エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

11/24 THE CAMP LAST LIVE「SARABA!」MC覚書


11/24(日) @新栄 CLUB ROCK'N'ROLL
THE CAMP LAST LIVE
「S A R A B A !」


名古屋のバンド、THE CAMPの解散ライブ。
もう本当にずっと楽しくて、全部の曲がカッコ良くて、歌詞もめちゃめちゃ染みて、それでいてMCはゆるくて、要するにいつものTHE CAMPで最高だった。


MCが本当に全部ゆるくて仲良しで楽しくてエモすぎたので、思い出せる限りの覚書。
細かいところは曖昧だし、間違ってるところもあると思う……雰囲気だけでも伝われば……。

 

 

イト=イトウTHEキャンプさん(Vo)
コバ=ヨウヘイコバヤシさん(Ba)
リュ=ヤマグチリュウシさん(Gt)


──────
(開演)

リュ「(人がぎゅうぎゅうでバーカウンターには)ちょっと行きづらいかもしれないけど、お酒たくさん飲んでね」
イト「飲みすぎ注意」

リュ「(イトウくんは酔うと)立ってるのがギリギリくらいにはなるよね」

コバ「打ち上げとか途中でいなくなってるじゃん」
イト「いるよ。壁際で静かに一時間くらいは座ってますよ」

コバ「俺ら打ち上げ本当に苦手だったよね。とくにバンド始めたばっかりのときとか、先輩に『もっとこうした方がいい』みたいなことばっか言われるイメージでさ」

コバ「打ち上げが嫌すぎて西春まで歩いて帰ったことあるよね」
イト「あったね~」
コバ「新栄で打ち上げしてて、どうにもやっぱり無理だってなって、そのころ西春に住んでたんだけど、タクシー乗るお金もないし、いけるかなって」
イト「でも最終的にちょこっとだけ乗ったよね、タクシー。西春のUSVのあたりでさ」

イト「USVってレンタルビデオ屋で」
コバ「俺そこでバイトしてたの」

コバ「イトウくん、そのレンタルビデオ屋に深夜に俺だけが店番してるとこにきて、朝までいた。その頃に対バンしたネズミ花火のやつかけてとか言って持ってきて、本当に俺らしかいないからかけて、『いいね~』みたいな。イトウくん、普通のとこからエロいとこまでぐるぐる歩いてんの。で、『そろそろ帰ったかな~休憩入ろうかな~』と思って暖簾の向こう覗くと(イトウくんが)『お、休憩?』みたいな」

イト「本当に普通のところからエロいとこまで、一本ずつこう出しては戻し出しては戻し……若かったな~」
コバ「いや、俺らまだ大学生よ?」


──────


(イトウさんが、ハンドマイクからギターに持ち替え、すぐに何かに気がついてハケる。ピックを忘れたらしい)

リュ「いや、何年ライブやってんの」
コバ「何なら俺らよりライブやってるのに」
イト「ワンマンは久しぶりだからね」
コバ「ワンマンじゃなくてもピックは持ってくるでしょうよ」


──────


イト「こんなに来てくれるならもっと大きいとこでやれば良かった」
コバ「いやだから言ったじゃん」
イト「ロックンロールには、思い入れがね」
コバ「どうしようかなって話してるとき、ちょっと怒るくらいの勢いで『ロックンロールだよ!』って言ってたよね。でもロックンロールで1時間観るのはきついとも言ってた」
イト「いやだって……」


──────

コバ「ライブでは、眼鏡をよく落として踏んで壊しました。7年目くらいから、ツルに輪ゴム巻くと落ちづらくなるとわかり、実践しています。それでこの眼鏡は壊れずにきたな~と朝にお風呂に入りながら考えていたのですが、今朝壊れました」(眼鏡のツルがありえない方向にびろーんとなってる)

イト「いや、それこの話のために自分で壊したでしょ」
コバ「そんなことできないよ!眼鏡は身体の一部ですから、それをうまく壊すって……上手に自分で骨を折れって言ってるようなもんだよ!」

