エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

いつかの私と『かつて我々』


劇団た組 居酒屋公演『かつて我々』を観て考えたこと…………なんだけど、作品についてというよりは、ただの自分語りになる。あとたぶん何の話かわからない何かになる。内容についてのレポを求めている人は、一つ前の記事に書いたのでそちらへどうぞ。この記事は誰も興味ないかもしれないけど自分は自分の文章がめちゃめちゃ好きだから、私は私のために勝手に書く。

 

でも、劇団た組の舞台を観ると、いつも自分でも気がついていなかった「いつかの自分」に出会ったような気持ちになってしまうから、感想があっという間に自分語りになってしまうのも仕方ないんだよ、許してほしい。

 


私は、高校から演劇部に入って、大学でも学生劇団に所属していた。
だから、今回の「かつて一緒に演劇をやっていた仲間たちが集まって飲む」というシチュエーションは、めちゃめちゃ身に覚えがあるものだったし、そこでやり取りされる言葉や感情も、あるあるわかるの連続だった。


当時の仲間たちの中には、就職して自分自身が舞台に立つようなことは一切なくなった人もいる。結婚して子どもがいる人もいる。
自分で演劇をやることはなくなっても、仲間の舞台を観に行ったり、いつか機会があればまたやりたいと思っていたりする人もたくさんいる。
だから、「観に行ったりしてる?」「今でも連絡取ってる?」「俺もできるならやりたいけど仕事がね」みたいなやり取りは、とても身近で、今まで自分もそこにいた飲み会のことをいろいろ思い出した。


ちなみに私はというと、就職してしばらくは観る専門になっていたが、去年からまた縁あって役者としてもぼちぼちやらせてもらえるようになった。今は働きながら週に2回程度稽古に行くような生活をしている。
アマアマのチュアチュアだけど、素人ではない、微妙なポジション。役者と名乗るのも烏滸がましいけど、実際に役者として舞台に立つこともあるからそこは堂々と名乗らないといけないような気もして、自分でもよくわからないけど、とりあえず趣味で演劇をやっている。


一方で、劇団を立ち上げたり、劇団に所属したり、上京して芝居をやっているような仲間もいる。

今年の夏にも、上京して本気で演劇をやろうとしてる後輩と、上京して普通に仕事をしていて演劇はやってない同期と、上記の通り普通に仕事をしながら演劇も趣味でやってる私で、東京で飲んだ。
それこそ『絢爛とか爛漫とか』を観た夜で、『今日もわからないうちに』を観る前日だ。

後輩の出た舞台を5月に観ていて、その感想やなんかも喋った。

5月に観た舞台は、後輩とそのまたひとつ下の後輩の二人芝居で、高校時代の二人の会話がそのまま板に乗ったみたいな雰囲気だった。
私が知ってるのは高校で一緒に過ごした期間のことだけだけど、中学生のときは何部だったかとか、高校卒業してから何をしたとか、そういう断片的な情報が散らばっていて、すべてがノンフィクションではないけどフィクションではない部分も多いことが私にはわかった。

また二人とは一緒に舞台に立ったこともあるし、二人の演技を観たことも何度もあるので、そういう意味でも面白かった。

 

ただ、葛藤もあった。


私は知り合いの出ている舞台を観に行くときも、知り合いとか友達としてではなく、一人のファンとして観客として客席にいたい。
私が一番苦手なのは、劇場にときどきいる、内輪のノリを持ち込みたがるような人だ。つまり「役としての何か」を受けてではなく「知ってる役者がそれをする」から笑うような、そんな客。そんな風にはなりたくない。
あくまで、"役者"ではなく、"役"を観に行きたい。


だから、後輩の舞台は、後輩たちのことを知っているからこそエモいなと思う部分もたくさんあったのだが、純粋な"観客"として、二人のパーソナルな部分を一切知らずに観てみたかった気持ちもある。


ちなみにこの感覚は役者さんのファンで舞台を観に行くときにも発動する。
その人のファンだから、どうしても「◯◯さんが●●を!」みたいな気持ちで観てしまう部分があるんだけど、本当はそういうの抜きにして純粋にそこで起こっていることだけをそこで生きている人から受けとりたい。
……とここまで考えて気がついたけど、私よく考えたら役者で観に行き続けてるのって鈴木勝大さんだけかもしれない。
そして観るたびに「みたことない勝大さんだ!」ってなって帰って来ている気がする。
もしかしたら私が勝大さんの舞台をずっと観に行ってるのは、"役者"を観に行っても"役"を観て帰ってこれるからなんだろうか?


