エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

劇団た組。『在庫に限りはありますが』を観て考えたこと。

 

4月21日(日) @すみだパークスタジオ倉
劇団た組。第18回目公演
『在庫に限りはありますが』
作・演出◎加藤拓也
音楽◎谷川正憲(UNCHAIN

を観た。

 

劇団た組。の舞台を観るのは二回目。
前回観た『貴方なら生き残れるわ』が本当にめちゃめちゃ良くて、「この人の脚本・演出の舞台は絶対に観なければ」と思って、来た。
ここまで脚本・演出に惚れ込んで観劇を決めるのは初めてかもしれない。
好きな人の作品に対して「今回は違うな」と感じることはいくらでもあると思うが、個人的には今回の『在庫に限りはありますが』で「やっぱり加藤拓也間違いないな」みたいな気持ちになった。


以下、感想や考えたことの覚え書き、殴り書き。
読む人も観ている前提で勝手に語ります。

 


舞台上は、小さなハンバーグ屋の店内そのものだった。
木製のカウンターとチェックのクロスがかかったテーブル席は、落ち着いた洋食屋さんといった雰囲気で、こういうお店は美味しいだろうなと思わせる内装だ。

異質なのは、上手の手前に大きなベッドが鎮座していること。
そこだけ妙に生々しく、店内とはまた違う"生活"の空気が漂っていた。


基本的には、ハンバーグ屋の店内で物語は進んでいく。


主人公の洸一は、人前でご飯が食べられない。
妻の里奈とも、ずっと一緒に食事をしていない。

洸一の営むハンバーグ屋は、向かいにできた人気店に客を奪われ、すっかり閑古鳥が鳴いている。

店に来るのは、バイトの田中と、野菜を卸しに来る中島、そして夫婦の友人である門真くらいだ。

田中も中島も門真も、店の現状を心配してくれているが、洸一の"病気"については何も知らない。


洸一は人前でご飯が食べられない。
だから店に客が来ないのか?

洸一は人前でご飯が食べられない。
里奈となんとなく上手くいっていないことと、それは関係があるのか?

洸一は人前でご飯が食べられない。
それの何がいけないのか。
でも、現実はこんなにもままならない。

 

舞台装置はそのままに、照明の変化や家具の使い方で、舞台上は様々な場所に変化する。

洸一の"病気"を治すために訪れる病院、田中が働くガールズバー、そして夫婦の寝室、田中がヒモの彼氏と同棲する部屋。


舞台上手に置かれたベッドの上では、洸一と里奈が眠り、田中とヒモの彼氏がいちゃつき、シーツがどんどん乱れていく。

そのベッドが、ハンバーグ屋の場面でも常に舞台上にある。

食事のための空間に、生々しい男と女の生活を感じさせる家具がある。

まるで、すべて繋がっていると言わんばかりに。


私は最初からそれが気になって仕方なかった。
だから、劇中でさらりとセックスの話題が出たとき、「やっぱりな」と思った。
"食べる"行為は"生"と密接に繋がっているから、それが"性"の話になるのも必然的に思えた。


里奈は、「家族と一緒にご飯を食べたいって思っちゃいけないの?」と洸一に訴える。
と同時に、「セックスはしたいよ! でも洸一は家族だから、家族とセックスはできないよ!したいけど、洸一は家族だから、できないの」とも言う。


洸一はそんな里奈の言うことが理解できない。

でも、里奈も洸一が人前で食べられないことが理解できない。


"食べる"ことで分かり合えない二人が、性的にすれ違うのは、なんとなく納得がいく。


人と人にはどんなに親しくても付き合いが長くても分かり合えない部分は絶対にあって、でもそれをどこまで相手に伝えて、どう折り合いをつけて生きていくかは難しいよなぁ……とも思う。

 

洸一はハンバーグ屋だから、野菜や肉を仕入れる。
あんまりたくさん仕入れても、使いきれずに腐らせてしまう。
だから、必要な分だけ仕入れる。


自分の中にも、感情や愛情の在庫があるんだろうか。
だとしたら、定期的に仕入れなきゃ生きていけないんだろうか。
ご飯を食べないと生きていけないように、新しいものを取り入れ続けないと生きていけないんだろうか。

在庫に限りはありますが、作れるものはあるだろう。
在庫に限りはありますが、なくなるまでは出せるだろう。
在庫に限りはありますが、できるだけのことはしよう。

じゃあその限りある在庫がなくなったら、店を閉めるしかないんだろうか。

 

食べられない人が食べ物屋をやっている話の題名が『在庫に限りはありますが』っていうのは、そういうことなのかなと思ったけど、考えてもポエムみたいな文章しか出てこないので、違う話をする。

 

前作の『貴方なら生き残れるわ』を観たときも思ったが、"普通の会話"と"沈黙"がとても上手いなと思う。

なんてことのない短い言葉の応酬から滲み出るそれぞれのキャラクターの性格や関係性が、どこまでも自然で、でも計算され尽くしてる。

今回の『在庫に限りはありますが』は、沈黙から生まれる間や、何も起こらない時間が絶妙すぎた。

そもそも演劇の舞台そのものが"動"の性質を持ったものだから、そこで徹底的に"静"を作り出されると、一気に引き込まれる。

無音の暗転や、相手にだけ言うような声でのやり取りの最中は、自分自身の肉体が邪魔に思えるほどだった。
自分の呼吸の音も、心臓の音も、隣の人の身じろぎも、客席の気配も、全部が妙に大きく聞こえた。
自分のかけている眼鏡のフチや、睫毛の影や、瞬きすらも邪魔に感じた。

それほどに沈黙が上手い。
空間造りが上手い。


そしてだからこそ、抑圧された感情が溢れる瞬間、"静"が"動"へと転換する瞬間がぞくぞくするほど印象的だった。
普段、穏やかな人が激昂すると本当に本当に怖いよな……というのを、たった90分やそこらの中で感じさせられた。

 

あと、「きっとこうなるんだろうな」という予想が、良い意味で何度も裏切られた。

田中はヒモ彼氏に食い潰されるかと思ったらそんなことなかったし、実は人肉を使っているのは洸一の方かと思っていたらそんなことなかったし、洸一が里奈を殺して食べてしまっているかと思ったらそんなことなかった。

とくに洸一が里奈を殴打した後の、長い暗転の間は「ここで終わったらどうしよう」と思ったが、そうならなくて本当に良かった。
明転後にハンバーグを食べながら洸一が泣く場面でも、「ここで終わったらどうしよう」と思ったが、そうならなくて本当に良かった
洸一がクラクションを鳴らし、里奈が泣いている場面で「いよいよ終わるか」と思ったら、洸一が運転を誤って店に突っ込んで来たのも、良い意味で裏切られた。

