ方で表情を変える橋の欄干や、盆を回す仕掛けで、全然飽きない。

 

そして願掛けは、かな子が腹痛で脱落し、続いて小弓も知り合いに話しかけられ失敗する。
残されたのは、満佐子とみな。

だんだんみなのことが忌々しくなってくる満佐子。
ただでさえ大きなみなの身体が、照明に照らされ、大きな大きなシルエットとなって満佐子に襲いかかるようだ。

 

願いって何だろう。
願掛けをしてまで叶えたい願いって、何なんだろう。
彼女たちは、いったい本当は何を求めているんだろう。

 

そしてたどり着いた最後の橋で、満佐子も警官に呼び止められ、願掛けは後少しのところで失敗する。

最後まで無言を貫いて橋を渡りきったのは、ついてきただけのはずの、みなだけだ。


走り去るみな。
橋の真ん中で慟哭する満佐子。

 


流れ出すアップテンポなミュージック!!!!

ついさっきまで三味線だったのに!?
いきなり何!?

と思う間もなく、着物を脱ぎ捨て踊り出す三人の女!!!!!!


リゾートなファッションでグラス片手に揺れる三人の女を見ながら、私はなぜか泣きそうだった。
さっきまで真剣な表情で、己の願いを叶えるために奔走していた女たちが、そしてそれが叶わなかった女たちが、今は笑顔で踊っている。


願掛けは失敗したが、どうやら三人の女の願いはそれぞれ少し違った形で叶ったらしい。

「みなったら、いったい何を願ったのかしら」
「ほんとよねぇ、なーんにも教えてくれないんだもの」
「憎らしいわね、みなって本当に、憎らしい! 」

そう言って笑う女たちは本当に幸せそうで、みなが願ったのは三人の幸せだったのかもしれないなとぼんやり思った。

 

もしかすると、みなは「皆」で、それは私なのかもしれない。

私は、最初は物珍しい仕掛けや演出に感心しながら観ていたが、いつの間にか三人の女たちの願掛けが成功することを願っていた。
だから、最後の橋でみなだけが駆け抜けたとき、みなを恨んだ。満佐子の願掛けが失敗したのは、みなのせいだとすら思えた。

でも、もしかしたら三人が最後に笑えたのはみなのおかげかもしれない。
だとしたら、みなは、「皆」の幸せを願った「私」だ。

 

最後に全員が現代のファッションでパーティーに興じていたことで、なんだか彼女たちが身近に感じた。
今からずっと昔の女たちの切なる願いが、今を生きる私たちに通ずるもののように思えた。
「女の幸せ」の形は変わっても、「幸せになりたい」という思いは昔も今も変わらないんだろうなと思う。


観終わった後は、不思議と爽やかな気持ちになった。

 

 

(転換)

アゲアゲなミュージックなまま、役者たちが礼をして、躍りながらハケて、照明が変わる。


「(死なない)憂国 まで あと10分」というテロップが出て、暗転するかと思ったら、なんとカメラが回ったまま転換し始めてびっくりした。

大勢のスタッフが、『橋づくし』の装置を片付け、『(死なない)憂国』の装置をセッティングする。


これって普段は緞帳おろしてやることじゃないのか!?
それを丸々見せてもらっていいのか!?
やったーーーーーーーーーーーーー!!!!!!


なんだか対バンライブの転換時間みたいだな~
私あれ見るの好きなんだよな~

とか思いながら観ていたら、次の『(死なない)憂国』でライブが重要なモチーフとして出て来て、それもびっくりしたりした。

まさかそこまで含めてこの演出なのか!!?!

 

そうこうしている間に10分はあっという間に過ぎ、次の作品が始まった。

 


『(死なない)憂国
作・演出:長久允
出演:東出昌大、菅原小春


流れ始める映像。
バルコニーで演説をする三島由紀夫
そして、運び出される棺。


映像の前に、真っ白な服を着た男が現れる。

ハンドマイク片手に、自らの心情をぶちまける。

「2020年。つまり、あれから50年も経った。なのに、全然わからないんだ。あなたが守ろうとしてた日本って何なのか!」

 

そこからは濁流のような言葉と音楽とエネルギーに飲み込まれた。
画面から流れ出す熱がすごすぎて、ぐちゃぐちゃになった。
ぐちゃぐちゃのまま書いたら下手くそなレポみたいになってしまったけど、なんかもうここからどうにもできないからそのまま載せる。

 

満員のライブハウス、もみくちゃになる観客の上を人間が転がる。


「俺たちは!俺たちは!!!!」


主人公は、警官をしている男、信二。
ライブハウスに行くのが生き甲斐で、ライブハウスで出会った麗子と去年の12月に籍を入れた。


4月26日。
新型コロナウイルスの流行で緊急事態宣言が出された時期。
新宿ロフトに立て籠り、躍り狂う仲間たち。
それに呼ばれなかった、信二。

 

憂国だよ!三島の憂国と一緒だよ!何やってるんだよ、あいつら!!!!」

 

「俺たちはここで躍り続ける」と宣言し、立て籠る仲間たち。
それに呼ばれていない、むしろそれを取り締まりに行かなきゃならない信二。

 

ライブハウスに行かないと生きていけない。


濃厚接触は避けられない空間。
濃厚接触こそが、ライブ……生きる。
ライブハウスの「ライブ」は「生きる」って意味と同義で、今はそこに行ったがゆえに「デッド」しちゃう「デッドハウス」になってたとしても、死んだように生きるくらいならそこで躍り続けたい。


信二はソファの上に立ち上がって叫ぶ。


信二も麗子も、ずっとハンドマイクだ。
ライブのMCみたいに、時には支離滅裂なことを、マイクに向かって叫ぶ。


「三島ならどうする? いや、結果は出ている……『憂国』に書いてあるんだ。『憂国』の主人公は、2.26事件の仲間たちを討伐するくらいなら、と……」

「……そいつ、そいつはどうしたの?」

「じ、自決をした……切腹をして腸をぶちまけて、喉を切り裂いて、自決をしたんだ…………でも俺は、でも俺はもう正常な判断ができないぃいいコロナでぇええええ…………」

 

「俺は、裏切るよ……自衛だ…………自分を守るためにさ、あいつらを、裏切るよ……………………ロフト行ってくる~」

 

 

激しく揺さぶられ、引き裂かれそうになる信二の感情。

そこに重なるぐちゃぐちゃになりながら盛り上がるライブ映像。


普段の信二は、仕事のストレスを爆音とモッシュで癒しているんだろうなと思う。
ライブハウスの密な空間で、汗に濡れた身体をぶつけ合う気持ち良さを、私も知っている。


信二は、フェイスシールドをつけ、日本刀で、そのライブ映像が映し出された幕を切り裂く。

 

「武士ってこんな気持ちなのかな……」

仲間を取り締まる仕事から帰り、そんな風にうずくまる信二を麗子は一蹴する。

「武士ってんじゃねーーーよ!!!!『悦』じゃん!!!!!!!!」


「俺なんか……今すぐ消えた方がいい…………」と繰り返し呟く信二を抱き締め、麗子は「情緒……情緒、情緒…………」と囁く。


それはまるで、傷ついた自分自身を抱き締めているようだった。
ていうか私もメンタルぼろぼろでマイナス思考しかできないとき、誰かに「情緒情緒」って抱き締めてほしい。

 


信二は腹に日本刀を突き刺す。
憂国』の、自決をする場面を朗読しながら。

 

そんな信二を、麗子は救う。
2020年の『(死なない)憂国』の麗子は、泣くように笑いながら、あるいは笑うように泣きながら、氷結のぬるま湯割りで、信二を現実に引き戻す。


「酒の度数は上がれば上がるほど人を幸せにするんだぞ!氷結はそんじょそこらの宗教よりも人を救ってると思うのね。でね、お湯で割るとヤバいって気づいてさ……ぬるま湯で割るんだよ!氷結ぬるま湯割り!信二、飲もうよ……氷結ぬるま湯割り……」


そうして信二は息を吹き返す。
概念の刀で貫いた身体が、氷結ぬるま湯割りで甦る。

 

ここまでが、4月26日の話。

ここからは、9月21日の話。

 

半年後も、氷結に救われながら、信二と麗子は生きている。
そして再び信二のスマホが鳴る。


あのとき取り締まった、新宿ロフトの仲間から電話がかかってくる。

ライブハウスでイベントやるから来いよと誘われて、二人は袖を通してなかった結婚式の衣装に身を包み、ライブハウスへと向かう。

 


物理的には死んでないから!
まだ生きてるから!
ゾンビみたいになっちゃってるけど、まだ物理的には死んでないから!!!!

 

 

流れ出した音楽が「生きてるって何だろう 生きてるってなあに」と繰り返す。
ライブハウスの写真が映し出される。

 

そこに写る笑顔の人々と、チェック柄のタキシードに身を包んで叫ぶ信二と、チェック柄のドレスに身を包んで躍り狂う麗子を見ながら、私はまた泣きそうだった。

 

「生きてるって実感する場所」という意味では、ライブハウスも劇場も、たぶん一緒で、ていうか人それぞれきっとそういう場所があって、でも実感できなくても私たちは生きてるって事実は変わらなくて…………

コロナで、ずっと家にいなきゃならなくて、大好きなものがなくなっていくのを見ながら、どうすることもできなくて、でも、私たちは生きてて…………


なんか、上手く言えないけど、死んでる場合じゃねーーーーーーーーーーーーーみたいな気持ちになった。

 

感想がぐちゃぐちゃすぎるけど、綺麗なものに存在意義はないって麗子さんも言ってたし、作中でも汚ない×汚ないでむしろ良いみたいなことも言ってたし?

