エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

安住の地の長いタイトルのやつを見て、考えたこと。

 

1月19日(土) @京都ロームシアター ノースホール

安住の地 第3回本公演
ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』

作・演出:岡本昌也/私道かぴ

 

を、観てきた。

 

土曜の夜公演ということで、客席は満員御礼。
だが、満席の理由はそれだけじゃなく、アフタートークが人気YouTuberの方だったことも関係していたらしい。

アフタートークのゲストは、本編にも出演したYouTuberのぶんけいさん。
どうやら、ぶんけいさんからこの作品を知り、今日初めて演劇というものに触れるというお客さんも多いようだった。

そして、アフタートークの最後に、一人のお客さんがした質問が、たいへん印象的だったので、思い出せる限り引用させていただく。

「初めて演劇というものを観て、わからない部分もたくさんあったけど面白かった。今の私たちの周りはテレビやYouTubeなど、"わかりやすい"ものに溢れていて、"わからない"ものに触れる機会に乏しいと思うのだが、わからないものをわからないまま受け入れるにはどうしたらいいのか」

細かいニュアンスは間違っているかもしれないが、おおむねこんなような内容だった。


わからない。


確かに、ポスコレには、わからない部分がたくさんあった。

でも、わからないからこそ面白いんじゃないか?

 

私は常々、小説でも漫画でも映画でも演劇でも、わからないところがある作品の方が面白いよな、と思っている。
それは、本編ではっきり描かれていない部分を、自分で想像する自由があるからだ。

わからないからこそ、わかりたい。
わかりたいから、考える。

そうして考えて、自分の中ですとんと落ちる何かが見つかると、とても気持ちがいい。


私の中で「わかる」というのは、「自分の言葉にできる」ということとイコールだ。
言葉にすると、目に見えないものを目に見える文字という形であらわして、他人に伝えることができる。


ていうかそもそも、私は生きていて世の中わからないことだらけだなと思うのだが、何をもってわかりやすいというんだろうか。
他人の気持ちは一生わからないし、自分で自分をわかっているかさえ怪しいのに、わかりやすく加工された何かも何故それが"わかりやすい"と"わかる"のかは、"わからない"じゃないか………………。


話が逸れた。

 

確かに、ポスコレは、わからない部分がたくさんあった。

でも、わからないからこそ面白いと思ったし、わからないからこそわかりたい。
私の中で「わかる」というのは「言葉にする」とイコールで、同時にそれは自分の内面と向き合うことなんだと思う。


だから私は、今こうして書いている。

 


演劇の「わからない」にもいろいろある。


まず、「なぜそうなるのかわからない」場合だ。
舞台上で起こっていることが、理解できない。登場人物の気持ちがわからない。場面と場面の関係がわからない。脚本や演出の意図がわからない。
まあ、「わからない」の種類やレベルを分類したらキリがないと思うが、今回に限っていうと、私はそこまで気にならなかった。

あえて説明されないことは多くあったが、基本的には「ああ、そういうことね」と腑に落ちた。
すべてがわかったわけではないが、私の中では、わからないままでも問題ないと感じた。

 

じゃあ、何が問題だったのかというと、「観ながら自分がなぜこんな気持ちになるのか、わからない」ことだ。


私は、こわかった。
何がこわいのかもわからず、こわかった。


だから、何がどうしてこんなにこわいのか、観ている最中も観終わった後もずっと考えていた。

 

 

舞台は、Vtuber 亜純ゆるちゃんの映像からスタートする。
バーチャルな美少女が、少し舌足らずな話し方で観劇上の注意を述べている間に、役者が次々と舞台に現れる。

「舞台」といっても、ステージはない。
フラットな空間に散りばめられ、積み重ねられた、たくさんのおもちゃたち。
客席の一列めは、完全に芝居の空間と同じ高さにあり、後方に向けて上がっていく形なので、観客は舞台空間を横切って客席に座り、見下ろす形になる。


軽快なテンポの曲と、亜純ゆるちゃんのナレーションと共に、中央のブルーシートを役者たちが引っ張る。
何枚かのブルーシートは引きずられ、ばらばらになり、その上のおもちゃたちも崩れて転がり、広がってゆく。


そこからは、転がったおもちゃを拾い集めるように、断片的なシーンが次々と続く。
ゲームがやりたいと駄々をこねる子供、仲良さげだがどうにも雰囲気がおかしい兄弟、ゲームに依存する子供とその親、恋に勉強にパパ活に忙しい女子高生三人組、ゲームの中のアバターたち。
役者たちは登場するたびに違うキャラクターになり、同じ舞台空間に違う背景を持ったストーリーが同時に展開される。