洸一が壁を壊してしまったのは、久しぶりの運転で操作を誤ったからかもしれないが、人と人の間の壁も何かの間違いで壊れて親しくなることもあるのかもしれないなと思った。

 

ハンバーグは挽き肉を捏ねて形作って焼き上げてるけど、人間も一回バラバラにして捏ねあげて形を作らないと出来上がらないのかもな、みたいなことも思った。
人肉とかそういう話ではなく、精神的な話。
でも、精神的な部分を混ぜ合わせて"合挽き肉"にするのは、ある意味、人肉を喰らうよりも生々しくグロテスクな話なのかもしれない。


結局なんだかポエムみたいな文章にしかならなかった。

 

ポエムついでに私が"食べる"ことについて昔から考えてもいることも書いておく。

個人的に、食に対する態度はその人の物事に対するスタンスが如実に表れるなと感じる。
食べ物の好き嫌いが多い人は、物事に対する好き嫌いもはっきりしているように思う。

自分の肉体に何をどう取り入れて生きていくかという意味で、やっぱり食べることはすべてに繋がっているような気がしている。
だから知り合ったばかりの男女はまず食事に行くし、食事の席で「無理」と思うことが少しでもあると上手くいかないような気もする。
価値観の違いというか、まさしく価値の観方が食べる行為で明らかになるなと思う。


自分でも何が言いたいのかわからなくなってきたけど、舞台は観ている瞬間よりも観た後に考える行為の方が大切なような気もするから、許されたい。


全然まとまらないので終わります。

 

 


ちなみに『貴方なら生き残れるわ』についての記事はこちら。
片方ははてな匿名ですが、書いたのは私です。


 

 

 

 

『ラ・ラ・ランド』鑑賞直後の覚書

 

 

今日は金曜ロードショーで『ラ・ラ・ランド』が放送されるらしい。

良い機会なので、スマホのメモに残っていた、鑑賞直後の覚書をブログに投げておこうと思う。

 

 

-------------------------------

2017年4月

 

 

ララランド観ました。めちゃくちゃ面白かった。

賛否両論との噂を聞いていたラストシーン。
私はむしろ序盤からずっと感じていた違和感の正体がラストで一気にわかって繋がっていく感覚が最高に気持ち良かった。


この話のテーマは「共鳴」だと思う。
ひとつの音楽、ひとつの物語、ひとつの出会い、ひとつの出来事が、人の心を動かす=共鳴が起こる。

ミアの演技、セブのジャズは、最初は共鳴していない。(=人の心に届いていない)

そんな二人が出会う。
クリスマスの夜、セブのピアノに惹かれたミアが店に入って彼を見つける場面。
ミアはセブの音楽に共鳴したけど、セブの方はしていなかった。だから、セブはミアを突き飛ばすように出ていく。

それからのシーン。
ミアとセブは運命的な出会いで距離を縮めているように見えて、中断や衝突も多く(ジャズについての意見の食い違いや、約束を果たせない、キス未遂など)、なかなか共鳴しきれない。たぶん前半で一番共鳴するのはグリフィス天文台

でもその共鳴は「夢追い人」同士としての共鳴だったのではないかと思う。
叶わない夢を追い続ける、そんな部分で二人は響き合った。彼らが恋人同士になったのは、たまたまその共鳴が「恋」という名前になったというだけに思える。

その証拠に、セブがバンドを始めて「夢追い人」としての姿勢が変わると同時に二人の関係は壊れ始める。衝突やすれ違いが増え、お互いがお互いに共鳴できなくなる。

自分の望まぬ音楽で観客を楽しませるセブ。
自分の理想の舞台で観客にけなされるミア。

セブは、ミアの言葉で望まぬ音楽を始めた。
ミアは、セブの薦めで理想の舞台を打った。

その結果は映画の通り。
ミアは故郷に戻り、セブはバンドをやめてしがない流しのピアニストに。

そんなときにミアに舞い込んだチャンス。
夢を諦めかけているミアに、セブは夢を追いかけることを説く。(言わずもがなかもしれないけど、ミアがセブに『あの音楽好き?』と聞く喧嘩のシーンと対になっていると思う)

ミアが語る、セーヌ川に飛び込んだおばの話。
水面に大きく広がる波紋のイメージは、共鳴の世界に飛び込むことを暗示する?
たとえ1ヶ月クシャミをし続けることになっても、何度だって飛び込む。何度だって、人の心を動かすための挑戦を続ける。

オーディション後の公園のシーン。
二人は再び「夢追い人」同士として対峙する。
そして、お互いに夢を追い続ける姿勢を示す。
セブとミア、何かが欠けている一対一で完結していた共鳴が、二人が自立して歩き出したことにより、それぞれ世界に広がって行く。


5年後。
ミアは映画女優になるという夢を叶え、結婚して子供もいる。
そして夫と訪れた店で、ジャズの店を出すという夢を叶えたセブと出会う。

セブは、映画で活躍するミアを知っていた。(ミアが夢を叶えたことを知っていた)
ミアは、ここで初めてセブも自分の夢を叶えていたことを知る。

二人の目が合う。共鳴する。
物語を通して一番大きな共鳴が起こる。

懐かしい曲と共に、共鳴するミアとセブの中にはあるイメージが押し寄せる。
過去に経験したたくさんの「共鳴しなかった出来事」が、「もしも共鳴していたら」。
ミアがセブのピアノに惹かれた瞬間、セブもミアに惹かれる。共鳴する。
何度もあったぶつかり合いがすべてなかったら。不協和音が和音だったら、音楽になっていたら。

もしかしたらあったかもしれないそんな「幸せな未来」のイメージ。
しかしそれは、あくまで「イメージ」でしかなく、曲が終わると共に、二人は現実に引き戻される。

でも、二人の間に生まれた共鳴は、ずっと響き合い続ける。
バーを出る直前、振り向いたミアと、セブの目が合う。
付き合う前は、振り向くタイミングが合わず、お互いに気がつかないままだったのに。

「夢追い人」同士で共鳴していた二人は、「夢を叶えた者」同士として共鳴した、そしてこれからも「夢を追いかけ続ける者」同士として、共鳴し続ける。


ひとつの音楽、ひとつの物語、ひとつの出会い、ひとつの出来事が、人の心を動かす=共鳴が起こる。
その感情にどんな名前をつけるかは個人の自由で、必ずしも「愛」や「恋」である必要もない。
ミアとセブがこの先会うことはきっとないだろうけど、夢を叶えるきっかけになった出来事にお互いが深く関わったのは確かな事実で、大きな絆である。
二人はきっとこれからもずっと共鳴し続ける。