コバ「そういえばライブで骨折したこともありましたね」


──────


イト「今日で最後だしどの曲やろうかなと今までの曲全部一通りさらってみた。書いたときはそんなこと思ってなかったけど、今日のためにあるみたいな曲ばっかりだなと思った。さっきのアフターフェスティバルとかとくに」
コバ「昔は『何も考えてない曲です』とか言ってやってたのにね」


──────


[11/25追記]

コバ「これだけ人がいるとすぐには出られないと思うので、お帰りの際の導線のご案内です。一番前の方からこう進んでいただくと、物品販売、略して物販がございますので、皆さん一度目を通していただき、バーカンの前を通って帰る……と、そういうわけでよろしくお願いいたします」

コバ「皆さんの中にも今THE CAMPのタオル持ってる方いらっしゃいますが、普通はね、まああっても3枚くらいだと思うんですよ。それがうちの洗面所には5枚ありますから!しかもまだ開けてないのもありますから!」
イト「物販はね~ほんとにね~」
コバ「残ると本当に切ない!ぜひ皆さんの洗面所にTHE CAMPのタオルを!」


イト「カレンダーもね、残るとたいへんだからね。しかも2種類あるから、大きいのとフロッピーサイズと」
コバ「フロッピーサイズって!わかる人(会場見回す)……ばっかりだと思うけどさ!」
イト「だって、作るとき『この大きさで』って言ったら『フロッピーサイズですね』って言われたんだもん」


──────

 

リュ「イトウくん、しっとりしたバラードで寝転がってて気持ち入ってるな~と思ったんだけど、歌ってもないから何かと思ったら足つってた」
イト「足つるのはね、よくあるね」
コバ「残った三人の内でステージ上で怪我してないのリュウシくらいじゃない?」

リュ「イトウくん、結構高いステージで前に柵があるライブハウスで、柵に登って落ちて」
コバ「イトウくんはね、柵があると登っちゃうからね」

コバ「こう、柵がこうあって(一本指を横にする)、その上にこうイトウくんが(ピースにした指を上に乗せる)…………そしたらこう!!!!(ピースにした指の股に一本指がバーン!!!!)」

コバ「あ~~~~~イトウくんのオチ◯チ◯が!って……」

コバ「何かあったらすぐ病院行きなよって言いながら、その日は帰って、後で真っ赤になった内腿の写真が『オチ◯チ◯は大丈夫でした』って送られてきた」
リュ「イトウくんが痛み止め飲んでるとこ初めて見たもんな~」

イト「昔はライブはスポーツだとおもってたからね」
リュ「ライブの30分の記憶がない方がいい!汗かいたもん勝ち!みたいなね」
コバ「俺はそれでジャンプして着地したときに半月板損傷して、そこから動きを見直しました」


──────


(いい感じのメロディをつま弾きながら)
コバ「輪ゴムを巻くと、眼鏡が落ちづらくなる。だから眼鏡のツルに輪ゴムを巻くといいと、すべての眼鏡バンドマンに伝えてください。……………THE CAMP次が最後の曲です」
観客「ええ~~~!!?!」
イト「いつだって終わりは突然です」

イト「俺も、周りの好きな人たちがやめてくの悲しいと思ってた。ずっと続けてほしいって思ってた。でも俺らもやめるってなって、いろんな人に声かけてもらって……(良いこと言ってた気がするけど忘れてしまった)…………………聞いてもらうんだけど、俺たちに向けての曲です、『スーパースター』」


(本編終了)
──────
(アンコール)


観客「エジソンやるんだろうな!」
イト「え、何? セットリストここにあるから前の方の人はなんとなく流れわかってるんだろうけど、アンコールは一言も書いてないのよ……なんでわかるの?心が読めるの?エスパー?」
コバ「エスパー伊藤!カラシまんじゅうにこにこ食い!」


──────


[11/25追記]

コバ「全然『今までありがとうございました』とか言わないのね」
イト「え?」
コバ「『今日は来てくれてありがとうございます』って、リアルタイムの感謝のみで、今までの感謝は口にしないの?」
イト「それはさ、この曲終わってから言おうと思ってたんだよ!」
コバ「いつもそうだよね、君は。流れが読めないよ!」

