エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

『いつぞやは』を観て思い出したいつぞやの話。


10月9日(月) @森ノ宮ピロティホール
シス・カンパニー公演『いつぞやは』

【作・演出】加藤拓也
【出演】平原テツ 橋本淳 夏帆 今井隆文 豊田エリー 鈴木杏


を観てきた。
加藤拓也さんが作・演出をした舞台作品は2018年からだいたい観てるはずなんだけど、ここ数年の中では一番好きだったかもしれない。
「加藤拓也作品のこういうところが好き!」という気持ちでいっぱいになったし、今までの加藤拓也作品を観てきたからこそ響いたシーンがたくさんあった気がする。

そして、そういうの抜きにしても舞台としてめちゃめちゃ良かった。
演劇って良いな……と、しみじみ思った。


最近は観劇してもなかなかちゃんとブログに感想をまとめるということができてなかったんだけど、これはもう観終わった瞬間から「書きたい!書かねば!語りたい!」という衝動がぶわーっと湧いてきたので、書く。

以下、ネタバレとか気にせず、思いついたことをぱらぱらと。
感想とかレポというより、自分語りとか個人的な覚え書きになるかもしれない。

 

今年四度目の森ノ宮ピロティホール。今回の席は通路より数列後ろ。この会場は前方ブロックだと舞台の床と同じ目線になるので、これくらいの位置が個人的には一番見やすい。


舞台上は、無機質なパネルに覆われていた。
舞台美術を担当された方が模型写真をupされていたので引用しておく。
https://twitter.com/Kie_Yamamoto228/status/1711286935652872511?t=fh7hZb1bGeBDFu4ZgVskyQ&s=19

無彩色の空間からは、これからきっとここに登場する役者の肉体が映えるんだろうなという期待感がある。
あと、唯一置かれていたテーブルと椅子、絶対これを動かしながら場面転換するでしょと思ってたら本当にそうだったからちょっと嬉しくなってしまった。
テーブルと椅子は、加藤拓也作品の中で自由自在に姿を変え、印象的な役割をすることか多い。人々の中心となるものであり、ひっくり返したり重ねたり上に乗ったりすることで様々な表現ができる。


開演前のアナウンスが終わると同時に、客席に一人の男が現れた。

「こんにちは〜。飴くばってま〜す。飴いかがですか〜? あ、どうも〜、こんにちは〜。あ、飴、はい、ありがとうございま〜す。飴、いりますか? はい、どうぞ〜」

手に下げた小さな籠から飴玉を取り出し、観客に配りながら舞台へと向かっていく。

決して大きな声ではない。
むしろゆったりとリラックスした、気取らない雰囲気だ。

でもそれでいて、明らかな『非日常』がある。
というか「『演劇』が歩いてきた!!!!」という感じだった。

飴を配り、観客とコミュニケーションを取りながら舞台へと上がった男──松坂(橋本淳)は、その温度感のまま、観客に語り始めた。


「僕はいつも、観に来てくれたお客さんに、こうやって飴を配ります。何でかって言うと……僕が大阪生まれだからですかね」

橋本淳さんが客席に現れるのとほぼ同時に、舞台上には10人ほどの男女が現れ、ばらばらに腰を下ろしていた。

「あ、飴いかがですか〜? 大丈夫ですか? 飴…………いいですか?」

彼はその人たちにも飴を配ろうとするが、舞台上では誰もそれを受け取らない。

橋本淳の語りは続く。

「僕、死んじゃった友達がいて、あんまりSNSとかもやらない人だったんだけどインスタだけやってて、フォローもしてて、で、フォローの一覧とかこう見てるといるわけですよ、彼が。投稿とか見てると、なんだかその人の声が聞こえるような気がして。で、フォロー外そうかなとかも考えるんですけど、生きてる人が相手でもフォローするとかしないとか難しいじゃないですか、いろいろ。で、まあ結局外してなくて。そしたらこないだ、いつログインしたかとかわかるやつが、『数時間前』ってなってて、あれこれ連絡できるのかなとか思って、まあしなかったんですけどね、結局」