この映画のテーマは「共鳴」だと思う。

 

 

 

 

『スリル・ミー』成河×福士ペアを観て、感じたこと・考えたこと。

 

1月20日(日) @大阪サンケイホールブリーゼ
ミュージカル『スリル・ミー 2018』

脚本・音楽・歌詞:Stephen Dolginoff
演出:栗山民也
翻訳・訳詞:松田直行

私役:成河 × 彼役:福士誠治

ピアノ伴奏:朴 勝哲

 

を、観てきた。

 


きっかけは、友人のすすめだ。

東京公演を観劇した友人が、狂ったように「スリル・ミー」としか言わなくなった。何を聞いても、「とりあえず観て」としか言わないので、観に行った。

 

なんてものを見せられたんだ。
なんてものを見せてくれたんだ。

 

密度が高すぎて、圧倒された。
これは確かに「スリル・ミーが…………スリル・ミーの…………スリル・ミーは…………スリル・ミー…………」としか言えなくなるな、と納得した。

 


観劇直後に、その友人本人と会って話して少し落ち着いたが、一歩間違えば気が狂いそうだった。

 


私は観劇前はできるだけ情報を入れず、自分の中の第一印象を大切にしたいタイプだ。
だから、観劇を決めてからは、すすめてくれた友人にも深くは聞かなかったし、他の人の感想なども意図的に避けて生活していた。


何度も再演されている人気の作品らしいので、ネタバレレビューや考察はもう散々されつくしていると思うが、あえて何も見ずに自分の感じたこと・考えたことを整理しておこうと思う。

 

以下、読む人も観ている前提で勝手に語ります。

 

開演前から繰り返されていたアナウンス。

「本公演はたいへん静かな場面がございます。お荷物を触る音など、小さな音でも観劇の妨げとなる恐れがありますので、お気をつけください」

開演時間が近づくにつれ、客席は不思議な静寂に満ちてくる。
カバンから何かを取り出すかさかさという音や、控えめな咳が、妙に大きく聞こえる。

いつ始まってもおかしくない緊張感だが、季節がらかあちらこちらで小さな咳が響く。

「まさかこれは完全に静まりかえるまで始まらないのだろうか」

そう思い始めたとき、舞台上の照明が少しずつ変化していることに気がついた。


そして現れるピアニスト。
両手が鍵盤に振り下ろされ、舞台が始まった。

沈黙の中に響く和音は、どこか濁っていて、美しいのに不安な気持ちになる。
平均律で調律されたピアノは和音に歪みがあるということを、知識としては理解していたけど、初めて「ああ、こういうことなのかな」と思った。
少しずつ歪みが増大し、低い音の倍音が不安を増幅させる。


再び、沈黙が満ち、中央に"私"が現れる。


低く抑えたトーンで語られる、事件。
どうやら"私"は、何か重大で凶悪な事件を起こした犯人らしい。
10代のときに犯した罪で収監されて三十余年。今の"私"はすでに50歳を越えている。


しかし、照明が変化し、再び同じ役者が現れた瞬間、"私"は19歳の青年になっていた。

先ほどまでの死刑囚の姿からは想像もできない、無垢で無邪気で幼い振る舞いに動揺する。
と同時に、"私"をここまで変えたものが、時間以外にも何かあるのだろうなと予感させる。
その"何か"は、きっと"彼"に関係しているのだろうなということも、なんとなく察される。


傲慢で高圧的な"彼"と、そんな"彼"の言いなりになりながらも対等であろうとする"私"……。

「君の本当の心の中を理解できるのは僕だけだ」
「僕を見ろ、君には僕が必要なはずだ」

そう語りかける"私"を、"彼"は文字通り煙に巻く。

伸ばした手は振り払われ、かけた言葉は煙草の煙で返される。
"私"は"彼"のすべてを受け止めることを望むが、"彼"は何一つ"私"に手渡そうとしない。与えてくれない。

 

このやり取りだけで、この二人が何やらただならぬ関係であることが窺える。

 


あまりの密度に息が詰まる。
自分の呼吸が邪魔だ。自分の瞬きと睫毛の落とす影が邪魔だ。自分の肉体が邪魔だ。
純粋に舞台上で起きていることに集中したい。


昨日観たばかりなのでつい比べてしまうが、安住の地『ポスコレ』とは正反対だった。
ポスコレ』は観れば観るほど「観ている生身の自分」を意識させられるような舞台だったが、『スリル・ミー』を観ている自分は、完全に透明だった。
舞台上の二人しかこの世に存在していないような、そんな世界だった。
そこに「観客」はいない。完全に「"私"と"彼"の世界」だった。

 


「スリル」を求めて、"彼"は空き家に火をつけ、空き巣に入る。
"私"は、そんな"彼"の共犯者という立場でしか、"彼"に認めてもらえない。

だから、"私"は"彼"と契約する。
対等であるための、血の契約だ。

盗んだタイプライターで打った契約書に、二人は自らの血液で署名する。


しかし、その契約書があってもなお、"私"と"彼"は対等になれない。

 

「スリル・ミー」

"私"は、"彼"に、そう訴える。

しかし、"彼"の心の中に"私"はいない。

"彼"の心の中を占めるのは、圧倒的な満たされなさ。
そしてそれは、自分よりも父に愛される弟の存在が関係しているらしい。

 

「スリル・ミー」

"私"は、繰り返し"彼"に訴えかけ、"彼"を求める。

 

 

「スリル・ミー」とはどういう意味か。
おそらくこの劇を観た人、全員が抱く疑問だろう。

私もそれが気になって仕方なくて、観劇後に必死で単語の意味や語源を調べた。


thrill
[自]感動する、興奮する、ゾクゾクする、ゾッとする、身に染みる
[他]~をわくわくさせる、ぞくぞくさせる、ぞっとさせる、感動させる―I'm thrilled. : うれしい。
[名]身震い、スリル、ワクワクする感じ、振動、震え


このあたりを見て、「ああ、なるほど、thrillというのは一過性の強い感情の高ぶりのことなんだな」となんとなく解釈したのだが、一番しっくりきたのは、その原義だ。

 

[中英語thirl(穴)の音位転換. 原義は「穴を作る」→「刺す」「戦慄せんりつを起こす」
※thr = 圧迫する、突き刺す、ねじる

 

「スリル」が、極度の興奮の他に「穴をあける」「突き刺す」という意味も含んでいるとしたら、いろんなことに合点がいく。


"私"は"彼"に、「スリル・ミー(俺を貫いてくれ)」と懇願する。

そして、血の契約の際にも、"彼"はナイフで"私"の指先を突き刺す。
しかし、"彼"は、自分の指先は自分で突き刺す。決して"私"にやらせることはない。

 