 


でもなんていうか、普段は言えないような気持ちを剥き出しにできる場所が、やっぱり必要だよなと思った。

私にとってはライブハウスも、演劇も、それができる場所だ。

 


あと、演劇って、自由でいいんだよなというのも、思った。
『橋づくし』も『(死なない)憂国』も、今まで見たことないような面白い演出がいろいろあって、でもそれが小手先だけのテクニックじゃなくてちゃんと意義のあるものになっていて、ここまでのことをしても受け止めてくれる「演劇」って空間はなんてあたたかいんだろうと思った。

現実世界じゃあり得ないようなことも、舞台上ではすんなり受け入れられて、でもそれは生身の人間がライブで演じるという不自由な制約があるからこそ成り立つ自由さでもあって…………演劇って面白いな、ほんとに!!!!!!!!

 


ていうかそもそも私は加藤拓也さんが作・演出をするということでこの企画を知って、今週は「まあせっかくだし観とくか」くらいの気持ちだったけど、本当に本当に観て良かった。

来週も楽しみ!!!!!!!!!!!!!!!!


相変わらずさっぱりまとまらないけど、終わります!

 

 

中野劇団『会議家族』が面白かったよというだけの話


9月20日(日) 中野劇団
第21回公演 短編集『会議家族』
作・演出:中野守


を観た。

直接大阪へ……は行けなかったので、配信で。
ライブ配信も都合が合わなかったので、アーカイブで観た。


家族にまつわる、ゆるゆる不条理な短編コメディ4本。
めちゃめちゃ笑ってものすごく満たされて、最高の休日の夜だった。何より明日もお休みなのが最高。4連休バンザイ。


以下、レポというか感想というか、個人的な覚書。
ネタバレとか気にせずに書くので、未見の方は是非アーカイブでどうぞ。


アーカイブ視聴チケットはこちら
https://v2.kan-geki.com/live-streaming/ticket/57
【2020/10/4(日) 19:00まで】

 

 


◯論理家族
さまざまな制約の中で、家族全員が安全に川を渡るにはどうしたら?という論理思考ゲームのシチュエーションにおかれた家族の話。

「いや、そういうパズルの話かと思ったらほんまにあんたらが川渡るんかい!」って感じで、じわじわ面白かった。
よく考えたら「母がいないと父が娘を襲います」「父がいないと母が息子を襲います」「召し使いがいないと犬は家族を襲います」って全部意味がわからなくて面白いし、それに対して真面目に考察を試みるのも面白いし、答えが答えになってないのも面白い。

 


◯嘘つき
生き別れの親子の28年ぶりの再会……かと思いきや、「息子なら1か月前に帰ってきましたけど」と言われてしまい、どっちが本物の息子なんだ!?と討論するお話。

人狼に絡めて嘘をついている方を突き止めようとするんだけど、人狼ゲーム推しの男の子がマジで部外者すぎて
面白い。

あと、お母さん役の人の「?????」顔が本当に「?????」顔で、一目で「あっ、こいつ何もわかってない!」と伝わってきて観てるだけで面白かった。
微妙な表情の変化もコミカルで、ついついお母さんの顔を見てしまう。

途中の母親だと思って訪ねたら別人だった話が滅茶苦茶すぎて「これもしかして嘘か? 偽物か?」と思っていたら、そこがオチに繋がったのはびっくりした。

ていうか、よく考えたら、そもそも舞台上で演技をしている役者は全員「嘘つき」なのに、その話しぶりや振る舞いで「こいつは嘘をついている?」「こいつは本物っぽい?」とジャッジすること自体が矛盾していて面白いな…………。

 


◯五歳児
旦那がいない間に自宅で不倫相手と楽しもうとしていたら、そこに旦那が帰ってきちゃって!?なドタバタコメディ。

いや!さすがにどう見てもおっさんの不倫相手を「五歳のハルトが急に大きくなっちゃったの!」と誤魔化すのは無理があるやろ!!!!!!!めちゃめちゃすぎるわ!!!!!!!!!!!!!!

妻の言い分が支離滅裂すぎて腹がよじれるくらい笑った。
ようそんな言い訳思い付くな~~~~!!!!!!!

あと、これは本当に個人的な感想だけど、土肥希理子さんが不倫する妻役なのがちょっと今までのイメージからすると意外というか、彼女もこういう役をやる年齢になったんだな~と思ったりした。
学生劇団に所属していた10代の頃から知っている役者さんだし、少女の役をやっているイメージが強かったから、結婚して子供もいて不倫までしている大人の女性役に、少しドキドキした。
まあその数分後には支離滅裂な言い訳をもっともらしく捲し立てる面白お姉さんになってたわけだけど。

最後、旦那も浮気してたオチが綺麗で好き。

 


◯遺産
祖父の通夜の夜、遺産の取り分をオリジナル人生ゲームで決めることになった遺族たちの話。

最初に、冒頭の論理思考ゲームをやっていて「おっ」と思った。
空き缶に「父」「母」「娘」「息子」「召使」「犬」とか書かれたものを動かして、見事に対岸に渡らせる。
疑心暗鬼になりながら川を渡る方法について議論していた「彼ら」のことを、缶を動かしている人たちはきっと知らないと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。


そして、そんな風に「ある家族」の運命に思いを巡らせていたのも束の間、こんどは「この家族」が思いもよらない運命に巻き込まれる。

21時に突然現れた顧問弁護士。
そして告げられる遺産争奪人生ゲームのルール。

全部のマスに誰かの秘密が書かれている人生ゲームってだけでもう面白い。
しかも、その秘密が少しずつ絡み合ってるのも面白い。

面白すぎてあっという間で、これだけで60分くらい観たい~~~~~~と思うくらいだった。
結局、人生ゲームの勝敗はどうなったんだろう。
最後はみんなの秘密が全部明るみに出て、家族がめちゃめちゃになってしまうんだろうか? それともむしろ絆が深まる?

 

血が繋がっているからといって、互いのすべてを知っているわけではなくて、隠していることもたくさんある。知られたくないことも、知らない方がよかったことも、たくさんある。
親子でも、兄弟でも、わからないことがたくさんある。


そんな、今までの話の根底に流れるもの全部が詰まったようなお話だった。

 


観終わって、これを書いているうちに、なんか「家族」って何だろうな~みたいな気持ちになった。
血が繋がっているとはいえ、他人。でも「他の人」にはわからない何かがある。

あと、必死な人を見るのは面白いなとも思った。
その論理がめちゃめちゃであればあるほど面白い。

 

そういえば、短編4本を同じ役者さんが違う役をやりながら演じてたのも面白かった。
前の役のイメージと全然違ったり、逆になんとなく似てたり…………この短い転換の間に別人になれるってすごいな~と思ったりした。
そういう意味でも、一公演でいろんな楽しみ方ができる作品だった!


気負わずに観れて満足感あったから、アーカイブ期間中にまた見返したいな。

終わります!

 

 

中村彩乃『異郷を羽織る -Drape the Strange land-』から受け取ったこと

 


8月24日(月) 22:00~

一人芝居
『異郷を羽織る -Drape the Strange land- 』
企画・出演|中村彩乃
脚本・演出|岡本昌也
衣裳|yusho kobayashi


の配信を観た。


無観客上演の生中継。アーカイブなし。


うまく説明できないけど、なんだかものすごかったので、全然まとまらないけど書く。
例によってレポにも感想にもなりきらない何か。

 

本編はほぼ全編が英語で、単語は聞き取れたり、聞き取れなかったり。
ものすごく簡単な単語なのに意味がわからないこともあれば、何を言ってるのかわからないけどなんだかわかる瞬間もあって不思議だった。
時折するっと日本語が入ってきて、そうするとそこだけ浮き上がって聞こえるのも不思議だった。

 

上演台本は今日の24時まで公開されているらしい。
さっきダウンロードしてちらっと見たら、全部日本語に訳されていたので、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして慌てて閉じた。

まずは、率直に自分が観て受け取ったものだけを書こうと思う。
全然違ってたらごめんなさい。

 

そもそも全編英語なのは、この芝居が最初はロンドンで創作・上演されたものだからだ。

 


異国の地で、一人。

 


薄暗く照らされた舞台の上に、白い服をまとった中村彩乃がゆっくりと上る。
しかし、その身体はすぐに何かに押し潰されるように倒れてしまう。

容赦のない他者に晒される、無防備な自分。


──お前は誰だ? 何者だ? どこから来た?


私は、私は、私は、私は、


必死で立ち上がる。片足で。
両足では立てない。
地に足がつかない。
バランスを崩す。
立っていられない。


…………私は?


私は彷徨う。異国の地を一人。

木の枝にすがり、なんとか立ち上がろうとするが、上手くいかない。

私を支えるものはこれじゃない。

 

ポエムは私の国の言葉で、詩。
そして、同じ音の言葉の、死。

 

真っ暗な夜。白い息。

自分を包む孤独。


…………私は?