細かいところは忘れてしまったけど、だいたいこんな感じ。
肩肘張らない語り口は、2020年に同じく橋本淳さんが演じた『たむらさん』を彷彿とさせる。橋本淳さんのこのナチュラルなのに空間を一気に支配する語りがとても好きだ。
そして、今はもういない年上の友人との思い出を語るのは、『ドードーが落下する』に通ずるものも感じる。

 

橋本淳が観客に向かって話し終わると、周囲にいた男女がすっと立ち上がり、出口に向かった。
橋本淳は再び飴を配り始めるが、誰も飴を受け取らない。
これは橋本淳──じゃなくて、松坂の劇団の公演が終わったときなんだなと、すぐにわかる。


こういう役者の力量と観客の受け取る力を信頼した、シームレスな場面転換も大好きだ。

 

観客があらかた去ったあと、最後に平原テツが現れる。

「え〜!いちさん!来てたんですか!」
「来たよ〜、チケット取って来たよ〜。プレイガイドで、発売日に買ってさ」
「そんなの連絡してくれたらよかったのに」
「いや、それはさ、買いたいじゃない普通に」
「そこでお金払うんだから一緒ですよ」

平原テツ演ずる一戸(いちのえ)は、松坂の昔の演劇仲間らしい。

そして演劇仲間の舞台を観に行くときも普通にプレイガイドでチケット取って何も言わずに行きたい気持ちめちゃめちゃわかる。私もよくやる。
コロナ禍前は終演後のロビーで「来るなら言ってよ〜!」と言われていたが、コロナ禍で劇団員のお見送りがなくなってからは会わずに帰ってSNSで「来てたの!?」と言われることも多かった。
自分が今はそんなに演劇やってないから、遠慮してしまう部分もあるのかもしれない。なんか「連絡していいかな〜。でも、ずっと会ってないのに関係者ヅラするのもあれだしな〜。あと、普通に観客として行きたいしな〜」みたいなことを考えて、何も言わずに行って帰ってきてしまう。

だからそのやり取りだけで「この二人は昔は一緒にやってたけど今はちょっと疎遠で、松坂の方はがっつり劇団やってるけど、一戸の方は演劇から遠ざかってるんだな」というのもすぐにわかった。


そして一戸は、もうすぐ地元の青森に帰ること、その理由が病気(大腸がんのステージⅣ)であることを、松坂に打ち明ける。

病気、しかもかなり深刻な状態であることを知らされたときのリアクションは、いったい何が正しいのだろうか。

松坂も「あっ、そう……そうなんですね〜」みたいなリアクションしかできず、一戸は一戸で「そんな顔しないでよ〜」と明るく努めようとするが、どこか居心地の悪さのようなものを感じる。


それは、昔の演劇仲間と集まったときも同じだった。
居酒屋に集まる5人の男女。
一戸が地元に戻る前に久しぶりに会うことになった仲間たち。

企画したのは、松坂と坂本(今井隆文)で、この二人は一戸の事情を知っている。
でも、小久保(夏帆)と大泉(豊田エリー)は何も知らなくて、無邪気にはしゃいだり茶化したりする。

この温度差や、そこでの坂本の空回りっぷりも、観ている分にはとても面白い。
ていうか坂本がほんとに、悪い奴じゃないんだけど喋るたびになんかちょっと変な空気になるというか、こういう人いるし、こういうことあるよな〜と思う。


一戸が大腸がんのステージⅣだと話したときの女性二人のリアクションはやっぱりなんだか居心地が悪くて、そんな気まずい空気の中で一戸が「俺、大腸も切ってるからね」と切った大腸をひょいと持ち上げたことに思わず笑ってしまう。
加藤拓也作品の、手触りのあるリアルなやり取りの中に、突然明らかにニセモノの小道具が出てくる“遊び”が好きだ。『ぽに』のおもちゃの腕や、『ドードーが落下する』のおじいさんや内臓みたいなやつ。


そして、居酒屋で元演劇仲間の男女が集まって、男の一人は大腸がんで、女の一人は妊娠してて……って、設定が『かつて我々』と一緒だな〜と思ってたら、本当に『かつて我々』が始まってうわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!?!となってしまった。