「スリル」を求めて、あるいは自分か超越した存在であることを証明するために、"彼"は完全な殺人を計画する。
"彼"が最も憎んでいる人物・自分の弟の代わりに選んだのは、何の罪もない少年だ。
少年は、ロープで首を絞められ、ハンマーで頭を割られ、塩酸で顔を焼かれて無惨に殺される。
そこにナイフは登場しない。

 

しかし、そんな"彼"自身は、刑務所のシャワー室で誰かにナイフで刺されて死んでしまう。

 

 

私は、ここがどうにも納得いかなかった。

私は見ながら勝手に「きっと"私"が"彼"を殺すのだろうな」と考えていた。
だから、"私"が"彼"を陰謀にはめ、"彼"が"私"を認める場面は、ある意味で予想の範疇だった。

そして、"私"の望み通り、二人一緒に懲役99年の刑を受け、"彼"は"私"と死ぬまで離れられない運命を受け入れる。

ここで終われば、この物語はハッピーエンドかもしれないが、そうはいかない。
"彼"はここにおらず、"私"だけが事件の全貌を語っているということは、やはりまたどこかで何かが起きているのだ。

「"私"が"彼"を殺すのでなければ、"彼"が"私"への復讐と愛のために自ら命を絶つのかもしれない」

私は、今度はそう考えた。


しかし、驚くほどあっさり、"私"の口から、"彼"が見知らぬ誰かにナイフで刺されて死ぬことが明かされる。

 

ここにきて!なぜ!第三者に"彼"が殺されなければならないのか!
現実はこんなにもままならないのか!

 

 

しかし、「スリル」に「突き刺す」という意味があるなら、この物語の中で最後に"彼"が突き刺されて死ぬのは、きっと何かの運命なのだ。

そう思えば、私が観ながら勝手に感じた憤りもなんとか消化できるような気がする。

 


この話はまだ突き詰めてみたいが、たぶん拾えていないピースがたくさんある。
もう一度観て確かめたいが、密度が高すぎてすぐには無理だ。
また、これを東京のキャパ100くらいのところで観た人は、よく生きていられたなと真剣に思う。
小劇場の方が確かに向いている芝居だと思うが、小劇場の距離感でこんな濃密なものを見せられたら、それこそ気が狂う。

 

そういえば私が観たのは成河×福士誠治ペアだが、もう片方の松下洸平×柿澤勇人ペアでは、また演技や解釈が全然違うらしいので、そっちも観てみたい。

今回『スリル・ミー』を観て、「静と動」の「静」の演技が際立つ舞台だなと感じた。
だからこそ、どうやって行間を埋めるか、どういう沈黙を作るかなど、役者に依る部分が大きいように思える。

 

 

他にも書きたいことや書くべきことはたくさんある気がするが、言葉にできないのでこれくらいにしておく。
とりあえず、今まで封印してた他の人の感想を観に行こうと思う。

 

 

 

<おまけ>

『スリル・ミー』が好きな人はこの作品を読めばいいんじゃないか!?リスト

ドストエフスキー罪と罰
正当な殺人、越えてはいけない一線を越える、真の清らかさとは、真の愛とは、そこに救いはあるのか。

ヘルマン・ヘッセデミアン
対を為す二人、罪の意識、地獄探索、導くものと導かれるもの、「生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」。

高村薫『李歐』
美貌の殺し屋と平凡な学生、日常と隣り合わせの暴力、離れられない運命にある二人、「惚れたって言えよ」。

萩尾望都ポーの一族
永遠の愛は存在し得るか、求めるものと求められるもの、相手に求めるものが大きいかわいこちゃん。

・新井煮干し子『渾名をくれ』※BL漫画
愛と信仰、ピュアな二人のイビツな関係、尽くすことと尽くされること、相手に求めるものが大きいかわいこちゃん。

 

 

 

安住の地の長いタイトルのやつを見て、考えたこと。

 

1月19日(土) @京都ロームシアター ノースホール

安住の地 第3回本公演
ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』

作・演出:岡本昌也/私道かぴ

 

を、観てきた。

 

土曜の夜公演ということで、客席は満員御礼。
だが、満席の理由はそれだけじゃなく、アフタートークが人気YouTuberの方だったことも関係していたらしい。

アフタートークのゲストは、本編にも出演したYouTuberのぶんけいさん。
どうやら、ぶんけいさんからこの作品を知り、今日初めて演劇というものに触れるというお客さんも多いようだった。

そして、アフタートークの最後に、一人のお客さんがした質問が、たいへん印象的だったので、思い出せる限り引用させていただく。

「初めて演劇というものを観て、わからない部分もたくさんあったけど面白かった。今の私たちの周りはテレビやYouTubeなど、"わかりやすい"ものに溢れていて、"わからない"ものに触れる機会に乏しいと思うのだが、わからないものをわからないまま受け入れるにはどうしたらいいのか」

細かいニュアンスは間違っているかもしれないが、おおむねこんなような内容だった。


わからない。


確かに、ポスコレには、わからない部分がたくさんあった。

でも、わからないからこそ面白いんじゃないか?

 

私は常々、小説でも漫画でも映画でも演劇でも、わからないところがある作品の方が面白いよな、と思っている。
それは、本編ではっきり描かれていない部分を、自分で想像する自由があるからだ。

わからないからこそ、わかりたい。
わかりたいから、考える。

そうして考えて、自分の中ですとんと落ちる何かが見つかると、とても気持ちがいい。


私の中で「わかる」というのは、「自分の言葉にできる」ということとイコールだ。
言葉にすると、目に見えないものを目に見える文字という形であらわして、他人に伝えることができる。


ていうかそもそも、私は生きていて世の中わからないことだらけだなと思うのだが、何をもってわかりやすいというんだろうか。
他人の気持ちは一生わからないし、自分で自分をわかっているかさえ怪しいのに、わかりやすく加工された何かも何故それが"わかりやすい"と"わかる"のかは、"わからない"じゃないか………………。


話が逸れた。

 

確かに、ポスコレは、わからない部分がたくさんあった。

でも、わからないからこそ面白いと思ったし、わからないからこそわかりたい。
私の中で「わかる」というのは「言葉にする」とイコールで、同時にそれは自分の内面と向き合うことなんだと思う。


だから私は、今こうして書いている。

 


演劇の「わからない」にもいろいろある。


まず、「なぜそうなるのかわからない」場合だ。
舞台上で起こっていることが、理解できない。登場人物の気持ちがわからない。場面と場面の関係がわからない。脚本や演出の意図がわからない。
まあ、「わからない」の種類やレベルを分類したらキリがないと思うが、今回に限っていうと、私はそこまで気にならなかった。