 

途方にくれて座り込む。

そして、だんだん自暴自棄になってくる。

 

中村彩乃は全編を通して身体表現がものすごかった。
見えない圧に押し潰されそうな肉体。
今にも消えてしまいそうな魂。
それらがそのまま舞台の上にあった。
どの瞬間を切り取っても美しくて、私が写真家なら夢中でシャッターを切るだろうなと思いながら観ていた。

衣装は、白い布が折り重なった上下だ。
動くとシャラシャラと音が鳴る。
折り重なった布が、静かに響く音が、中村彩乃の動きを際立たせる。

 

見えない圧に押し潰されそうな肉体は、その全てに抵抗しながらも、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。

 


そこに一冊の詩集が降ってくる。
文字通り、天から降ってくる。

ボードレールの詩集。
母が何度も読んでくれた。


椅子に座って、詩集を開く。
そうして繰り返し、繰り返し、その詩を読む。


椅子の背にかかっていた色とりどりの布が重なった衣装に、中村彩乃が袖を通す。


そうして繰り返し、繰り返し、その詩を読む。
最初はたぶん英語で、それから、故郷の、日本の、自分の言葉で。


最初の日本語の朗読は、生の声ではないように感じた。
拡声器を口許にあて、かすかに唇を動かしているが、それはどこか遠くから聞こえてくるような気がした。
おそらくそれは"私"の記憶の奥底からよみがえってきた言葉なのだろう。


そうして次は、自分の言葉で朗読する。
一語一語確かめるように。


そして最後は、力強く。
俯いて、フードを深く被り、拡声器を通して発せられる声は、日本語だけど日本語ではないようで、私には彼女があえて自分の中にある言葉と意味をバラバラにしているように思えた。

 

そして、中村彩乃が顔を上げる。
フードをとって、真っ直ぐに前を見据えて。


私は。

私は。

私は。

私は。

 

異素材が折り重なった、色鮮やかな上着
それを身に纏った彼女は、最初よりずっと大きく強くなったように見えた。


たくさんの「私」を、自分のものにして、前に進む。

 


なんだか凄いものを観たな……と思った。

 

 

 

 


ここまで書いて満足したので、脚本を読んできた。

全部が全部ではないかもしれないけど、私が感じたことは間違ってなかったような気がして、嬉しかった。

いや、正確にはちゃんと受け取れたかはわからないけど、演じ手が観客を信じて委ねてくれているのが嬉しい。

 

そういえばこの公演は、アーカイブなしの生配信という形式だった。
本当は劇場で生で観られると一番よかったのかもしれないけど、自室で静かに一人でPCに向かうのも悪くなかった。
とくに今回は、一人芝居ということもあって、本当に舞台上の俳優と観ている私が一対一になれた気がして、むしろ良かったかもしれない。

 

とにかくものすごく満たされたので、観て良かった。


まとまらないけど終わります。

 

 

 

 

音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』が凄かった話

 

5月24日(日) 22:00~
音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』

作・加藤拓也
読み・藤原季節


を、観た。というか聞いた?……というか、観た。


いや、もう、凄かった……………………ほんとにほんとに凄かった…………………………………こういうこと思い付く加藤拓也さん凄いし、それを藤原季節さんにオファーするセンスが最高すぎるし、こんな無茶苦茶な企画をちゃんと一つの作品として成り立たせる藤原季節さんがほんとにほんとに凄かった……………………

 


観賞直後の感想というかレポというか、とにかくこの気持ちを新鮮なまま残したいので、支離滅裂になるかもしれないけど書く。

 

 

YouTubeでの配信。アーカイブはなし。
「本作品は音がございません。上演台本と配信映像を同時にご覧いただきながら観賞する作品となっています」と説明されていたので、案内通り劇団公式LINEから台本をダウンロードした。

加藤拓也さんはTwitterで「先に台本読んでも、同時に読み始めるでも、自由です!」と仰っていたけど、私は事前に読んだ。


ダウンロードした台本は、「台本」というより「小説」だった。
ちょっとびっくりしたけど、よく考えたら「朗読」ってそういうものだ。


『私の世界のすべてだったお前』は、全部がウソの世界で、役割分担に苦しみながら、ぬるさを抱えて生きている「僕」の話だ。これ以上、なんて説明したらいいかわからない。小説としてめちゃめちゃ面白いし好みの話だったから、配信観てない人も今からでもダウンロードできるなら是非読んでほしい。

読めばわかるが、この話は「小説」であることに大きな意味がある。
あと、主人公のビジュアルや作品全体の雰囲気と、藤原季節さんのイメージが本当にぴったりで、配信を観る前から期待が高まった。

 

しかし、「音のない朗読」とは?

 

ドキドキしながら迎えた当日。
台本を印刷し、夕食やお風呂を済ませ、万全の状態でPCに向かった。


配信が始まり、画面に藤原季節さんが現れる。
「こんばんは」と言っているのがわかるが、音声は流れない。

「音のない朗読」は、文字通りの意味だった。朗読している。でも、一切の音が流れない。何も知らない人が観たら、端末の故障か、イヤホンの不具合を疑いそうな映像だった。
イヤホン刺さってないの忘れて流しちゃったりとか、電車の中で隣の人が動画を観ているのを横からちらっと見たりとか、あんな感じ。


でも、手元に台本があるからか、なんとなく何を言っているかはわかる。不思議な感覚だった。

画面だけ観ていてもわからない。
台本だけ読んでてもわからない。
でも、台本を読みながら観ると、わかる。

声は聞こえないけど、聞こえるような気がする。


私は、イヤホンをして観ていた。
声を聴くためではなく、周りの生活音を聞こえなくするために。
声なき声に耳を傾けるのは、ある意味では静寂以上の静寂と向き合うことになるなと思った。

 

集中して観ていても、時折、今どこを読んでいるのか見失った。
そういう時は、一生懸命台本を読みながら追うよりも、季節さんの口許を見ていた方がよかったのも不思議だった。じっと見ていると、突然"聞き取れる"瞬間があって、再び声が聞こえ出す。

 

季節さんは、本当に凄かった。
決して過剰ではない。でも、不足もしていない。
たぶん本当に普通に朗読してるんだと思う。その映像の音声だけカットしてる。
顔の動きだけで、良い声が出ているのがわかる。音声がないからこそ、微妙な表情の変化や、目線のやり方、口の開け方に集中できる。

 

通常の「朗読」は、多くの場合、音声だけだ。
だから聴き手は、その声を聴きながら、情景を想像する。

そういう意味で、「音のない朗読」は全く逆の営みだった。
観客は、画面を観ながら、声を想像する。


どちらも、限られた情報から、想像で世界を広げるという点では同じだが、私の中ではかなり感覚が違った。

耳で聞く「朗読」は受動的だが、目で観る「音のない朗読」は、ものすごく能動的というか…………観客である自分がかなり必死に「受け取ろう、受け取りたい」と思わないと、受け取れないような気がした。

 

 

季節さんは本当に凄かった。
「受け取ろう、受け取りたい」と思いながら向き合えば、ちゃんと手渡してもらえるような何かがあった。

押し付けるわけでもないし、出し渋るわけでもない。
でも、確かにこちらに向かって扉を開けて、手をさしのべてくれているような、そんな朗読だった。

 

物語の終盤、主人公が女の子と同じ布団に入る。
そして、彼女の身体に触れる。

一人で読んでいるときもドキドキした。
でも、そのときよりも、もっと、ずっと緊張しながら、私は耳を傾けていた。

この頃には、どちらかを注視していても今どこなのか見失うことはなくなっていた。
文章を読む自分と、画面の中で朗読をする季節さんと、主人公の見ている世界が、完全に繋がっているような気がした。

 

主人公の心が揺れる。
季節さんの瞳も揺れる。

目許をぬぐったのは、演出なのか、演技なのか、それとも自然に出た動きなのかはわからない。

 

劇団た組の芝居を観ると、私はいつもそのリアルさと、純度の高さに胸を打たれるけど、今回もそうだった。

自分の中のいろんな記憶と結び付いていくのも一緒だった。


女子大の女子寮で過ごした四年間のこと。
サークルの先輩や友達の家に何度も泊めてもらったこと。
働き始めてから、地元に戻った私のアパートに学生時代からの友人が泊まりに来たこと。


自分の記憶の中の自分と、自分の記憶の中の"女"たちと、目の前の藤原季節さんが、重なる。

 

ラストシーンは静寂に満ちていた。
ずっと音はないのに、でも声は確かに聞こえるのに、そう感じた。

孤独な魂が浮き彫りになるような静寂。


そして配信が終わる。
画面が真っ暗になり、自動で次の動画が再生されかけたところで、あわてて画面を閉じた。


私の目蓋の裏には、最後の季節さんの表情が焼き付いている。
耳の奥には、まだ声なき声の響きが残っている。


私は文字を読むと、脳内で音声が再生されるタイプだから、何を観ても何を読んでも今はノイズになってしまう気がする。
この感覚が残っているうちに何とか記録しておきたくて書いた。


今夜はこの静寂の中で眠ろうと思う。

ものすごく良いものを観た。

 

 

と、ここで終われば一つの文章として綺麗だよなと思ったけど、まだ書きたいことがあるからもうちょっと書く。


藤原季節さんは、『貴方なら生き残れるわ』で知った。
でも、その時は正直それほど意識してなかった。たぶん演じていた松坂が、私にとって思い入れのあるキャラクターではなかったからだと思う。
でもそれは、あの脚本の中の松坂としてはたぶん正解で、藤原季節さんはものすごく繊細な演技をしてたんだな……と気がついたのは、観てから随分経ってからだ。

私が「いや、藤原季節さんめちゃめちゃ良いな?」と気がついたのは『誰にも知られず死ぬ朝』だった。
青年の脆さ、危うさ、透明で繊細で壊れやすいがゆえの虚勢が、そのまま人間の形をして立っているようだった。

水面の揺らぎのような、微妙な、でも確かにそこにある、一言では言えない何かを、変にわかりやすい形にすることもなくそのままそっと持ってきて見せてくれるのが上手い人なんだな……という印象だ。

今回で、その思いは余計に強くなった。

 

ていうか、表情と少しの仕草だけであんだけ伝わるって凄くない!?