いや、『かつて我々』そのまんまじゃないんだけど…………そのまんまじゃないんだけど、営業前の昼間の居酒屋を借りて、テーブルの周りをぐるっとお客さんが囲む形で……って、それ『かつて我々』じゃないですか…………

 

一戸は松坂に「俺で脚本書いてよ」と頼む。
松坂は曖昧に笑って流す。
坂本は、「もう一度やろう!演劇!」と熱弁する。

そんな飲み会でのやり取りから、すっと切り替わったかと思うと、次の瞬間には演劇の稽古になっていた。


先ほどまでの飲み会の最初の会話がそのまま台詞になっていてシーンが再現される。
でも、言葉が完全に「台詞」の言い方になっていて、人と人との距離感も等間隔で、いかにも稽古始めたてな雰囲気で、すごかった。
下手な演技の演技って本当にうまくないとできないと思うんだけど、こっちがそわそわしてしまうくらいリアルだった。

そして言い出しっぺの坂本が一番演技が下手で面白い。
本番になっても絶妙に下手。

あと、本番で台詞飛んだときの空気感もリアルすぎて変な汗かく。
でもそういうのも含めて演劇って面白いし、本番っていいよなと思える。

一戸は病気だし、大泉も妊娠中で、このタイミングでできて本当に良かったと言いながら、仲間たちはまたそれぞれの生活に戻る。

 

このあたりには、一戸がちょっと危なっかしい人だなという印象が強くなっていた。
演劇やめてからはエアコンの工事の仕事をずっとしていて、でも病気で続けられなくなったから少しでもお金を稼ごうと絵を描いてインスタに載せたり演劇の会場に飾ろうとしたりしていて、その時点でちょっと「大丈夫か?」という感じだ。

そして演劇の稽古中に、抗がん剤をやめて民間療法に切り替えたと明かす。抗がん剤が本当にきつくて、ひどいときは立っていられないほどだからやめたと語るが、その代わりにものすごく高額のハーブティーとかアロマとか、そういうのをたくさん試しているらしく、周りの皆も「お金ないのに?」「それ本当にきくの?」という反応だ。

青森に戻ってからは在宅でできる仕事がいいから、プログラミングの通信教育に申し込んだと言っていたが、それも「大丈夫か?」と思っていたら、やっぱり「俺にはちょっと難しくて……」と挫折していた。その代わりに始めたのが大麻の栽培で、おいおいおいおい!という感じだ。

ちなみに青森に戻ってからの話は、松坂・坂本とのビデオ通話なのだが、壁のパネルがぱかっと開いて通話が始まったのも面白かったし、別のところのパネルをぱかっと開けると乾燥大麻がズラッと吊るしてあったのも面白かった。

 

そして舞台は、一戸の地元、青森へと移る。

年老いた母親と共にスーパーマーケットを訪れた一戸は、そこで高校時代の元カノ・真奈美(鈴木杏)と再会する。

真奈美は子どもを連れていて、今はバツ2でシングルマザーをしているらしい。

 

この真奈美が……というか鈴木杏が、めちゃめちゃ魅力的だった。
つい最近、NHKのドラマ『大奥』(よしながふみ)で鈴木杏を観たばかりだったから余計にそう感じたのかもしれない。
とにかくパワフルで、エネルギーに満ちていて、なんだかいい女だった。(最高だなと思いながらと観てたら、そのあとに高校時代やギャル時代まで見せてもらえてもう本当に最高でした、ありがとうございました!)