あえて説明されないことは多くあったが、基本的には「ああ、そういうことね」と腑に落ちた。
すべてがわかったわけではないが、私の中では、わからないままでも問題ないと感じた。

 

じゃあ、何が問題だったのかというと、「観ながら自分がなぜこんな気持ちになるのか、わからない」ことだ。


私は、こわかった。
何がこわいのかもわからず、こわかった。


だから、何がどうしてこんなにこわいのか、観ている最中も観終わった後もずっと考えていた。

 

 

舞台は、Vtuber 亜純ゆるちゃんの映像からスタートする。
バーチャルな美少女が、少し舌足らずな話し方で観劇上の注意を述べている間に、役者が次々と舞台に現れる。

「舞台」といっても、ステージはない。
フラットな空間に散りばめられ、積み重ねられた、たくさんのおもちゃたち。
客席の一列めは、完全に芝居の空間と同じ高さにあり、後方に向けて上がっていく形なので、観客は舞台空間を横切って客席に座り、見下ろす形になる。


軽快なテンポの曲と、亜純ゆるちゃんのナレーションと共に、中央のブルーシートを役者たちが引っ張る。
何枚かのブルーシートは引きずられ、ばらばらになり、その上のおもちゃたちも崩れて転がり、広がってゆく。


そこからは、転がったおもちゃを拾い集めるように、断片的なシーンが次々と続く。
ゲームがやりたいと駄々をこねる子供、仲良さげだがどうにも雰囲気がおかしい兄弟、ゲームに依存する子供とその親、恋に勉強にパパ活に忙しい女子高生三人組、ゲームの中のアバターたち。
役者たちは登場するたびに違うキャラクターになり、同じ舞台空間に違う背景を持ったストーリーが同時に展開される。

 

舞台でも、映画でも、最初に観客は「これはどういう話なんだろう」ということを考える。
でも、ポスコレは、それがいまいち掴めないまま展開していく。
ひとつひとつの場面や台詞やキャラクターはとても魅力的だが、それにどういう意味があるのかよくわからないので、得体の知れないものの気持ち悪さがいつまでたっても拭えない。


しかし、話が進み、舞台の世界観が明らかになるにつれ、この気持ち悪さは少しずつ、少しずつ、なくなっていく。
無関係に思えた断片的な物語は、すべて繋がっていて、同じ世界観を共有した同じ次元に生きる者たちだとわかる。

だが、世界観がわかり、気持ち悪さがなくなると、今度は別のこわさが、少しずつ、少しずつ、あらわれる。


私が一番「こわい」と感じたのは、舞台のカーテンが開き、鏡が現れた瞬間だ。
客席から見て正面、舞台上だと背景にあたる壁が、一面ガラス張りになっていた。
役者が暗幕の隙間に手を入れ、鏡が見えた瞬間、咄嗟に「こわい」と思った。
そして鏡がすべて現れたとき、私は今すぐここから逃げ出したくなるような恐怖を味わった。
鏡だから、そこには当然、客席が映っている。もちろん、自分も。

そのことが、とてもとてもこわかった。

芝居を観ている自分が見られるのがこわかったし、芝居を観ている自分を自分で見るのもこわかった。

鏡だから、役者の動きもすべて映る。
役者の向こうには、私が映っている。

「見るもの」と「見られるもの」の境界線がないのがこわかった。
そもそもがフラットな舞台空間で、観客の足元にもおもちゃが転がってくるような状態だ。

舞台上と客席の区別がなくなって、演劇の空間に飲み込まれるような感覚がこわかった。


「見られる」のはこわい。
最初からそのつもりで人前に立つのはこわくないが、自分がそんなつもりがないときに見られているのはとてもこわい。
不意討ちの他人撮りや、レジの防犯カメラで自分を見たときのような気持ち悪さがある。
そこにいるのは見られることを意識していない素の自分で、自分が思っているより剥き出しだ。

そんなものが、芝居を見ている最中に突然目の前にあらわれるんだから、たまったもんじゃない。


それがちょうど、いろいろ明らかになるターニングポイントとなる場面なのだ。
そこから、世界観が少しずつはっきりしてくる。


そうすると、過度にデフォルメされた舞台上のウソに、少しずつ混ぜられたホントウが、どんどん見えてきて、なんかもうめちゃめちゃこわいのだ。
ウソなのに妙に説得力があるし、現実を元に作られたウソが実体を持って目の前にあるのがこわい。


登場するゲームやアイテムは全部架空のもののはずなのに、本当にあるかのように思えてくる。
しかもそのリアリティーを支えるのがYouTuberの動画というあたりも、現実と虚構の境界線がどんどん曖昧になる一因だ。
また、すべてが目の前にあるという点では演劇はすべて現実と言ってもいいのだろうが、フィクションという点ではすべてが虚構だ。ただ、虚構というのは必ず現実を元手に作られているから、すべてが嘘というわけでもないのが現実だ。

 

そして、すべてに意味があると思うと、そこら中にめちゃくちゃに散らかったおもちゃたちは、誰かの心象風景と捉えることもできるし、大きな地震があったあとの景色のようにも思えてくる。

 


何がどう見えるか、何をどう考えるかは、作り手によってコントロールされている部分もあるが、受け手に委ねられた部分も大きい。
というかむしろ、受け手が考えざるを得ないよう、作り手がコントロールしているのかもしれない。

 

作・演出の二人の稽古場日誌には、何度も「内面」という言葉が出てきた。
自分の内面をさらけ出し、誰かの内面を描き、観たものの内面に意識を向かわせるのが「演劇」なんだなと、今回しみじみ思った。

 

自分の内面と向き合うのはこわい。
それは、自分のことなのにわからないから。

現実もこわい。
次に何が起こるかわからないから。

だから人間には、結末が約束されたフィクションが必要なんだと思う。


だけど、次に何が起こるかわからない現実を生きていくしかないから、きっと人生は面白いんだと思う。

 

まとめるつもりが、どんどんわけがわからなくなってきたので、これで終わります。
またもう少し何かがわかったら、書くかもしれない。

 

 

『貴方なら生き残れるわ』を観てから三日が経って、改めて考えたこと、めも


11月24日(土) @彩の国さいたま劇場 小ホール
劇団た組。第17回目公演

『貴方なら生き残れるわ』
作・演出◎加藤拓也

音楽・演奏◎谷川正憲(UNCHAIN

を観てきた。

 