あと、顔を見てるだけで明らかに良い声が出てるのがわかったので、音声だけのデータもほしいです、私…………

藤原季節くんファンの人とか、今頃「……人魚姫じゃん」ってなってない?大丈夫?

 


そして、今回の台本の元となったのは『貴方なら生き残れるわ』のパンフレット巻末に掲載されてる未発表の小説だと思うんですけど、そこで加藤さん「この続きが8万字くらいあります。まじか~」って書かれてるんですよね…………続きは……続きはいつか読ませてもらえるんですか????
8万字あれば文庫本換算で120ページくらいになると思うんですけど、どうか……どうか………………

 


あと、タイトルについて少しだけ。
『私の世界のすべてだったお前』という題名だけど、主人公は「僕が見てる世界は全部ウソなのだ。いや、もしかしたら、僕の見えない部分がウソなのかもしれない」と言っている。
主人公の、ウソの世界の中では、目の前にいる彼女だけがホントウだったんだろうか。
それとも、ウソの世界の中で、"彼女"だけは、"ホントウ"の"私"を見てくれたんだろうか。

 


まとまらないけど、終わります。

 

 

劇団年一『肌の記録』を観て感じたこと、考えたこと


2020年5月7日(木)
劇団年一『肌の記録』

を観た。

 

脚本・演出は劇団た組の加藤拓也さん。出演は柄本時生さん、岡田将生さん、落合モトキさん、賀来賢人さんだ。
新型コロナウイルスの流行で、公演はおろか稽古すらできなくなった今、「オールリモートでビデオ通話を使った映像のような演劇のような新しい作品」として公開された。


上演期間は【5月7日(木)~5月21日(木)】の期間限定なので、まだ観ていない人はぜひ観てほしい。
https://youtu.be/cosy5UZML7g

 

 

以下、読んでいる人も観た前提で勝手に語ります。
またレポのような感想のような自分語りのようなまとまらない文章になってしまったけど許してほしい。

 

私は、脚本・演出の加藤拓也さんのファンだ。
出演者の四人のことは、ほとんど知らない状態で観た。


加藤拓也さんを知らない人にさらっとだけ説明しておくと、劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

どれくらい「今」を掬い取るのが上手いかというと、4月にはいち早く現在の状況を下敷きにSkypeを用いたインターネット公演を行っているくらいだ。*2

 

だから、今回の『肌の記録』も、とても楽しみにしていた。
こんなときだけど、こんなときだからこそ生まれた表現方法で、今しかできないことをやる。しかも、たぶんこんなときじゃなかったら一緒にできないようなメンバーで!もう絶対面白い……試みの時点で面白い……。
正直、かなりハードルを上げていたと思う。でも、その期待を裏切らない面白さだった。「映像のような演劇のような」と銘打たれており、本人たちは「映像作品」と呼んでいるが、私は観て「なるほど、これはこれで"演劇"だな」と思った。

 


舞台は今から100年くらい未来。
疫病の流行で、外出は基本的に禁止。仕事も学校も全部リモートで、友達と遊ぶのもオンライン。
そんな「もしかしたらあるかもしれない未来」のお話だ。

 


最初に画面に現れるのは、柄本時生さんだ。

「僕たち幼馴染で30歳なんですけど、まだ会ったことがないんですね、全員」


部屋を歩きながら、そんな物語の背景を説明していく。


登場人物は、四人だけ。
全員、役者さんと同じ名前のようだ。
中身まで同じかどうかは、私にはわからない。

 

カメラを持って部屋の中を移動する四人。
全員が白い壁を背に落ち着き、トキオの画面に「6」と書かれた紙が大きく映し出される。。


「では、6歳をやりまーす」

そう宣言したかと思うと、次の瞬間、マサキ、モトキ、ケントの三人は6歳になっていた。手には自分の子供時代の顔写真を張り付けた人形を持っている。


「先生やります」

トキオは眼鏡をかけて改めて画面を見つめ、子どもたちに自己紹介を促す。
これは、四人が初めて出会った日、小学校の入学式のようだ。

 


普通の映像作品であれば、別々に撮った映像を切ってつなぎ合わせ、時間や場所の変化を表現する。
演劇の舞台ではもちろんそんなことできないから、照明や舞台装置を変化させることで場面転換を行う。この不自由さが、演劇の面白いところでもある。


今回の『肌の記録』は、映像作品ではあるが、オールリモートの一発撮り。制約はむしろ演劇よりも多いくらいかもしれない。
だから自然とワンシチュエーションになるのかなと思っていたが、全然そんなことなかった。*3
カメラのアングルも工夫されていて、背景や角度が毎回違うため、観ていて面白かった。(ていうか生活感丸出しの柄本時生さんのおうち探訪したり、真下から落合モトキさんを観たり、落合モトキさんが猫ちゃんと戯れるところを観たり、岡田将生さんと一緒に寝転んだり、賀来賢人さんとくるくる回ったりなんて、なかなかできる経験ではないと思うんだけど、これ俳優推しの人、生きてる?大丈夫?)

 

場面転換のやり方はすべて同じ。
人物がカメラと共に移動し、トキオの画面に年齢を示す数字が書かれた紙が映る。そして、誰かが「〇〇やります」と宣言した瞬間、その年齢のその人物になる。


この「〇〇やります」と宣言して演技に入ったり、シュールな小道具を用いるやり方は、今年2月に上演された劇団た組 第20回目公演『誰にも知られず死ぬ朝』の演出に似ているなと思った。
『誰にも知られず死ぬ朝』でも、登場人物が冒頭に年齢を宣言する。安達祐実がはにかみながら「13歳をやります」と宣言した瞬間、本当に13歳の少女になったのには度肝を抜かれた。いや、本当の安達祐実は38歳なのはわかっているのだが、でも目の前に現れたのは13歳の少女だったのだ。小道具の使い方もそうだ。机の脚が屋上の手すりになったり、ラジコンカーが本物の車になったりする。それも、本当は違うのはわかっているが、舞台上で"そう"なっているから、観客も「ああ、"そう"いうことなんだな」と信じる。*4


演劇は制約が多い。
だから、そこにないものをあるように見せたり、そうじゃないものを本当にそうであるかのように思わせたりする。
舞台上はそういう「嘘」に満ちている。
でも、役者と観客がその「嘘」を信じることで、それは「本当」になる。


私は、演劇には「双方向性」が必要不可欠だと思っている。
役と役者の双方向性。舞台上と客席の双方向性。そこでは虚構と現実が混じりあい、新たな物語が生まれる。


どう見ても成人男性である俳優たちが「6歳をやります」と言った瞬間、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。
奇妙な裸の人形に顔写真が貼り付けられたものの掛け合いを観て、「ああ、そういうことなんだな」と了承する。


どう見ても違うものを"そういうこと"として提示するのは、観客のことを信頼していないとできないことではないだろうか。
もちろん役者さんの演技や、脚本や演出が上手いのもあるけど、観客も同じ景色が見えている、同じ世界に生きていると信じてもらえている気がして、少し嬉しい。

 

 

このような場面転換を繰り返し、出会った時は6歳だった四人が少しずつ成長していく。
VRでゲームやスポーツをしたり、古い文献をもとにでたらめなかくれんぼをしたり、"おセック"への好奇心を膨らませたりしながら、大人になっていく。

とくに"おセック"への食いつきぶりはものすごかった。
この社会では、異性との出会いもオンラインでのお見合いに限られている。オンラインで知り合い、オンラインで親交を深める。そして、結婚することになって初めて会って"おセック"することができる。
だから、結婚相手以外との"おセック"は考えられないし、それも子作りという明確な目的があっての行為のようだ。コンドームは過去の遺物となり、AVなんてものも存在しない。子どもたちは18歳になると国が作った"おセック"の動画で勉強する。

でもこのへんは正直、「んなわけあるかいな」と思いながら観ていた。
実際に会うことはできなくても、小説や漫画は存在するはずだ。今だって1000年以上前のどえろい文章が読めるくらいなんだから、100年後でも今のえろ本は生き残っていそうである。
ていうかそんな社会ならVR風俗とか発達してそうだなと思ったりもした。いや、まあそのへんは描かれてないだけって可能性もあるれど。
エロの分野こそ、私はフィクションの力を信じたい。

 


さて、一つの転機は、マサキがお見合いで出会った女の子に実際に会いに行ったことだ。

外出は許可がないとできない、それどころか他人とリアルに触れ合う機会は皆無の社会で、マサキは危険を冒してまで行動した。
そして、感極まった様子で、好きになった相手と実際に会って、彼女を抱きしめたことを報告する。
外の世界に興味を持ちながらも、何度も「……リスクがね」と繰り返してたマサキがだ。


そんなマサキの行動に一番影響されたのはケントである。
ケントは一度も家から出たことがないらしい。
しかし、マサキの「意外と大丈夫だった」という言葉で考えが変わる。

そしてケントは「みんな一回オフラインで会ってみない?」と提案する。
だが、その誘いに賛同する者は誰もいない。
モトキは最初から外の世界に興味がないし、マサキも女の子には会いに行ったのにケントと会うのは乗り気ではないようだ。

「病気のリスクとかあるし、相手にうつすかもしれないし」という言葉は、今の現実世界の状況とも重なる。

 

「でも、みんな画面だから、ほんとにいるのかな、と思う」というケントの言葉には共感した。
SNSでどんなに親しくやり取りしていても、たとえ通話したことがあったとしても、オンラインで知り合った相手と初めてオフで会うときは「うわ~本当にいた~!生きてる~!」という気持ちになる。Twitterのフォロワーとか、全員botなのでは……と思うこともある。
離れていても繋がることができるツールがいろいろあるが、結局は「生」の感覚に敵うものはないんだなと、しみじみ思う。
でも、彼らはまだ、その「感覚」を知らない世界に生きているのだ。

 

それからケントは、少しずつ外出をするようになる。
街の人の少なさに驚きながら、まだ使われていない家に忍び込む遊びをするようになる。


四人は誰とも会わないまま30歳になった。
マサキも結局、結婚はしていない。

 

廃墟に忍び込むケントを、ビデオ通話で見守る三人。
そこでケントは、演劇の台本を見つける。

「映画は家で観るからいいけどさ、演劇って場所に集まって観てたらしいよ」
「え、それくそリスク高いじゃん」

そして四人はその台本を読み合わせてみることにする。
ケントが撮った写真を共有し、じゃんけんで配役を決める。(ずいぶん奇妙なじゃんけんで三すくみではないようだったけど、100年後のじゃんけんどうなっとるんや……?)