──────

イト「ここまで本編16曲やってきて、僕が作った曲が8曲で、コバヤシくんが作った曲が8曲で、ちょうど半々で……狙ったわけじゃないんだよ!たまたま!」

イト「俺、最初はギターも弾けなくて、作ってもらった曲を覚えて歌うだけで、そこから自分のペースで少しずつできることを増やしていって、今では8曲8曲でコバヤシくんと同じくらい曲も作れるようになったんだなぁって…………ありがとうね」
コバ「……俺だけ卒業するみたいじゃん」
イト「コバヤシくん、今までありがとう~、遠くに行っても元気でね」
コバ「向こうは寒いからねぇ」


──────


イト「リュウシは朝、起こしてくれるんですよ。俺、朝が本当にダメで、遠征のときとか電話してくれる」
リュ「この人ほんとに6時間後に歌ってるのかなって声で電話出る『ァ"ィ"……』みたいな。しかも一回じゃ起きないから20分後くらいたって連絡ないと寝てるなと思ってもう一度かける」

イト「リュウシはギター弾いてるだけにみえてね……」
リュ「ちょいちょいちょい!」
イト「リュウシはギター弾いてるだけだとみんな思ってると思うけど」
リュ「俺そんな風に思われてたの?」


イト「THE CAMPは最初5人組で、そこからこの三人が残ったんだけど、正直リュウシが最後までいるとは……リュウシが一番大人になったし、ステージの上にいる人っぽくなった」
リュ「いや俺、THE CAMPスタートしたとき17歳だったからね。みんなも17歳のときと比べたら全然違うでしょ?」
イト「最初は黒髪で天パでメガネだったのにねぇ」
コバ「いや、俺やん!」
イト「(コバヤシも)12年経ったらこうなるかもよ」
コバ「12年後か~、46?ちょっと丸くなってるかもな」


──────


リュ「ここまで来たら(サポートドラムの)ウエジくんにも喋ってほしいよね」

ウエ「THE CAMPのサポートドラムしてきて、今日が最後なんだけど、リュウシは『今までありがとう』ってキャップをくれました」
イト「え~~~~~~~!」
コバ「言ってよ!」
イト「そうやって好感度上げてくるじゃん!」
コバ「なんだかんだ一番しっかりしてる!」
(このへんイトウさんとコバヤシさん逆かも)


イト「いやでも本当にサポートありがとう。今までにサポート入ってくれたドラマー(つらつらと名前あげる)も。本当にドラム脱退したときTHE CAMP危なかった」
コバ「俺が『一旦活動休止しよう!』って言ったとき、『それはダメだ!』って言われて、ずっと続けてきた」
イト「休止したら危なかった」
コバ「俺よりも、イトウくんの方がヤバかった」

イト「続けけてきて良かった」


(最後にもう一度、ピカデリー。お客さんもみんなで大合唱)


──────

 

めちゃめちゃうろ覚えだし、たぶん間違ってるところもあるけど、こんな感じ!

もっとTHE CAMPのライブたくさん行っておけば良かった!!!!
本当に楽しかった!!!!ありがとう!!!!さらば!!!!!!!!

 



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私と金子と自意識と~2019年シーズンを終えて~

突然だが私は埼玉西武ライオンズのファンだ。

ファン歴は十数年。
新聞で前日の結果を知るしかなかった中学時代。
年に一度だけ交流戦を観に行くことが楽しみだった高校時代。
初めて自力で本拠地に観戦に行った大学時代。
そしてパ・リーグtvを契約し毎日中継を観つつ年に数回現地に足を運ぶ現在。
私と埼玉西武ライオンズの距離は縮まったり離れたりしながら、今まで続いている。

 

西武で一番好きな選手は、金子侑司選手だ。でも、私が胸を張って「推しは金子です!」と言えるようになったのは、ごくごく最近である。
私は長年、自分が金子選手のファンであることを認められなかった。