きっかけは出演者の鈴木勝大さん。完全に『岸 リトラル』のときと同じ流れだ。

あらすじを読んだときから予感はしていたが、観劇しながらぼろぼろ泣いた。劇場を出てからも一人では抱えきれないくらいのぐじゃぐじゃな感情をどうにかしたくて必死にスマホのメモに書き留めたが、あまりにいろいろ剥き出しになりすぎたので、ここに投稿するのはやめた。

 

観劇から三日経って、改めて自分の一次感想を読み返してみたら、主人公についてほとんど触れていなくて我ながらびっくりした。なぜそういう感想になったのか考えてみると同時に、改めて観劇して感じたことを書き留めておこうと思う。

 


以下、ネタバレというか読む人も観劇した前提で勝手に語ります。

 

物語は、主人公の松坂が高校の体育館に入ってくるところから始まる。
「訪れる」でも「やってくる」でもなく、「入ってくる」と表現したくなるのは、本当に松坂が「体育館」に「入ってきた」と感じたからだ。
半円状の客席に囲まれたフラットな舞台空間に描かれたバスケットコートライン。中央にそびえ立つバスケットゴール。
静寂に包まれたその空間に、松坂が表れた瞬間、そこは高校の体育館になった。
静まり返った夜の体育館に、松坂が入ってくる。あたりは不思議な緊張感に満ちていて、彼が日常的にここにいる人物ではないことが窺い知れる。
そっとバスケットボールを手にし、何度かついてみる松坂。
そこに、先生がやってくる。一気に場が和み、松坂がこの学校の卒業生であること、そして今は地元を離れていること、かつてはバスケ部に所属していたことが会話から明らかになる。
そして、先生に促された松坂が、躊躇いがちにシュートを打つ。と同時に、なだれ込んでくるバスケ部員たち。鮮明に蘇る高校時代。


松坂が、初めてこのバスケ部に来た日だ。


元々は野球部だった松坂は、クラスメイトに誘われてバスケ部にやってきた。未経験の松坂でも大丈夫なくらい、練習はゆるく、ほとんどが初心者。
決して強くはないが、部員の仲はとても良い。初対面からあだ名で呼ばれ、先輩とも下ネタで盛り上がったり、部活帰りにみんなでコンビニに寄ったりするような部活だ。顧問の先生も、放任しているようで、一人一人のことをちゃんと見てくれている。
野球部とは、何もかもが正反対。
バスケ部の練習の合間に、松坂は野球部でのことを思い出す。同級生から幼稚な嫌がらせを受けていたが、顧問は部員の話を聞こうともしなかった。野球で良い成績も出しているかもしれないが、部内の空気は悪く、松坂の他にも退部する部員は後をたたなかった。


野球部での出来事がややデフォルメされているように感じる一方で、バスケ部の空気は本当に自然でリアルだ。部活前にシューズの紐を結びながら他愛ない話に花を咲かせるあの雰囲気は、自分の高校時代のことを思い出して懐かしくなるくらいだった。「彼女ほしい」を連呼したり、童貞かどうかでからかったり、スマホを取り合ったりするあのノリも、いつかどこかで見たことのある景色と重なる。
登場する部員数は多いが、それぞれに個性があり、自然に顔と名前、性格が一致していく感覚も、自分が実際に部活に入部して少しずつメンバーを覚えていくようだった。


主人公は松坂だが、松坂以外の部員のエピソードも丁寧に描かれる。


むしろ、松坂が自分の思いを台詞としてはっきり語る場面はほとんどない。だが、松坂がバスケ部を居心地良く感じていることや、初心者ながら自分のできることを増やしていこうとする様子は、びしばしと伝わってくる。毎日、居残ってスリーポイントシュートの練習をする松坂。ゲーム形式の練習で少しずつシュートが決められるようになる松坂。野球部の部員と久しぶりに会って突っかかられても、冷静に対応することができる松坂。


他の部員たちも、それぞれに得意なこと・苦手なことがあって、少しずつ成長していくのがわかる。

 

中でも一際存在感を放つのは、先輩の吉住だ。キャプテンの彼は、初心者ばかりのバスケ部の中で一人だけずば抜けた技術を持っている。それなのにこんな弱小チームにいるのは、素行が悪くてバスケが強い学校には行けなかったからだ。バスケ部のなかったこの学校で、同級生で背の高い當座を誘い、バスケ部の顧問経験がある沖先生に頼み、一からバスケ部を立ち上げた。最初の一年間は3人だけで部活をしていたらしい。
私は次第に、この3人の物語に没頭していた。
大学から来たスカウトに「もっと強いチームにいれば…」「ここが最底辺」と言われて悔しい思いをする吉住。
勉強と部活の両立に悩み、周りと自分を比べて焦りを覚える當座。
授業準備が忙しく、思うように部活に参加できない中で、不安定な吉住の気持ちを受け止める沖先生。


最後のIH予選大会、1回戦の直後、當座は吉住に部活を辞めることを告げるが、吉住に引き留められ、思いとどまる。そして迎えた2回戦。格上の相手にチームは苦戦するが、最後の最後まで誰一人諦めずに食らいつき続けた。「辞める」と言っていた當座も、負傷したことを隠してでも試合に出続けることを選んだ。

 

私の一次感想は、ほとんどこの3人に関することで埋め尽くされている。


それは、決して主人公の松坂の影が薄かったからではない。では、なぜそうなったのか、自分では二つの要因があると思う。

 

まず一つは、この物語自体が松坂の目を通したものであったこと。
高校時代のエピソードは、すべて松坂の記憶だ。松坂が言われて印象に残っていること、目にしてずっと覚えていること。きっと、高校時代の松坂にとって、吉住はとても大きな存在だったのだろう。だから、吉住の言動は、松坂の心に深く刻み付けられており、IH予選に向けての"物語"が、吉住を中心に描かれる。そう考えると、吉住が部活を引退すると同時に、松坂も何も言わずに部活を辞めたことにも合点が行く。自分が"主人公"だと思っていた吉住の"物語"が終わってしまった。だから、自分がバスケをやる意味もわからなくなってしまったのではないだろうか。松坂自身が自分を"物語"の"主人公"だと思っていなかったのではないだろうか。
だとしたら、私の感想が吉住に関連したことばかりになるのも自然なことのように思える。

 