 

登場人物の名前を聞いてすぐに、劇団た組の『在庫に限りはありますが』だと気が付いた。
2019年4月に上演された、ハンバーグ屋が舞台のお芝居だ。*5


主人公の洸一は、人前で食事ができない。
妻の里奈とは、なんとなく上手くいっていない。

里奈は、「家族と一緒にご飯を食べたいって思っちゃいけないの?」と洸一に訴える。
と同時に、「家族だから、家族とセックスはできないよ」と洸一を拒む。

二人はお互いに初めて付き合った相手であり、そのまま結婚した。
でも里奈は、本当にそれでよかったのか、もやもやしたものを抱えている。


そんなお話だ。

 

最初は「え、何で『在庫に限りはありますが』?」と思ったが、四人が照れながら読み合わせを始めたのを聞いているうちに、「『在庫~』は、実際に会って触れることで心を通わせる社会だからこそ起きる問題の話なんだな」と気が付いた。
結婚する前に他の人と付き合ったり抱き合ったりするのが普通の社会だから、自分が一人の相手しか知らないことで思い悩む。
子どもを作るだけでなく、コミュニケーションとして肌を触れ合わせるのが普通の社会だから、仲の良い夫婦であってもセックスレスであることで亀裂が入る。
そして、洸一の「人前で食事ができない」ことが問題視されるのも、誰かと一緒に、向き合って食事をすることが大切にされている社会だからだ。


今の四人が生きている社会にはないものばかり。
それは、読み合わせながら本人たちも感じたらしい。


台詞にこめられた切実な思いに、読んでいる二人も、聞いている二人も、あてられていく。

 

この場面の、間と空気が、本当にすごい。


それぞれが、何かを感じているのがひしひしと伝わる。
そして、夢から覚めたように、あるいは何かを誤魔化すように、元の空気に戻そうと話し出す感覚が、本当にリアル……というか、手触りがあって、凄かった。

 

三人が飲み物を持って帰って来ると、ケントは泣いていた。

 

「これ実際の人間に会った時に言えんのかな……」

 


彼らは、オンライン上でしか誰かと会ったことがない。
実際に対面で話すときの、相手から言葉以上の何かが発せられるあの感覚を知らないのだと思うと、私も何も言えなかった。

 

 

沈黙を破ったのはケントだ。

「誰か来た!……音がした!」

「うそうそうそうそ」
「え、マジ?」
「ヤバいヤバい」
「声出さない方がいい!しーっ!しーっ!!」


一気に漲る緊張感。
息を潜める四人。
ケントの画面は暗闇に包まれる。


「……うっそ~!」


と次の瞬間、ケントが歌うような声で言った。


「うっそ~」

「は、え?」
「なんだよ~!」
「あー、よかったぁあ……マジでびっくりした~」


観客も、三人も、ケントの演技に騙されたのだ。

 


……ああ、またやられた。
加藤さんの脚本は、こういう演出が本当に上手い……。
嘘のような本当と、本当のような嘘が交差する。

 

と思ったら、これで終わりではなかった。

 

グループ通話から画面が切り替わり、トキオだけが大きく映し出される。


「はい、というわけでね、僕たち30歳になってそれでどうやって生きているのか……というお話でした。…………実際にはこうやって会わなくても機械のおかげで生きていけるんでね!機械様なんですよ!頼るのは人間じゃない!機械なんですよ!機械は裏切らないですからね!」

 

「お疲れさまでした~」と手を振るトキオ。
そして、画面が再び四分割に戻る。

映し出された四人の姿は、先ほどまでとは明らかに何かが違っていた。

 

「……はい、というのはどうかなと思うんですけど~」


頭をくしゃくしゃにしながら意見を求める時生に、三人がぽつりぽつりと意見を述べる。


劇中劇!!!!!!!!
100年後の未来、全部、劇中劇!!!!!!!!!!


演劇ではよくあるオチではあるが、完全にやられた。
フィクションの中でフィクションをやる、あれ。
しかもラストは私たちと同じ"今"に全員生きていることがわかる、裏の裏は表……的なあれ……。


劇団た組のインターネット公演では、最初が"今"の話で、そこから1年後、2年後とスキップしていったので、置いて行かれるような連れていかれるような感覚に陥ったが、今回はその反対だった。
一気に"今"の"現実"に引き戻される、強烈なショック。
彼らの"嘘"を"本当"だと信じていたからこそ、本当は嘘だった現実に衝撃を受けた。

 


タイトルの『肌の記録』は、「今、肌で感じることの記録」という意味なのかなと個人的には思った。


物理的な接触としてという意味でも、私たちは「肌の記録」と「肌の記憶」を持っている。
でも、100年後に生きる彼らは、肌と肌が触れる感覚を知らなかった。


実際に触れなくても、肌は様々な感覚を伝えてくれる。
ざわざわしたり、ぞくぞくしたり、ちりちりしたり、ひやりとしたり…………。
演劇を観ているときに私は、肌で、それらの感覚を受け止める。
舞台上の役者が起こす空気振動と、客席から起こるかすかなざわめきと、自分の奥底から沸き上がる何かが、私の肌を外からも内からも刺激する。
そうして私は、皮膚によって隔てられた「私」と「私以外」の狭間で、新たな何かに出会う。

 

 

「100年後、どうなってるのかね」

 

 

それは誰にもわからないけど、人間が生きている限り、そこには「物語」が生まれるし、人間は生きる中で様々な役割を演じながら暮らしているから、「演劇」がなくなることはないんじゃないかな~~~~~~~~~~~~~~~~と思う。

ていうか、こんな強烈に面白くて刺激的なもの、手放せるわけない。

 

映像作品だけど、演劇の魅力を再確認させられるような、「新しい作品」に出会えて良かった。


まとまらないけど、終わります。

 

 

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより

*2:そのときのレポと感想はここ→ 劇団た組インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観た - エモーショナルの向こう側

*3:ちなみに劇団た組のインターネット公演では、ビデオ通話のオフが暗転の代わりのような働きをし、時間の経過が表現されていた

*4:このへんの詳細は、『誰にも知られずに死ぬ朝』の記事で→ 劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側

*5:これの感想はこちら→ 劇団た組。『在庫に限りはありますが』を観て考えたこと。 - エモーショナルの向こう側

『要、不急、無意味(フィクション)』を今、私は求めてるんだなという話


昨夜、劇団た組のインターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観て、勢いのままにレポのような感想のようなものを書いた。
でも、朝になって読み返してみると、起きた事実の羅列ばかりで自分の考えたことほとんど書いてなくてびっくりした。大学のレポートで提出したら、教授から「引用が多すぎる!君の論はどこなんだ!?」と突き返されるレベル。


だから今度は、自分が感じたこと考えたことをもう少しまとめて書きたいと思う。

 


まず、今回のSkypeによる公演が発表されて思ったのは、「加藤拓也さん、やりおる~!」ということだ。
加藤拓也さんは劇団た組の主催で、脚本・演出家だ。舞台以外にもドラマ等の脚本も手掛けている。有名なところだと『俺のスカート、どこ行った?』や『死にたい夜にかぎって』など。
まだ若い。1993年生まれの26歳。「今の自分の世代と時代の価値観、概念のようなものを劇にしておきたい」*1と語り、事実、「今」を新鮮に板に乗せるのがめちゃめちゃうまい。

 

劇中で大河が「今回のことネタにしたやつ(作品)とか出んじゃね?」と言っていたが、本当にそれはあると思う。
でも、実際に起きた事件や事故や災害をフィクションとして作品に落とし込むためには、それが解決しているあるいは未解決でも"ある程度過去のもの"になっていることが大前提だと思う。

そういう意味では、「ウイルスの流行で外出できない日々が続く」という、今まさにリアルタイムで起きていることをフィクションに落とし込めるのは、加藤拓也さんの凄さだなと思う。Skypeを利用して、「グループ通話をしている男たちの"物語"を、観客もグループ通話に参加して観る」という形式もだ。この公演は、この形式でなければあり得なかった。

正直、SkypeよりもYouTube等の動画サイトで配信した方がトラブルも少ないんじゃないかと思ったりもした。でもそれでは、演劇の醍醐味のひとつである、役者と観客の双方向性が失われてしまう。

 