これから、私が「かねこのおたく」になるまでを綴る……と見せかけて、「ここが好きだよユウジカネコ」を語ると共に、2019年シーズンを振り返ろうと思う。まあ要するにおたくのめんどくさい自分語りだ。
なお、私は金子選手のことを普段「ねこさん」と呼んでいるが、この記事の中では「金子」に統一する。(※金子選手はチームメイトにも「ネコ」の愛称で呼ばれている)

 

 


そもそも私がなぜ金子ファンを自称するのに時間がかかったかというと、まず一番大きな理由はおそらく、金子が「イケメン」だからだ。

私は、イケメンが好きだ。でも、「イケメンが好きな自分」は嫌いだ。
それこそ10代の頃から、イケメン俳優や男性アイドルにキャーキャー言うのは恥ずかしいと思っていた。

「私は顔が良い男になんて興味ないのよ」という顔をしていたかった。

と同時に、イケメン俳優や男性アイドルにキャーキャー言える人が羨ましかったのも事実だ。
念のため言っておくが、私は「イケメンが好きな自分」が嫌いなだけで、「イケメン」も「イケメンが好きな人」も否定するつもりはない。

 

これはただ単に、私の自意識が過剰に尊大なだけであって、平たく言えば「普通とは違う自分」「流行とか外見に左右されない自分」でいたかっただけである。
"いたかった"と過去形なのは、今の自分はどちらかというと「普通になりたい」欲求が強いからだ。


また、年齢を重ねるに連れて、顔が良い男性に対しても素直に「か、顔が良い~~~~~~♡」と言えるようになった。

 

ただ、「イケメンが好きな自分」に抵抗があるのは、今も変わらない。

だから、「顔がかっこいいな」と思ったのが事実だとしても、「顔が良いことは認めるけど、顔以上に◯◯が良い」と言えないと、なんだか自分で自分が許せないのだ。


金子の話に戻ると、金子は「イケメン」である。実際に顔が整っていることも事実だが、何よりも球団やチームメイトを始めとした周囲に「イケメンキャラ」扱いされ、「イケメン売り」されている。
だから、野球が多少わかる人なら西武ファンでなくても「金子?ああ、あのイケメンの?」という認識の人も少なくないと思う。実際に私も金子の名前を出して、そういうリアクションをされたことが何度もある。
そのたびに私は、「いや、確かにイケメンなんですけど、顔で好きになったわけじゃないんです!」と言い訳めいた言葉を続けなければならないのだ。


事実、私が金子を好きになったきっかけに顔は関係ない。


まず私が、最初に金子を強く意識したのは、2013年のフレッシュオールスターだ。
イースタン・リーグの三番・二塁手としてスタメン出場し、打って走って大活躍した。
その際にドヤ顔ではしゃぐ姿がネットで話題になったのだ。(今でも当時のまとめサイトが残っているはずなので、興味がある人は検索してみてください)

そのとき、「調子乗ってるの可愛いな!笑 しかも西武のルーキー!」と思ったのが、記憶にある一番初めの金子侑司である。
それより前にも開幕一軍で注目はしていたはずだが、あまり記憶にない。当時は大学生で寮生活をしており、中継を観られない環境だったせいもあると思う。


金子は俊足が売りのスイッチヒッターで、入団当初は内野手、とくに二塁か遊撃の守備につくことが多かった。
俊足スイッチヒッター!!!!
こんなん……こんなん好きにならざるを得ないやん????????????????


私はとにかく足が速い選手が好きだ。
祖父は阪神ファンで幼い頃は阪神の中継ばかり観ていたが、赤星が大大大好きだったし、西武ファンになってからは野手では片岡が一番好きだった。

だから、もう「俊足」の時点で好きになっちゃうのだ。
しかもスイッチヒッター内野手
ハイかっこいい!!!!!!!!!!!!!!!!