そういう意味では、今回の『かつて我々』もそうだった。

目の前の会話もリアルすぎて、これは実際にあった話なのかなと思えてくる。どこまでが誰かの経験に基づくノンフィクションで、どこからがフィクションなのかわからない。現実と虚構の境界線がわからない。


そして話す五人も、本当にこの人はこういう人なのかなと思えてくる。役と役者の境界線がわからない。
観終わってから主演(?)の越後拓哉さんが気になって名前で検索をかけたら、本当にガンになって闘病中の方で「そ、そこがノンフィクションなの!!?!」と度肝を抜かれた。
あのやり取りの繊細な何かは、この舞台に生み出したものじゃなく、自分の中身を少しだけ見せてくれてたんだろうか。


そうなると、私が元々パーソナルな部分もある程度知ってるのは鈴木勝大さんだけなのだが、まさか勝大さんもタイガみたいな人なのか……とも思えてくる。
勝大さんは実際はタイガよりも分別のある人だという認識なんだけど、それももしかしたら私の認識が違っていたのかなと思えてしまう。

 

役と役者の境界線もだが、今回の『かつて我々』は、物理的にも精神的にも"演劇空間と客席の境界線"が曖昧でこわかった。

そもそもステージがあるわけではない居酒屋での公演。
しかも、演技スペースを区切るわけでもなく、観客は透明な存在としてそこにいることになる。
そこは「客席」なんだけど、それと同時に居酒屋の「席」でもあって、観客は透明なんだけど「そこに実際いる」存在として作品内部に取り込まれる。

 

さらに、そこで繰り広げられるのは、ありふれたどこにでもあるような日常の会話だ。
普段は意識せずに聞き流しているような何かが、意図的に目の前に作り出される。しかも、意図的でありながらも意図しない方向に転がっていく、そんな"普通"で"自然"な日常会話。


そうなってくると、自分の生きている現実と、目の前の虚構の境界線はどこなんだろうと思えてくる。
とくに今回は、登場人物の境遇や会話に共感できる要素が多かったから尚更だ。


目の前のこれがリアルな虚構だとすると、もしかして私の生きてる現実も客観的に見ればドラマチックなんだろうか?

 

 


誰もが見られる景色でも、写真家が一瞬を切り取ることで、それは芸術になる。
それと同じように、誰もが経験している日常でも、脚本家が一瞬を切り取れば、それは芸術になるんだなと思った。
加藤拓也さんが『在庫に限りはありますが』のパンフレットの前書きで書いていたのも、そういうことなんだろうか。

 

 

 

なんかもっともやもや考えていたことがある気がするけど、言葉にできないので、とりあえずこれくらいにしておく。

 

さいごに。
私は何かを観に行こうとすると強制的に"遠征"になる地方民だ。

だから、たとえば好きなバンドの30分のステージのために、往復6時間かけて行ったりする。もちろん交通費もかかる。
それでも私は生で観たいから、肌で感じたいから、行く。
行くときは「楽しみだな~」と思いながら行くし、帰るときは「楽しかったな~」と思いながら帰るから、むしろ現実に戻るまでの時間が長くなってお得な気すらしている。

でも、今回の居酒屋芝居に限っていえば、「ふらっと近所に」くらいの距離感で観に行けてたらまた違う感想になるのかもなと思ったりもした。

まあでも、帰ってきてからもずっと思い出してはいろいろ考えているから、45分のために行った甲斐はめちゃめちゃあった。


これだから観劇はやめられないんだな~~~~~~~~~

 

まとまらないけど終わります。

 

 

 

普通の感想というかレポ的なものはこっち。