加藤拓也さんは、今回の公演に際してこのようなコメントを寄せている。

いわゆる演劇の中継や過去作品の配信ではなく、配信の特性をそのまま作品と上演に持ちこんで、それの、配信や生放送ドラマとの違いを体験しながら、演劇の性質は一体どこに担保されて、どこに求めているのか、インターネットをクローズドにして、今この環境の中、この機会に改めて自分の中で検討してみたいと思います。

 


そう、演劇って何だろうと考えたときに、私は「生身の人間が虚構を演じるもの」が演劇であり、そこには「観客との双方向性」が不可欠だと思う。

「舞台はお客さんに観てもらって初めて完成する」とよく言うが、本当にその通りなのだ。
実際に自分が舞台に立つときも会場の雰囲気やお客さんのリアクションで全然違うものになる。いやこれは私がアマチュアの素人だからで、プロの役者さんはどんな会場、どんなお客さんでも影響を受けないのかもしれないけど……でも、上手に空気を受け取れるとすごく気持ちいいのも事実で…………このへんの役者論みたいなのは自分でもよくわからないので、とりあえず置いておく。

観客としてもそうだ。
同じ舞台でも、観るときの自分の状態で全然違う感想を抱くことになる。
身体的なことだと、寝不足で観に行ってしまって集中できなかったり、劇場の椅子が固くて途中から「おしりいたい……」しか考えられなくなってしまったりするけど、まあそういうことではなくて。

観るときに自分の考えていることで、同じ舞台でも全然違う感想になる。
たとえば自分も似たような経験があるストーリーだと、当時の自分のことを思い出してしまう。
たとえば好きな役者さんが出ていると、その人の動きやその人がやっているキャラクターばかり観てしまう。そして自然と感想も、好きな役者さんや好きな役者さんがやっていたキャラクターについてが中心になる。
たとえば最近読んだ本に書いてあったことと描かれるテーマが似ていると、「ああこれはあの◯◯にも通ずることだな、なるほどそういう意味か」と理解が深まる。

同じ舞台を観たはずなのに、一緒に観た友人と話すと「えっ、そんな場面あった!?」とか「あれってそうなの? いや私はこういうことだと思ったんだけど……」みたいな状態になることもよくある。


結局は、舞台の中にストーリーがあると同時に、観ている側もそれぞれ独自の"ストーリー"を持っているから、そうなるんだと思う。

このへんについては、加藤拓也さんが『今日もわからないうちに』(2019)のパンフレットで語る「演劇行為」についての話に近いかなと思うので、引用しておく。

 

[前略]今から当たり前のことを言いますが、今回の作品は人生の歩み方によって見えるものや感じるものが違う作品になってゆくんだろうなと感じています。それは僕や僕たちの意図から離れたところでよく膨らむという意味です。そんな風に作品の中も、演劇ではなく演劇行為であったという外も、お客さんの記憶をたよりに僕らはきっと今後も演劇をやっていくんだろうなって思っています。
(『今日もわからないうちに』パンフレット、串田和美さんとの対談より)


今回の公演についていえば、私は鈴木勝大さんのファンで、11月の居酒屋公演も観劇していた。
だから点と点を繋いで線にするように、居酒屋公演で得た情報と今目の前で話す大河を結びつけて自分なりのストーリーを作って観ることができた。


さらに、観客は全員、画面の中と同じ世界(=ウイルスが流行しているため家にいるしかなくてSkypeでグループ通話をしている状況)を共有している。
彼らの会話が身近に感じるのも当たり前のことで、彼らに自分を重ねるのも自然な流れだ。
脚本の外側、演出家や役者の意図した以上の範囲にまで、演劇空間がどんどん膨らんでいく。


そうやって「今ってそうだよな~わかる~」と思っている内に、彼らの時間だけ一年後にスキップする。でもそれも「こういう可能性もなくはないな」と感じる範疇の未来で、なんだか怖くなる。フィクションのはずなのに、これが現実になったらどうしようという焦りがある。

結局、未来は誰にもわからないから、今、未来の話をするとそれはすべて「フィクション」になるのかもしれない。そんなわからない未来を「あるかも」と思わせるためには、過去から今へのリアリティーが必要だ。
仕事などで未来の話をするときも、「今こういう状態です」「過去にはこんな前例もありました」という過去から今への事実を積み重ねて、未来のストーリーを描く。
「今」が「リアル」に感じられるほど、未来の空想も現実味を帯びる。

 

演劇における「今」は、舞台で演ずる役者たちが生きる「今」であり、舞台で演じられる役の生きる「今」であり、舞台を観ている客がそこにいる「今」でもある。

そして、役者たちが役と共に積み上げてきた「過去」と、観客それぞれの持つ「過去」が、舞台上で「今」は「過去」となったことと響き合い、まだ見ぬ未来へと誘う。

生身の人間から生まれる「今」の手触りが、役者にも観客にも影響を及ぼし、相乗効果で面白くもなるし、その逆もあり得る。

 

画面を通した「配信」という形式だと、「生身の人間がいる」という感覚は薄れがちだ。
でも、それを「Skypeのグループ通話に参加する」という観客の能動的な行為と、「劇中の人物も同じ状況で、同じように画面を観ている」という体感的なリアリティーで克服したのが、今回のインターネット公演なのではないだろうか。
「役と役者の距離」「舞台上と客席の距離」という意味では、もしかしたら普通の劇場の公演よりも近かったくらいかもしれない。

しかも今、このタイミングで、「今しかできないな」と全員に感じさせながらやっちゃうのが本当に凄い。
なんかもう観る前から「やられた~!」感があるし、観たらさらに「なるほどな~!」という気持ちになってしまう。

 


そして、もう一つ。
あくまで「生配信」であることにこだわったのも、大事なポイントだろう。

前述の通り、演劇は「今」の「生」であることに大きな意味を持つと私も思っている。
もちろん良い作品はDVDやインターネットなどの映像で観ても面白いのだが、それでは「役者の"今"」と「観客の"今"」は解離しているから、双方向の相乗効果は薄れてしまう気がする。あと「良い作品は映像で観ても面白い」と書いたが、そんなに面白いと思えないような作品でも、生で観ると面白いのだ、不思議なことに。「わけわからんな」と思いながら観ているその時間が、なんかよくわからないけど面白かったりするんだ、本当に不思議だけど。

加藤拓也さんはとくに、舞台作品の映像化や書籍化を全然しない人だ。だから今回も、録画録音は絶対NGだし、アーカイブも残らないだろうなとは思っていた。まあそもそも「Skypeを使ったインターネット公演のアーカイブ」って、それ映像作品と何が違うんだよって感じだが。

前述の通り、加藤さんは「今」を何より重視する人で、かつ演劇は「演劇行為」だという持論を持っている。
ちなみに過去にはこのように語っている。

 

自分たちが上演する作品はやがてあなたの記憶だけが演劇行為の証になる。どんな演劇行為であったか、あなた達が頼りだ。私たちはあなたの記憶を頼りに演劇行為を思い返す日が来るかもしれない。演劇だけはなく、演劇行為であったことを忘れないでほしい。
(『今日もわからないうちに』パンフレット、前書きより)

 

こんなこと言われたら、書くおたくはますます書くしかなくなる。自分の記憶を記録するために観劇感想を書き留めていたが、それ以上の意味を持つ気がしてくる。
先ほど挙げた「双方向性」は、実際に観劇している瞬間だけでなく、見終わった後も続いているのかもしれない。

 

いやでも、私が今回「生配信」であることが大事だと思ったポイントはそこではない。

今回の公演で強く感じたのは、「今この瞬間ここにいないと観られない」という制限があることも、演劇の要素として欠かせないということだ。

もちろんこれは先の「今」「生身」「双方向」というところとも繋がってくるけど、「集中して観なければいけない場」があるのも大きいと思う。

見逃したら二度と観ることはできず、観ている最中に起きたこともすべて今しか味わえない。
だから、観るための準備を整えて、"劇場"へ向かう。

 

演劇でも映画でもライブでも、やっぱり「その場に行って観る」というのは特別だ。
このあたりについては、別の人が詳しく書いてくれていて、私もまさにその通りだと思ったので、リンクを貼っておく。


Skypeでの生配信、というか通話に参加するという公演形態は、劇場に行くのと同じとまではいかないけど、極めて似た状況に私を導いてくれたと思う。

 

 


じゃあ、なぜそこまでして、今、演劇なのだろうか。


私は最初の感想で「無意味な会話をフィクションでやる意味ってどこにあるんだろう」と書いた。

一晩経って思うのは、「無意味なものにこそ意味ってあるよな~」ということだ。
矛盾するようだけど、無意味だから意味がないわけではなく、無意味だからこそ意味があることもたくさんある気がする。

というか、たぶん意味があるかないかなんて、誰にもわからないのだ。
今は意味がないことも未来には意味のあることかもしれない。逆に今は意味があると思っていても、実は意味なんてなかったことがわかるかもしれない。あるいは、私には無意味に思えることが他の誰かにはとても大きな意味を持っていたり、私は意味があると思っていても誰にも理解されなかったりすることもあるだろう。

「それ何の役に立つの?」みたいな問いは、それこそ無意味なものだ。ナンセンスといった方がニュアンス近いかも。


無意味だから、意味がある。
「意味なんてない」と言われると、逆に「どういう意味?」と考えたくなる。

 

そして今回「無意味」と銘打って繰り広げられるのは、私たちの「日常」だ。

じゃあ私たちの日常は無意味なのか?
答えはNoだろう。
生きているだけでそこには何らかの意味が自然とついてくる。

 