しかも、金子の守備は、いわゆる"魅せる"タイプ。
ファインプレーもあるが、やらかしも多い。
私はこのやらかし気味の魅せるタイプも大大大好きなのだ…………同時期に阪神の上本大和の二遊間にはちゃめちゃにテンションが上がっていたといえば通じるだろうか…………(上本や大和も若手イケメン売りされてた話はとりあえず置いといて)

 

そんなこんなで私は、金子のやらかすところも込みで好きだったのだが、あいにくこれは他人に説明しづらく、自分の「顔で好きになったんじゃなくて、」に続く言葉に、いまいち説得力が持たせられないでいたのだ。

 


もちろん、「イケメン」「俊足スイッチヒッター」「”魅せる”タイプの内野手」という点以外にも、金子選手の推しポイントはたくさんある。

 


「自分はこうありたい、こう見られたい」という意識がとても強いところも、金子の好きなポイントの一つだ。
最初は、金子の「自分がイケメンである」と自覚した振る舞いが好きだなと思っていた。
だが、彼の言動を見ているうちに、「自分がイケメンであることを自覚している」というよりかは、「カッコイイと思われたい」に近いような気がしてきたのだ。

自分が思う「カッコイイ自分」になりたい。
チームメイトに信頼される野球選手になりたい。球団に戦力として認められる野球選手になりたい。ファンに応援される野球選手になりたい。みんなに愛される人間になりたい。

メディアに出てくる金子選手は、ファンサービスが上手い。
「こういうの好きでしょ?」と言わんばかりの振る舞いを見せることも少なくない。

しかし、野球に対する姿勢はどこまでもストイックだ。
早出の特打ち。コーチにマンツーマンで指導を受ける姿。守備でも打撃でも走塁でもがむしゃらな姿勢。

人はそれを「ギャップ」と言うかもしれないが、私はこれは根本的には同じだと思う。

 

そんな金子を象徴する言葉が、「華麗奔放」と「平常心」だ。
この二つの言葉は金子選手の座右の銘で、グラブの表に「華麗奔放」、裏に「平常心」と刺繍を入れている。(※2019年現在は変更しているとの情報あり)

表は華麗奔放、裏は平常心。
華麗奔放な守備をするためには、地道な練習で基礎的なスキルを磨き、何事にも動じない心を育てることも必要だ。
しかし、金子選手はそんな「ひたむきに努力する自分」はあまり見せようとしない。それは、「ひたむきに努力するところは見せないほうがかっこいい」と思っているからではないだろうか。


まあこれは正直かなり私個人の妄想である部分が大きい*1のだが、この金子選手に対する考察が言語化できたとき、私はより一層、金子が好きになった。


自意識過剰な抵抗感で「イケメン金子」を遠ざけていた私だが、そんな「イケメン金子」もまた、彼自身の自意識の産物なのだ。


私が「イケメン好きな自分が受け入れられない」とうだうだ言っていたように、金子も「カッコイイ自分でありたいのに、そうなれない」事実に苦しんでいた。
そこ同列で語るのかよって感じだけど、「自分に対する解釈違い」という点では同じなのだ、きっと。


そして、私が今、素直に「金子ほんとにかっこいい……大好き……」と言えるのは、他でもない金子自身がどんどん「カッコイイ自分」を実現してくれたおかげだ。

 

2019年、金子は守備でも走塁でも大きくチームに貢献した。

内野手としてはかなりやらかし気味だった金子だが、出場機会を求めて2016年頃からは外野手に挑戦、2017年には登録も外野手に。
外野でも最初は不安定さが目立ったが、次第に感覚をつかみ、脚力を生かした広い守備範囲でファインプレーを連発するようになった。とくに、フェンス際でも恐れずに突っ込んでいく姿が印象的だ。
「いい当たりだ!レフト!金子侑司!……捕っています!!!!」という実況を聞いたのは、一度や二度ではない。*2
金子の守備に助けられる場面も多く、今では「あの頃に金子の守備disってた人たちどこ行った!?」と思うくらい、ファンからも信頼される外野手に成長した。


また、盗塁もリーグトップの41盗塁。
ただ走るだけでなく、相手チームを揺さぶって与えた影響を考えると、数字に表れない貢献度はもっと高いと思う。


こうして金子自身が自分の思う「カッコイイ野球選手」に近づいてくれたおかげで、私も胸を張って「金子が好きです!」と言えるようになった。

 