真奈美は、一戸に、仕事中に自分の息子の子守をしてもらう代わりに、夕食を作って一緒に食べることを提案する。
真奈美と一戸は昔から家が近所で、親同士も付き合いがあるらしい。


そんな生活が始まったある夜、一戸は、真奈美が外出している間に大麻を吸ってしまう。
彼が日常的にそうしていたかはわからない。でも、痛みに耐えかねてのことだというのはわかった。


乾燥させた大麻の葉を紙で巻いて火をつけ、くゆらす。
するとあたりが怪しいピンク色に染まっていく。

ふわふわと、銀色のバルーンでできた人形が、浮かび上がる。


一戸は過去にトリップしていた。

鳴り響く音楽。中央でDJをする一戸。
制服姿の真奈美が現れ、一戸に話しかける。

これは米軍基地近くのクラブか。
そういえば一戸は、昔、米軍から金属片を盗んだようなことを話していた。
母親を連れてクラブに行ったことも、真奈美と話していた。

「ほんとに行っちゃうの?」
という会話をしていたのもこのシーンだっただろうか。
一戸は間もなく高校を卒業して上京するらしい。


クラブミュージックの重低音に合わせて、人形を持った人たちがめちゃめちゃに踊り回る。
色とりどりのボールが宙を舞い、乱痴気騒ぎが繰り広げられる。

このあたりは、ちょっとハイバイの『再生』を思い出しながら観ていた。


やがて、踊っていた人々がフードを脱ぐ。
それは東京で一緒に演劇をやっていた仲間たちだった。


そこに、今度は華奢なデニムを履いた真奈美が現れる。
一度目の結婚の直後らしく「ギャルママ目指しま〜す♡」と指輪を見せつける。

そのまま東京の演劇仲間たちの中に入っていくのが、夢の中らしさを際立たせる。
よく夢の中で、接点のないはずの昔の友達と今の友達が同時に出てくるあの感じ。

一戸は真奈美に「あいつらに会ってほしい」と言っていたから、実際には会ったことがないはずだ。
そういえばこの「会わせたい」という話は「俺の葬式に来るだろうから」というところに着地するのだが、「葬式」というワードを出さなくてもそれが伝わってとても切なかった。

 

このトリップは、一戸の良い思い出の寄せ集めなのだろう。
自分が輝いていた頃、自分が大好きな人たち、めちゃめちゃに踊って、盛りあがって…………楽しい場面なのに切ないのは、これが幻覚だとわかっているからだ。

 

帰宅した真奈美は、キマってしまっている一戸を見つける。
「吸ったのォ!?」と驚きながら叱ってくれる彼女が愛しい。

一戸の嘔吐したものを拭き、散らかりっぱなしの人形やボールを手際よく片付けていく真奈美からは、愛を感じる。

一戸のそばに、彼女のような人がいてくれて良かったと思う。

 

そういえば加藤拓也作品には嘔吐する場面もよく出てくるのだが、吐瀉物が勢いよく床やテーブルにぶち撒けられる光景に、不思議な爽快感が伴う気がしている。
そもそも、全てを言葉にする人ではないから、その分、勢いよく吐き出す行為によってすっきりするのかもしれない。

 

一戸は、自分の死期が近づくに連れて、後悔を覚えるようになった。
上京前にたいしたことない体調不良だと思っていた父親は、がんで亡くなった。そのことを今になって思う。
もっと演劇もやりたかったし、結婚だってしてみたかった。

そんな一戸に、真奈美は「今からでもやればいいよ!」……みたいなことを言っていたはずなのだが、細かいところを忘れてしまって悲しい。

 


そして舞台は東京に戻る。

久しぶりに会ったらしい松坂と坂本。

「まっつん、最近いちさんと連絡とってる?」
「いや、全然……」
「結婚したらしいよ」

という会話で、一戸と真奈美が結婚したことがわかる。
そこに、真奈美から電話がかかってくる。

軽いノリで電話に出た坂本だが、その顔はすぐに曇る。

「そ……う、ですか…………それは、あの………はい、はい………」


訃報だ。


直接的な言葉は何もない。
真奈美の声が聞こえるわけでもない。

でも、一瞬でそれが理解される。
俳優の身体から発された悲しみは、ひたひたと空間を覆う。


坂本から電話を渡され、松坂も真奈美と言葉を交わす。


ずっと仲間に会わせたいと言っていたいちさん。
最後に一緒に演劇ができたことを、何度も話していたいちさん。
またやりたいと言っていたいちさん。
自分を脚本にしてほしいと言っていたいちさん。