物事に意味を見いだすことは、物語を紡ぐことと似ている。

 

だから、私には物語(フィクション)が必要なのだと思う。
他人の物語に触れることで、自分の物語の意味を知ることができる気がする。

 


さらに「演じる」ことも、すべての人が生きる中で無意識にしていることだと思う。家での自分、学校での自分、仕事をしている自分、友達と話す自分、恋人と過ごす自分、このすべてが同じだという人はなかなかいないだろう。
それを意識的にやるのが「演劇」なのだが、「演劇」という枠組みの中で演じることで、生きる上で無意識に背負っている役割から解放される部分もある。

これは決してやる側だけの話ではなく、観る側でも同じだ。私は、劇場の客席で「観客」という役割を演じている。


だから、今、私には演劇が必要だ。

今、自分の生きている世界を違う枠組みで捉えたい。
今、自分が生きている現実から解放されたい。
今、自分が生きている毎日に新たな意味を見出だしたい。

他の人はどうかわからないけど、私が演劇を、物語を、フィクションを、エンターテイメントを求めるのはこのあたりにあるような気がする。

エンターテイメントは生きていくのに必須ではない不急で無意味なことかもしれないけど、私には絶対に必要で、大切なものだ。
ライブも舞台も野球も全部が中止や延期になった今、劇団た組がこういう試みをしてくれたことが、私はとても嬉しかった。本当にありがとうございます。

 

 

 

ここからは役者さんの話。


普段の舞台では、衣装着て、髪の毛セットして、お化粧してるであろう役者さんたちが、髪の毛ぼさぼさノーメイクでビデオ通話してる無防備さがヤバかったので、若手俳優おたくはそれだけで観る価値あるかも。


とくに大河(勝大さん)、髪の毛ぐしゃぐしゃ~ってやったり、頬っぺたむにむにしたり可愛い。セットやメイクしてたらできないような仕草。
いやでも、めーーーっちゃ顔とか髪とか触るやん!そりゃ感染するわ!!!!とも思った。
そういえば大河は、居酒屋公演のときも、首とか触ってた印象強い。身体の一部を触りながら話すクセがあるんだな~。それが勝大さん本人のクセなのか、大河のクセなのかわからないけど。


秋元さんはとにかく声が良い~~~~!!!!
友達に話すラフな口調で、パソコンのスピーカーから声が聞こえる破壊力すごい。
お顔も端正な方だし、身なり整ったキャラクターだったから、目元が見えなかったのマジで悲しすぎる……通話参加者のアイコンはどうしたら消せたんだろう……顔の良さを浴びたかった…………。


健介、というか中山求一郎さん、髭生やすと別人だった!『貴方なら生き残れるわ』でしか知らなかったからびっくりした~!
大河とのやり取りに親しさが滲み出ててこっちもにこにこしてしまった。


幸作さんだけ私、映像が映らなかったの本当に悲しすぎる………腹筋も見たかったし、15歳の彼女の話とかどんな顔でしてたのか見たすぎた…………。
あと公式で「通信環境の良いところでないと映像のトラブルある」とアナウンスされていたけど、私が観ていたのはWi-Fiさくさくの自室だったから、通信環境に問題はなかったと思うんですよね……本当に謎……。

 

劇団た組の芝居は基本的に「素」ぽい演技を求めるタイプだから、役者ファンが観に行くとめちゃめちゃ楽しいと思う。毎回、キャスティングもめちゃめちゃ良いし、かなり狙ってその人ならではの役をあててる感じするから最高。

 

今回のインターネット公演も、それぞれが自然かつ意外ですごく良かった。

 


結局あんまりまとまらなかったけど、書きたいことは書いたので終わります。
早くまた劇場で演劇が観られるようになりますように!

 

※最初に書いたのはこちら

*1:『誰にも知られず死ぬ朝』(2020)のパンフレットより

劇団た組インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』を観た

 


劇団た組インターネット公演
『要、不急、無意味(フィクション)』
4月18日 19:00回

を観た。


新型コロナウイルスの流行で自粛が続く今の状況を逆手にとったSkypeによるインターネット公演。


実は私はチケットの予約ができず落ち込んでいたのだが、直前にある人から枠を譲ってもらえることになり、観劇ができた。
このへんの経緯の詳細は省くけど、本当に本当に嬉しかったです、ありがとう……。

 

というわけで、観られることになったのだが、Skypeのグループ通話を利用した今までにない公演形態で、最初はトラブルもあった。


具体的なトラブルとしては


・リンクからグループに参加しても通話に参加できない。
→PCからアクセスしたが、ブラウザだとどうしても無理で、アプリを起動したら参加できた(ともにゲストとして参加) 。たぶんスカイプのマイクとビデオのオフを、通話内ですればよかったのに、アプリへの許可でNG出してたから通話に参加できなかった。


・PCからだと上に参加者のアイコンが出るので、それによって役者さんの顔が隠れてしまっていた。とくに目元が隠れてしまって残念だった。
→表示をかえる方法があったのかもしれないけど、最後までどうしたらいいのかわからなかった。


・男3人の会話に後から1人加わって4人になる流れなのだが、4人目の映像が流れず、音声のみ。
→これも最後までどうしたらいいのかわからなかった。うまくいってた人がいたら是非教えてください……。

 

と、まあこんな感じだ。


私の操作ミスなのか、運営側の問題なのかは、正直わからない……というか、たぶん私のミスだったんだと思う。
でも、チャットで他にも「観れません」と報告してる人がいたし、通話に参加している人数が定員より少なかった気がするので、もしかしたらまるっきり観れなかった人もいるのかもしれない。

初回で観客側も運営側も予期せぬ事態も起きていたんじゃないかと思う。
これから観る人は無事に観劇できますように!
私の失敗も生かして、万全の状態で臨んでほしい。


まあでも、こういうドタバタも含めて、リアルタイムの公演の醍醐味なのかもしれない。

 


というわけで、ここからは肝心の中身についての話。
あらすじとレポと感想がうまく分けられなくて、いつも以上にぐちゃぐちゃになってしまった。でも、自分の記録のためと、譲ってくれた人への報告の意味も込めて、できる限り思い出して書いておく。まとまりは本当にない。


これから観る予定の人は、観てから読んでください!!!!
今回はネタバレなしで観た方がいいと思うので!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

開始前にチャットで運営からのアナウンス。
その中で、今回の役名が明らかになる。


【秋元・大河・健介・幸作】

 

大河!?
大河って、あの"タイガ"!?
居酒屋公演の!!?!!!!????!?!?


と思ったら、本当にそうだった。
劇団た組は2019年11月に、居酒屋公演を行っている。

今回のインターネット公演が発表されたとき、「あの居酒屋公演みたいな感じかな? また勝大さんいるし……」とは思っていたが、まさなこんなに被せてくるとは……。

ていうか正直、居酒屋公演観てた方が楽しめたと思うので、当時の自分のレポ的なもの置いておきます。

 


そんなこんなで始まったSkypeの会話。
私は前述のトラブルでなかなか通話に参加できず、やっと入れたときにはおそらく5~10分経過していた。


あらすじは、説明しようがない。
本当に仲の良い男たちがSkypeでグループ通話をしているだけだ。

 

会話をしているのは、大河(鈴木勝大)、秋元(秋元龍太郎)、健介(中山求一郎)の三人。

新型コロナウイルスの流行で外出できない日々が続く中、友人同士でリモート飲み会をしているようだ。
でも、ビールを飲んでいるのは大河だけで、あとの二人はコーヒーを飲んでいる。


大河は劇団に所属しているが、こんな状況では公演も稽古もできない。ピザの配達のバイトを受け、今は結果待ちをしているらしい。
嫁は看護師をしているところも、居酒屋公演の設定そのまま、というか完全に同一人物である。設定云々よりも、空気の読めない振る舞いや、無意識に甘えるようなふざけかた、粗野な笑い声でそれが伝わる。これは間違いなく、11月に居酒屋で昔の演劇仲間と飲んでいた大河だ。

秋元は、普通に会社員?のようだ。
彼女はいない。

健介は、専門学校に通う予定だったけど、それもなくなった?

このへんの細かい設定は、聞き逃したか、通話に入る前に終わっていたかで、よくわかっていない。
とりあえずわかるのは、彼らはずっと以前からの親しい友人同士ということだ。


どれくらい親しいかというと、大河が通話繋いだままトイレに行くくらい。
他の二人は「いやお前映像切れよな」とわらっていたけれど。

 

背景は普通の家の中。
全員自宅に引きこもっているのだろう。

「いつ収まんのかね」
「仕事とか行ってるうちは無理じゃね?」

彼らの会話は、最近実際にいろいろな場所で耳にしたり口にしたりしている言葉そのままだ。

 

会話を引っ張るのは大河。
いや、引っ掻き回すといった方が正しいかもしれない。

自分が「話したい」と思ったらそのまま口から出てるというか、他人の話を聞く気があんまりなさそうに思える。本人はその自覚がないような気もするけど。

だから自分が話したいことを突然話し始めたり、突然口パクになって音声だけ切れる演技をしたり、突然固まって映像固まる演技をしたり、突然ぶんぶん揺れ始めたりする。


観客として観てる分には面白いけど、正直友達との会話でこれやられたらかなり鬱陶しいと思う。


そこにあとから幸作(諫早幸作)が参加してくる。
大河が「全員揺れてようぜ!」と言って、三人ともぶんぶんヘドバンしてるところにだ。謎すぎる。


私は幸作の映像が観られなかったので、どんな顔で話していたのかがわからないのだが、幸作は結婚してるのに彼女が二人いるらしい。しかも新しい二人目の彼女は15歳らしい。


15歳!?
え?は?どゆこと??????