そして二つ目は、私にとって共感できるキャラクターが、吉住、當座、沖先生の3人だったということだ。
逆に言うと、主人公の松坂には、共感できることがあまりない。一番異なる点は、私は「何かをやめた」経験があまりないことだと思う。私は中学時代は吹奏楽部、高校からは演劇部に所属していたが、これも「吹奏楽部をやめた」というよりは、「吹奏楽部を引退してから、高校で新しく演劇を始めた」という感覚だ。むしろ吹奏楽は三年生の夏までやりきったので悔いはない。そして演劇は大学に行ってからも続けたし、就職した今も一日の半分は人前で話しているような職業なので感覚としては毎日演劇をやっているようなものだ。その他の趣味もいろいろあるが、好きなものはずっと好きなままだし、やりたいことも常に複数あるような状態で二十数年生きてきた。だから、終盤に松坂自身が吐露する内面には、客観的に心動かされはしても、共感や共鳴はしなかった。
おそらく、これは観る側の経験や感覚によるもので、中には他の部員に自らを重ねて"主人公"のように感じた人もいると思う。

 


印象に残っているシーンはいくつもあるが、共通するのは登場人物の生々しい感情が露になった場面というのことだ。
そして、観終わってしばらく経ってから作品のことを考えようとすると、自然と自分自身と向き合うような形になってしまうことに気がついた。
感想はその人個人の価値観に依るから、自分自身がある程度反映されるのは当たり前だと思うが、この作品はとくに、感想があっという間に自分語りになってしまう。

 


自分語りついでに正直な気持ちを書くと、たいへんおこがましいことだが、「加藤拓也さんの演出を受けてみたい」と思ってしまった。良い作品に触れたあとに「私も演劇やりたい」と思うことはよくあるが、こんな風に感じるのは初めてだ。丁寧に描かれる登場人物の内面と、実際にバスケをプレーするという不確定要素が、複雑に絡み合った作品だったから、どんな演出のつけ方をするとこんな舞台が出来上がるのか体感してみたい、という気持ちもある。

 


今回は一公演しか観ることができなかったけど、複数公演をいろいろな角度から観たら、また違う感想になるかもしれない。
とりあえず、劇団た組。さんの次回公演も是非観に行きたいなと思いました。


まとまらないので終わります!

 

 

※2020/04/12追記

『貴方なら生き残れるわ』がYouTubeに公開されたのを受けて、改めて観た感想を書きました。

FM802 RADIO∞INFINITY 飯室大吾卒業祭 に寄せて

2012年~2015年の四年間は、京都で大学生をしていた。
当時、私は学生劇団に所属していて、寝ても覚めても演劇にまみれた生活だった。
昼間は大学で練習をし、帰宅後も小道具を作ったり、舞台の設計をしたり、幕を縫ったり…そんな深夜の孤独な作業を支えてくれたのがラジオだ。

FM802は、いつでもカッコいい音楽が流れていて、大好きなラジオ局だった。中でもお気に入りは木曜深夜のRADIO∞INFINITYという番組である。
きっかけは覚えていない。たまたま電波を合わせていて出会ったのか、それとも好きなバンドがゲストで来たのか…
いつの間にかRADIO∞INFINITYは毎週必ず聴く番組になっていた。

RADIO∞INFINITYの好きなところはたくさんある。
まず選曲がめちゃくちゃ良い。私はバンドが大好きなのだが、まだあまり知られていない関西のナイスなバンドのイカしたナンバーをばんばんかけてくれた。リスナーも音楽好きの人が多い印象で、リクエストされる曲もとにかくカッコいい。この番組のおかげで出会えたバンドや、前から知っていたけどアルバム購入やライブ参戦に至ったバンドがたくさんいる。とにかく趣味が合うというか、センスが良いというか、信頼できた。
そして私はこのRADIO∞INFINITYのDJ飯室大吾さんが大好きだった。とにかく声が良い。一にも二にも、声が良い。低く響く心地良い声と、軽快な関西弁が、本当に良い。さらに、とにかくご本人も音楽やバンドやライブが大好きなんだろうなという印象で、トークもいつも面白かった。ゲストでやってくるバンドとの掛け合いの中にも、普段の様子が垣間見えて、聴いててにこにこしてしまった。
とくに印象深いのは、キュウソネコカミと四星球だ。どちらのバンドも元々喋りが上手いが、それが大吾さんとのいじりいじられの絶妙な空気と相まって、毎回めちゃくちゃ笑わせてもらった。

そんな大好きな番組RADIO∞INFINITYから、大好きなDJ飯室大吾さんが卒業するということを知ったのは、ちょうど一週間前だ。

大学卒業後、私は京都を離れて地元・岐阜で就職した。
FM802のエリア外となり、生活の変化からラジオを聞く習慣もなくなっていた。
しかし、RADIO∞INFINITYから飯室大吾卒業だなんて!これは聴かないと絶対後悔する!
radikoプレミアムに加入し、PCのradikoolで録音の準備も整え、3/29(木)深夜0:00~のRADIO∞INFINITY 飯室大吾卒業祭に備えた。
(こういう最後だから…って動く奴がいるから、解散ライブソールドするなら普段から来いやボケェみたいなあれになるのかな…と思いつつ…)


そして始まったRADIO∞INFINITY 飯室大吾卒業祭。
約二年ぶりに聴くことになったわけだが、番組の雰囲気も飯室大吾さんの声の良さも全然変わってなくて嬉しかった。
そしていきなり四星球の「クラーク博士と僕」で泣きそうになった。(♪知らぬ間に始まった人生が知らぬ間に終わっていく。モチモチの木の下で一生臆病なまま)

次々届くバンドマンからのメッセージ。バンドマンが語るエピソードに対して、大吾さんが「それ覚えてるわ~」とか「このバンドとはこういうことがあって…」とか、さらにいろいろ語ってくれるのが嬉しかったし楽しかった。そのどれもが、大吾さんにしか話せないことだったと思う。
「初めてINFINITY出させてもらったのは◯年前で、こんな話して~」という話を聴きながら、私自身「それ!リアルタイムで聴いた!」となることも何度もあった。(夜ダンがパジャマのさーやんのタレコミとか、シャンぺのstarrrrrrrいきなり流すとか、キュウソのトマト缶とか)
しかも、当時はまだラジオ出演もあまりしていなかったようなバンドが、今はすっかり全国区で有名になっていたりして…時の流れにも、バンドの活躍にも、そしていち早く目を付けて応援していたFM802やRADIO∞INFINITYのすごさにもびっくりした。

中でもうわああああああああああとなったのは、キュウソネコカミからのライブ音源だ。飯室大吾卒業祭にキュウソがなにもしないわけないと思っていたら、期待通り…いや、期待以上だった。
当日、名古屋のライブのリハでの録り下ろし音源「良いDJ 飯室大吾Ver.」ってだけでも愛を感じたのに、まさかの!まさかの!全員新幹線で駆けつけて生出演!!!!
Zepp名古屋でワンマンだったんですけど、終電で来ました~!」「Zeppでワンマン!ソールド!」「新幹線乗れるバンドになりました!」もうすべてがエモすぎる…ありがとうございます…。
キュウソちょっと前まで梅シャンソールドで奇跡みたいなバンドやったのに…大きくなって……………
キュウソ来た瞬間、びっくりしすぎて部屋で一人で「えー!!!!」って叫んでしまいました。飯室大吾ほんとに愛されてるよ…。


楽しい時間はあっという間で、気がついたら出席確認の時間。コミュニティに書き込むのもものすごく久しぶりで、懐かしかった。
出席確認のときRN呼んでもらえたけど、ちょっと間違えられてしまって、もっと簡単な名前にしとけばよかったな~と思ったけど、大吾さんに呼んでもらえて嬉しかったです。

めちゃくちゃ寂しいけど、めちゃくちゃ楽しかったし、大学時代に聴いてて良かった今日聴けて良かったと心から思った。
とはいえ、RADIO∞INFINITYが終わるわけではないし、飯室大吾さんがDJ辞めるわけでもないので、これからも聴き続けたいな~。せっかくradikoプレミアム登録もしたことだし!