そのいちさんは、今はもうこの世にいない。

 

松坂は、静かに机に向かい、原稿用紙に何かを書き始める。
あのときのいちさんとの会話を。彼の物語を。


そして唐突に暗転して、舞台は終わる。


突然ふつりと暗転する終わり方も、加藤拓也作品ではよくある。
私はこの投げ出されるような、投げかけるような演出がとても好きなのだが、今回はとくにそれが響いた。

暗転して、明転して、頭を下げるキャストに拍手をしながら、私はなぜか嗚咽していた。
そのまま終演のアナウンスが流れてきても立てないくらい泣けてきて、自分でもびっくりした。

 

そろそろ物語が終わる予感はあった。
そしていつものように突然終わるんだろうなという覚悟もしていた。

でも、あまりにも突然の、そして呆気ない終わりは、まるで人間が死を迎える瞬間のようで、それが一戸の物語の終わりと重なって、なんだかもうたまらなかった。


芝居の序盤で、松坂は、一戸たちの会話をそのまま脚本にしてみんなで上演した。
今、私が観た『いつぞやは』も、一戸たちの会話をそのまま脚本にして上演したもので、入れ子構造というかメタフィクションというか、まあとにかくそういう構造のものだと理解はできる。

でも、その上で、どうしてこんなに私が衝撃を受けているのか考えてみると、松坂と一戸の『いつぞやは』だけでなく、私と加藤拓也作品ないしは私と演劇の『いつぞやは』がそこに詰まっていたからだと思う。


観ながら、『いつぞや』の記憶が次々訪れた。

橋本淳さんを初めて観たのは『在庫に限りはありますが』だったなとか、橋本淳さんのナチュラルな語りで始まるのは『たむらさん』と同じだなとか、そういえば『たむらさん』では橋本淳さんと豊田エリーさんが夫婦役だったけとか、平原テツさんが病気でちょっと不安定でって『ドードーが落下する』ぽいなとか、平原テツさんを最初に観たのは『誰にも知られずに死ぬ朝』だったと思うけど、そこで出てた安達祐実さんとこないだ『綿子はもつれる』では夫婦役だったんだよなとか、とか、とか。


ところで、主人公の名前が「松坂」で仲間からは「まっつん」と呼ばれてるのって、完全に『貴方なら生き残れるわ』と同じなんですけど、これっていったいどういうことなんですか???
加藤拓也さんの中では、誰かの物語の傍観者あるいは語り手ポジションは「まっつん」なの????????
ちなみに私は『貴方なら生き残れるわ』でたいへんな衝撃を受けて加藤拓也ファンになったおたくです(突然の自己紹介)。


あと、劇中で一戸が芝居の稽古をしながら「一応さ、代役とか頼むね」と話していてドキッとした。
そもそも平原テツさんは、怪我で降板された窪田正孝さんの代役なんだけど、そんな役にこの台詞言わせるのすごくない????ていうかこわくない????????

そして欲を言えば、窪田正孝さんバージョンもとても観たくなった。平原テツさんがめちゃめちゃ良かったからこそ、余計に。


個人的には、加藤拓也さんは、役者の本質を捉えて「これしかない!」って役をやらせる人だと思っているから、窪田正孝ファンの人に加藤拓也作品の窪田正孝さんを観てほしかったみたいな立場のよくわからない謎の気持ちもある。


だんだん何が言いたいかよくわからなくなってきた。

なんかめっちゃ自分語りしちゃったし、観ながらぼんやり「あ〜、これどこかで……」と思ってたことが観終わってしばらく思い返したり感想書いたりしてる中で次々繋がってきて書きたいことがどんどん増えちゃったんですけど、やっぱりそれも含めて『いつぞやは』ってことですか!?
過去の加藤拓也作品と繋がってるように感じるのも『いつぞやは』だから???? そしてそれを観てた分だけ、観客にも『いつぞやは』が生まれるってこと?????????

 

いつぞやの、加藤拓也作品の感想は、このブログのどこかにあるので、気になる人は適当に探してください。

 

終わり。