三人の興味が一気にその15歳の彼女に向かう。


「きっかけは?」
「向こうからのナンパ。スタバで連絡先渡されて、ラインして~みたいな」

「15歳って気づかなかったの?」
「気づかなかった。韓国とのハーフで大人っぽくてさ」

「え、どこまでした?」
「してないよ何も!健全!健全!」

「まーじで!?」

 

正直、幸作が来るまでの会話は友人同士のとりとめもない日常会話で、「知らない人たちの会話覗き見してる」感覚が強かったのだが、幸作の15歳の彼女の話は自分も一生懸命聞いてしまった。
他人の恋愛話とかなれそめ聞くのって、何でこんなに楽しいんだろうか。

 


そして大河が、「幸作をムラムラさせてやる」といってPCでAVを再生し始める。
画面はこちらに向いてないので、音声だけ。
甲高い喘ぎ声を聞きながら「いや、何それ」と苦笑する他の三人。


「ムラムラした?」
「しねーよ、声だけだし」
「声だけだと逆に興奮しねえ?」
「いや、お前だけ観てんじゃん!」


そして、AVが閉じられなくなる。嫁の仕事用のPCなのに。嫁、いつコンビニから帰ってくるかわからないのに。


喘ぎ声をバックに続けられる会話を聞きながら、「私はいったい何を観させられているんだ?」と思っているうちに、通話が切れた。

 


そして一年後。

チャットでお互いに準備ができたか確認しあう四人。

通話が始まると、全員薄暗い部屋にいてびっくりした。
どうやらまだ流行は続いており、外出などに厳しい制限がかかっているらしい。


食事はまずい配給を食べるしかなく、トイレットペーパーは幅が狭くて木のように固い。
髪を切りにいくにも許可証が必要で、申請はLINEでもできるけど手続きに最短三日はかかる。
そんな、もしかしたらあるかもしれない未来に、彼らはいる。

大河の嫁は看護師だから、もうずっと家に帰ってきていない。
幸作の15歳の彼女は16歳になったが、ずっと会えておらずビデオ通話が精一杯。


「このまま会えなくて次に会うとき彼女30歳とかだったらどうする!?」
「それは嫌だな~。そうなる前にちゃんとしとけばよかったと思うよね」
「何?セックス?」
「ちげーよ、自粛とか!」


「AVも自粛始まった頃に新作も旧作も無料とかあったけど、今もう新作ないから見飽きたよね」
「そんときアクセスありすぎてサイト落ちてなかった?」
「落ちてた落ちてた!」
「どんだけ皆シコってんだよっていうな!」
「同時多発シコ」
「AVとかオススメ出てくるじゃん? 似たようなのばっかで新しい出会いがないよな」
「オススメ何出てくる? 俺はナース」
「嫁じゃん」


四人の会話は一年前のままだが、社会の情勢はずいぶん変わったようだ。
電話をするにも許可が必要で、電気がついていないのもきっと規制されているからだろう。

そんな中で裏営業してるところもあるようで、大河は行きたそうな雰囲気だ。


現実世界でも、もしこのまま流行が収まらなかったら、こんなディストピアになってしまうんだろうか?

 


そしてさらに一年後。

今度はみんな明るい部屋にいる。
一番最初にいたのと同じところのようだ。
それだけで、状況が少し好転したのかなという気がする。

白いシャツ姿で仕事帰りらしい秋元。
通勤電車の混雑はまだ8割ほどだが、多くの人が仕事に行けているようだ。

一人だけ通話に参加するのが遅かった健介は、新しいマイナンバーの申請に行ってきたと話す。

これは、流行が一段落した世界なのだろう。
でもまだ自粛や規制が完全に解除されたわけでもないらしい。
AVも、新作が撮影されても接触しないためにすべてエアーで行われているという謎設定。逆に観た過ぎる。

 

そして大河は、大真面目な顔で、「陰謀論」を語りだす。
今回のウイルスは、"悪"を一網打尽にするために意図的にばらまかれたものだという、なんとも胡散臭い話だ。

聞いている三人は、苦笑するしかないが、大河は真剣である。

「いや、そんなん最初から言われてたデマじゃん」
「これは本当なんだって!信頼できる筋の情報だから!」
「証拠ゼロ」


居酒屋公演のときも思ったが、大河は"わかりやすいもの"が欲しいのだろう。
不確実なものや未解決のものを受容する力(ネガティブ・ケイパビリティ)が欠けているというか、自分が"わからない"ものがある状態に耐えられないんだと思う。
だから、わかりやすい「実は……」という話を簡単に信じてしまうし、他人のリアクションにもわかりやすいものを求める。
他人からすると、そんな大河が一番"わからない"存在なのかもしれないけど。


「コロナの隔離期間が終わっても大河は隔離だな」
「外出れずに偏った情報ばっかり見てるからそんなの信じちまうんだよ」
「つーか大河が感染したの、裏営業のとこ行ったからだろ?」
「ずっとそこにいた方がいい」
「エアAV観てみてよ。そんでレビューして」


大真面目に語った陰謀論は全否定され、感染したこともからかわれ、泣き出す大河。

「もう何なんだよお前ら!嫁にも会えねえし!やっと出たAVはエアだし!何だよ2メートル離れて腰振るとかリズムと喘ぎ声ズレてんだよ!だからもう俺やめたし!ダウンロードとか!嫁のハメ撮りでシコってるよ!会えないから!!!!」

そして半ギレの状態で泣きながら嫁のハメ撮りを流す大河。
相変わらず画面は向こうを向いているので、音声だけだ。

「いや、どういう感情?」
「どんな気持ちで聞けばいいの?」

観客が思っていたことは、全部画面の中で言ってくれた。


と思ったら、大河がけろっと「うっそー」と笑う。

「いや、どこから?」
「泣いたのとか、これもAVだし」

「俺はキレ始めたときから演技ってわかってたけどね」
「俺も」
「まあおかしいとは思ったよね」
「これ、詫びでガチのハメ撮り見せるしかないよ」


ニヤニヤしながら迫る秋元、じゃんけんを要求する健介、そしてなぜか後出しで負ける大河。そこに幸作も追い討ちをかけ、ついに声だけ嫁のハメ撮りを流すことになる。

もう完全に、居酒屋公演のときと同じ流れで、私は「まじか!」となりながら腹を抱えて笑っていた。


大河の嫁の喘ぎ声に耳を澄ませながら、なおも会話を続ける四人。

そして、真剣に耳を傾ける映像を最後に、ビデオが切られる。


「この物語は、フィクションでした」

 


これが、今回のSkypeによるインターネット公演の全貌だ。
細かいとこ思い出せないけど、だいたいこんな感じ。

 

正直なことを言うと、100%手放しで「面白かった!」と人にすすめたくなるような内容ではなかった。

私はめちゃめちゃ笑ったけど、でもそれは勝大さんのファンで、11月の居酒屋公演を観ていたおかげでわかるネタがあったからだ。
だから、とくに誰のファンでもなく、居酒屋公演も観ていない人が観たら、どう思うのかは純粋に疑問に思う。
いろんな人の感想を知りたいから、Twitterでもブログでも何でもいいから感想を公開してほしい。


でも、Skypeで公演をするという試みは、本当に面白いと思う。
グループ通話という形式も、「自分も通話に参加している」という意味で、観客である私も、演者である俳優も地続きの状態だった。
"観客"側の誰かがビデオ通話をかけて、この会話に入ることも、不可能なことではない。フィクションとノンフィクション、観客と俳優の境界線って、案外そんなものなのかもしれない。


グループ通話で話す四人は、現在の私(たち)と全く同じ状況の中を生きていた。
でも途中から、彼らの時間だけスキップしていく。

一年後のディストピアは、もしかしたら私たちにも待っている未来かもしれない。
二年後のなんとか回復した状態に早くなればいいなと思うけど、それが現実世界で実現するのはいつになるかわからない。

 

終盤、「うっそー」と演技だったことを明かす大河に、友人たちが「いや、どこから嘘?」とツッコむ。
最後に「この物語は、フィクションでした」と言われたときの私も、同じ気持ちだった。

「いや、どこからがフィクション?」

 


あえて「フィクション」ということで、逆に「いやいやいや」みたいな気持ちになるのは何故だろう。

あとめちゃめちゃどうでもいいけど、最後にフィクションであることをアナウンスするのって、涼宮ハルヒっぽい。
思えば、2月に始まったコロナ騒ぎが4月も中盤になった今も全く収束しそうにない今の状況は、ちょっとタイムリープものっぽい。


「この物語は、フィクションでした」と言ってしまえば、あのディストピアな未来予想図もフィクションでした~で終われるだろうか。
でもその理論で行くと、収束した未来予想図もフィクションになってしまうのか?

とにかく私(たち)は、新型ウイルスに翻弄される今の現実を生き抜かねばならないのは、間違いなく事実だ。

 

 

そういえばこの公演は『要、不急、無意味(フィクション)』というタイトルだが、たいへん端的で良いなと思う。

不急でも、この4人にはこの時間が必要なのだろう。それがたとえ無意味だとしても。

そしてそんな無意味な会話をフィクションでやる意味ってどこにあるんだろう、ほんとに…………

でも、今の私にはフィクションが必要だ。

 

 

全然まとまらないけど終わります。

 

※まとまらなさすぎたので、さらに書きました。