改めて、飯室大吾さん8年間お疲れ様でした!ありがとう!!!!!!!!!!!!!!!!

 

『岸 リトラル』を観て考えたいくつかのこと。


3月3日(土) @世田谷シアタートラム
『岸 リトラル』
作:ワジディ・ムワワド/翻訳:藤井慎太郎/演出:上村聡史

を、観てきた。


前作観てない、脚本家も演出家も知らない、予備知識ほとんどなし。
きっかけは出演している俳優・鈴木勝大さん。
久しぶりに舞台の勝大さん観たいな~と思っていたところにちょうどこの公演があって、日程的に都合も良かったから東京まで観に行くことにした。


本当に鈴木勝大さんが出ていること以外なにも知らずに行ったけど、観終わって数日経った今もずっと頭から離れないので、忘れない内に感想と考えたことを書いておく。

 

以下、ネタバレ…というか読む人も観劇済という前提で勝手に語ります。

 


物語は、主人公のウィルフリードが、父の死を知るところから始まる。
ウィルフリードは、自分の知らない父を知るために、そして父にふさわしい埋葬場所を探すために、父の屍を背負って旅に出る。


舞台上では、現実と虚構が入り交じる。
自分の人生をまるで映画の撮影のように感じるウィルフリード。
そしてそんなウィルフリードは、起き上がり語り出す父イスマイルの死体と、呼べばすぐに駆けつける老騎士ギロムランと共に旅をする。


今は現実か、それとも虚構か?
ウィルフリードが見て聞いて感じている世界だとすれば、すべてが現実とも言えるし…
そもそもこれは舞台の上でのフィクションなのだから、すべてが虚構とも言えるし…

 

脚本の奥行きもだが、舞台美術や演出もとても"演劇的"で面白かった。

斜めに切り立った崖のような抽象舞台。
一番奥の鋭角になった場所には裂け目のようなビニール。
やがてそのビニールは取り外され、舞台そのものが場面によって様々な表情を見せる。


そして私は「勝大さんはどんな役だろう」と思いながら観に行ったが、幕が開いた直後に黒子として出て来てたいへん驚いた。が、観ている内に合点がいった。
基本的に一人の役者が複数の役を演じ、黒子の役割も果たす。
出てくるたびに違う表情、違う演技、違う人。
どの役者さんも本当に上手で「ああこれさっきは◯◯だった人だな」とわかるけど、違う人として存在していることは明らかで、とても楽しかった。
複数の役を演じ分ける中で逆にその役者さんの個性が浮き彫りになっていく感じも面白い…。

 

視覚的に印象に残ったのは、手紙が舞い散るところと、柔らかな光が降り注ぐところと、海で身体を洗うペインティングの場面。
とくに「柔らかな光が降り注ぐ…」のところは、あまりに美しい光景だったので、なぜか涙が込み上げてきてしまった。吊るされたビニールがキラキラしていて、降り注ぐ光は本当に柔らかくて……………
この場面は父親を求める子供達のそれぞれの告白のあとにあった気がするんだけど、いろいろなものへの「赦しの光」のように思えた。

 


終演後にパンフレットを読んでいて、はっとしたことがある。

中嶋朋子さんが対談の中で触れていた「『岸』という言葉のイメージ」の話。
中嶋さんは「これまで自分が思っていた『岸』と作品が意味する『岸』は違う。死んだお父さんが立っているところかもしれないし、ボーダーラインかもしれない。この戯曲にある言葉にはいろんな意味が含まれているんですね」と語っていた。

 

これを読んで、そういえば「岸」というのは、どちらかというと海の方から見た陸地のイメージだなぁと思った。

──岸、さ迷った末にたどり着く場所。
登場人物たちは最後に海にたどり着くけど、むしろそれまでが海をさ迷っていたようなものなのでは?

 

そして、イスマイル役の岡本さんの初日コメントを読んで、この感覚は間違っていないのではないかと思った。

岡本健一(イスマイル役)
[前略]
この登場人物たちは様々な人との出会いによって人生がいい方向に変わっていく。それと同じように、僕たちも上村くんが船頭となって導いてくれる船に、みんなで全身全霊を込めて信じて乗っかっていく。そしてその船から海へ落ちたら落ちたで、まあいいんじゃないか、と落ちてしまった人の感想を聞く、「どうだった?海の中は?おぼれたとき、苦しさはどんな感じだった?」みたいに。
[後略]

 

 


仏教用語でも、あの世あるいは悟りの世界を「彼岸」、欲や煩悩にまみれた現世を「此岸」と表現する。


生を謳歌し、性に溺れ、精を吐き出した瞬間に突きつけられた、父親の死。
そこからウィルフリードの旅は始まる。


父親を埋葬する。
人々の名前を、思い出を、記憶を、錨にして。
怒りとともに、沈める。

繋ぎ止めるものがないと、思い出は、記憶は、波に洗われ粉々になる。

「海に沈めないでくれ!波に洗われて粉々になるのは嫌だ!陸に埋めてくれ!」
ずっと聞こえていた父の声が、このときのウィルフリードには届かない。


私は常々、弔いというのは死者のためではなく生者のためにあるものだと思っていたのだけれど、改めてそれを感じさせられた舞台でもあった。


怒りを錨にして、光の中で生きる。
それがウィルフリードを始めとする登場人物たちに許され、課せられた何かなんじゃなかろうか


案の定さっぱりまとまらなかったけど、今のところの自分の考えということで、このまま置いておく。
機会があればもう一度観ていろいろ考えたいです。


観に行こうか迷っている人は、ぜひ行ってほしい。
24歳までの人は世田谷パブリックシアターで手続きすれば、U24割(ほぼ半額)で観れます。