こんな書き方すると「活躍してないときはファン名乗るのが恥ずかしいって!?」と怒られそうだが、そもそも「なりたい自分になろうと足掻く金子侑司」が好きだけど、おたくじゃない人にそれを説明するのが難しすぎるだけなんです……すみません……。

 

そういえば、もうひとつ今季の金子で印象的なことは、良い意味でも悪い意味でも「調子の波がなかった」ことだ。

私は、金子の「調子がノってるときは調子に乗ってるし、調子に乗れば乗るほど調子がいい」ところも大好きなのだが、2019年シーズンは、あまりそういう姿がなかったように思う。
でも逆に、「まじでむりそう……」という日も少なかった。
そんなに調子がよくなさそうに見えても一試合に1本はヒットが出たり、守備でのファインプレーがあったりした。
また、そういうときの金子は露骨に肌ツヤが変わるというか、顔面の作画が良い時といまいちな時があったりもしたが、今季はずっと「良い顔」をしていたように思う。

このへんはデータに基づいていないおたくの曖昧な記憶に基づく感想なのだが、佐藤友亮コーチの言う「感情の起伏もなくなってきたし、人間的な成長が、何よりも大きい」*3には、これも含まれているのかなと思ったりした。


また、逆に以前はあまり見せなかった「カッコワルイ自分」を表に出すことも増えてきた気がする。
具体的には、2019/5/3対日ハム戦5回裏ビハインドを追いかける展開で追い上げムードの中で回ってきた打席、捉えた良い当たりがサードライナーになり、バットを大きく振り上げて、たたきつけるかと思われたがそのまま固まって、やめた場面とか。
一塁への走塁や、二塁への盗塁で際どいタイミングでアウトになってうなだれる姿とか。
2019/10/13対ソフトバンクCSファイナル第四戦9回表にホームランを追いかけてフェンスによじ登る姿とか。
今までだったらあまり見せようとしなかったひたむきな姿も、見せるようになったような気がする。
それが何を意味するのかは断定できないし、そもそもこの感覚も私個人の主観でしかないが、私はそんな野球に真剣でひたむきな金子はとてもカッコイイと思う。

 

というわけで、2019年の金子侑司選手は、顔もプレーもずっとかっこよかったのだ。
私はますます金子のことが好きになった。


ここに至るまでに、背番号Tシャツを買う、KANEKOユニフォームを買う、などの段階も少しずつ踏んできた。
(とくにユニフォームは、決して安くはない買い物だし、強制的に推しとペアルックになるし、着ていると周囲からその球団のその選手のファンとして見られるし、私にとってはかなり思い切った決断だった。購入したのは2018年シーズン中だが、「推しに恥じないファンになろう」と思ったことを強く覚えている)


だが、最後の最後に私の心の壁を壊してくれたのは、金子侑司選手自身だ。

今なら言える。「一番好きなのは金子侑司です」と、胸を張って。

 

ねこさん、ありがとう。これからもずっとカッコイイあなたでいてください。
応援しています。

 

 

 

*1:2000%妄想だよなと思っていたら、つい最近この説を裏付けるような本人の発言が次々と観測されている。
参考リンク:その足で、その守備で……絶体絶命の西武に金子侑司が必要不可欠な理由 http://a.msn.com/01/ja-jp/AAIGTP9?ocid=st

*2:この副産物として「帽子を落とす金子侑と拾う秋山」が誕生した

*3:上記参考リンク参照

劇団た組『今日もわからないうちに』を観て1ヶ月経っても忘れなかったこと、忘れたくなかったこと

 

9月1日(日)@世田谷シアタートラム
劇団た組 第19回目公演 
『今日もわからないうちに』
作・演出◎加藤 拓也
音楽・演奏◎谷川正憲(UNCHAIN


を観てから、気がついたら1ヶ月以上経ってしまった。


劇団た組の舞台を観るのはこれで三作目。
観るたびに、めちゃめちゃに感情をかき乱される。

だから感想にもなりきれない何かを書きなぐるのがいつものパターンなのだが、今回は友人と一緒に行って観劇後に感想を話す機会があったので、一回そこで昇華されてしまった。
(その友人は私が「劇団た組の舞台めっちゃ良い」と言い続けていたら興味を持って一緒に来てくれたし、今回の作品も楽しんでくれたみたいで本当にありがたい)