 

舞台でも、映画でも、最初に観客は「これはどういう話なんだろう」ということを考える。
でも、ポスコレは、それがいまいち掴めないまま展開していく。
ひとつひとつの場面や台詞やキャラクターはとても魅力的だが、それにどういう意味があるのかよくわからないので、得体の知れないものの気持ち悪さがいつまでたっても拭えない。


しかし、話が進み、舞台の世界観が明らかになるにつれ、この気持ち悪さは少しずつ、少しずつ、なくなっていく。
無関係に思えた断片的な物語は、すべて繋がっていて、同じ世界観を共有した同じ次元に生きる者たちだとわかる。

だが、世界観がわかり、気持ち悪さがなくなると、今度は別のこわさが、少しずつ、少しずつ、あらわれる。


私が一番「こわい」と感じたのは、舞台のカーテンが開き、鏡が現れた瞬間だ。
客席から見て正面、舞台上だと背景にあたる壁が、一面ガラス張りになっていた。
役者が暗幕の隙間に手を入れ、鏡が見えた瞬間、咄嗟に「こわい」と思った。
そして鏡がすべて現れたとき、私は今すぐここから逃げ出したくなるような恐怖を味わった。
鏡だから、そこには当然、客席が映っている。もちろん、自分も。

そのことが、とてもとてもこわかった。

芝居を観ている自分が見られるのがこわかったし、芝居を観ている自分を自分で見るのもこわかった。

鏡だから、役者の動きもすべて映る。
役者の向こうには、私が映っている。

「見るもの」と「見られるもの」の境界線がないのがこわかった。
そもそもがフラットな舞台空間で、観客の足元にもおもちゃが転がってくるような状態だ。

舞台上と客席の区別がなくなって、演劇の空間に飲み込まれるような感覚がこわかった。


「見られる」のはこわい。
最初からそのつもりで人前に立つのはこわくないが、自分がそんなつもりがないときに見られているのはとてもこわい。
不意討ちの他人撮りや、レジの防犯カメラで自分を見たときのような気持ち悪さがある。
そこにいるのは見られることを意識していない素の自分で、自分が思っているより剥き出しだ。

そんなものが、芝居を見ている最中に突然目の前にあらわれるんだから、たまったもんじゃない。


それがちょうど、いろいろ明らかになるターニングポイントとなる場面なのだ。
そこから、世界観が少しずつはっきりしてくる。


そうすると、過度にデフォルメされた舞台上のウソに、少しずつ混ぜられたホントウが、どんどん見えてきて、なんかもうめちゃめちゃこわいのだ。
ウソなのに妙に説得力があるし、現実を元に作られたウソが実体を持って目の前にあるのがこわい。


登場するゲームやアイテムは全部架空のもののはずなのに、本当にあるかのように思えてくる。
しかもそのリアリティーを支えるのがYouTuberの動画というあたりも、現実と虚構の境界線がどんどん曖昧になる一因だ。
また、すべてが目の前にあるという点では演劇はすべて現実と言ってもいいのだろうが、フィクションという点ではすべてが虚構だ。ただ、虚構というのは必ず現実を元手に作られているから、すべてが嘘というわけでもないのが現実だ。

 

そして、すべてに意味があると思うと、そこら中にめちゃくちゃに散らかったおもちゃたちは、誰かの心象風景と捉えることもできるし、大きな地震があったあとの景色のようにも思えてくる。

 


何がどう見えるか、何をどう考えるかは、作り手によってコントロールされている部分もあるが、受け手に委ねられた部分も大きい。
というかむしろ、受け手が考えざるを得ないよう、作り手がコントロールしているのかもしれない。

 

作・演出の二人の稽古場日誌には、何度も「内面」という言葉が出てきた。
自分の内面をさらけ出し、誰かの内面を描き、観たものの内面に意識を向かわせるのが「演劇」なんだなと、今回しみじみ思った。

 

自分の内面と向き合うのはこわい。
それは、自分のことなのにわからないから。

現実もこわい。
次に何が起こるかわからないから。

だから人間には、結末が約束されたフィクションが必要なんだと思う。


だけど、次に何が起こるかわからない現実を生きていくしかないから、きっと人生は面白いんだと思う。

 

まとめるつもりが、どんどんわけがわからなくなってきたので、これで終わります。
またもう少し何かがわかったら、書くかもしれない。