また、実は昼にこの作品を観てから夜に三谷幸喜の『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』を観たので、単純に書いてる余裕がなかったのもある。

 

それでも、見終わって何日かして、「ああ、あれはそういうことかな……」と思えてきたことがあって、ちまちまメモに書き留めていた。

別に感想を書くのもブログを更新するのも義務でも何でもないのだが、きちんと何らかの形で残しておきたいので、1ヶ月経った今も鮮やかに覚えていることを、書き記しておきたいと思う。

大切なことを忘れてしまわないように。

 

 

 


会場に入ると、真っ黒な舞台の上から木でできた屋根の骨組みが吊るされていた。
真ん中には下に続く階段。奈落をそんな風に使う舞台は初めて観た。
「うちの中」には、普通の家具が、普通じゃない様子で並んでいる。
椅子はうつぶせに寝かせられているし、冷蔵庫は仰向けだし、ここがリビングという設定だとしたらあきらかにおかしな場所に洗濯機がある。


「変な舞台装置だなぁ」と思っていたが、開演してすぐに、これもひとつの演出だとわかった。


主人公の恵は、ある日突然、自分の家のことだけがわからなくなる記憶障害になってしまう。

朝は覚えているのに、家を出ると自分の家がわからなくなるから、帰ることができない。
夫の一志に迎えに来てもらって家に帰っても、自分の家だとわからない。どこに何があるかもわからない。
でも、翌朝になると、自分が記憶障害で家を出ると家を忘れてしまうことも忘れてしまう。
娘の雛には心配をかけたくないから病気のことは内緒にして、至るところにメモを貼ることで、一志と協力しながら、なんとか日常生活を送ろうとする。

 


観劇の前は、タイトルの『今日もわからないうちに』って、「今日のこともわからないのに未来のことを話してる」みたいな意味かと思ってたけど、「今日もわからないうち(=家)に」か!と気がついた。
そして、「今日もわからないうちに(何かがどこかで進行していく)」って意味もあるのだと思う。

 

恵は今日もわからない家に帰り、今日もわからないうちに何かがどこかで進行していく。
同じうちで暮らしていても、わからないうちに起こっていることはたくさんある。

 

恵と一志は、最初は決して仲睦まじい夫婦というわけではなくて、一志は毎月こっそり別の女の子にお金を渡して会っていた。
でも、恵を支えるために、その女の子との縁を切ろうとする。

恵が記憶障害になったことで、夫婦の仲は以前より深まったように思える。

 

一方で恵も、実父の一郎に毎月お金を渡していて、そのことを一志はよく思っていない。
一郎は常に高圧的な態度で、三人が住む家にやってくる。
雛も、おじいちゃん(一郎)のことを嫌っている。
恵が病気になったことを伝えても、一郎は態度を変えない。


一人娘の雛は、中学校でソフトボールをやっている。
本当はピッチャーがやりたいのにやらせてもらえないし、おじいちゃんには「女の子なんだからソフトボールなんてやめろ」と言われるし、学校の先生や好きな男の子にも「男っぽい」と言われるし、もやもやは募るばかりなのにお父さんもお母さんも最近なんだか様子が変だし、「みんな何なの!?」という状態だ。


この雛役の池田朱那さんの演技が抜群に良かった。
「演技」と言ってしまうとむしろ語弊があるかもしれないが、思春期特有の不安定さ、鋭さ、瑞々しさが、そのままひとつの結晶としてそこにあって、はっとさせられるようだった。
家族に対する無愛想な態度も、周囲に対する憤りも、好きな男の子と話すときの甘酸っぱい空気も、学校の先生に対する無遠慮さも、お母さんに甘えたい無垢な気持ちも、「自分の中にも確かにあったいつかのあの頃」を見ているようだった。


劇団た組の舞台を観るといつも、自分でも気づいていなかった「いつかのあのときの自分」に出会ったような気持ちになる。
今まで知らないふりをしていたけど、「いつかのあのときの自分」は、「今ここに描かれているこれ」だったのかもしれないなと思わされる。
脚本・演出の加藤拓也さんは、世界に対する解像度がものすごく高いし、それを切り取りかたちづくる力もずば抜けているんだろう。

 


作品全体の話に戻ると、今までの劇団た組の作品と同じく、今回も作り込まれた自然さと不自然さが際立っていたなと思った。

私が観て感じた劇団た組のひとつの特徴は、会話の自然さだ。
そのときにその人が言う言葉として嘘がないし、余計な力も入っていなくて、全く台詞っぽくない、本当にその場で普通にお喋りをしているような会話なのだ。


そう思って今回も観に行ったのだが、幕が開いた直後、私は驚いた。
なんだか言葉がすべて棒読みに聞こえる。
一対一で話しているはずなのに、会話が成り立っている感じが全然しない。

「あれ?劇団た組の舞台ってこんなんだっけ?それとも役者が下手なのか?」

 

でも、物語が展開していくに連れて、その違和感はどんどんなくなっていった。
役者が、役として、一人の人間として、ちゃんと会話をしている。
普通に話しているような何気ないやりとり。
それでいて思わず息を飲むような生々しい感情。


私はこの芝居を観ながら2回泣いたのだが、1回目は家がわからなくなった恵が雛の手を引きながらぐるぐる走り回る場面だ。
「どこ?どこ?」と言いながら必死の形相で走る恵。
「お母さん!どうしたの!?痛い!痛いよ!転んじゃう!お母さん!」と叫びながら半分引きずられるようについていく雛。
二人が手を繋ぎ、同じ場所をぐるぐるぐるぐる走り回る、絵面としては滑稽なのに、声が、表情が、本当に切羽詰まっていて、こわくて、涙が出た。
お母さんと娘のはずなのに、このときの恵はすっかり「お母さん」ではなくなっていて、まるで子供が二人で迷子になっているようだった。


こんな演技ができる人たちが、あんな棒読みで演技をするはずがない。

とすると、あの棒読みの台詞も「成り立たない会話」という演技なんだと思う。

一対一で会話してるはずなのに、全く相手に言葉が届いていないし、相手からの言葉を受け取ろうともしていない。
いわゆる「言葉のキャッチボール」ができていない状態だ。


思えば、「キャッチボール」は作品の中でも重要なものとして扱われていた。

冒頭の場面で、恵は一志に向かってボール(だったかな?スマホ?)を投げようとするが、一志は「何やってんだ!危ないよ!家の中だよ!」と止める。
恵は「じゃあ公園行く?」と聞くが、一志は「行かないよ」と連れない返事だ。

まあ、家の中で妻が突然キャッチボールを始めようとした際の反応として自然ではあるが、キャッチボールを「気持ちをやりとりする行為」だと仮定するとまた別の何かが見えてくる。
一志にとって、家の中は「"キャッチボール"をする場所」ではないのだ。
そして、恵は「"キャッチボール"がしたい」のに、できない。


雛は、昔、お母さんとしたキャッチボールが忘れられない。
そして、物語の終盤で、雛と恵は昔のように公園でキャッチボールをする。
このときの恵はぜんぶ忘れてしまっていて、雛のことももしかしたらわからないのかもしれないが、それでもキャッチボールをする二人の間には確かに通じ合う何かがあった。


そう考えると、雛の「ソフトボールでピッチャーをやりたい」というのも、「誰かに自分の気持ちをぶつけたい」という欲求の表れなのかなとも思う。
ソフトボールも野球も、ピッチャーがボールを投げることでゲームが始まる。雛も、自分の言葉を、気持ちを、誰かに投げたかったのではないだろうか。そして、そこから何かが始まってほしかったのではないだろうか。
でも、実際には雛は外野で、ボールが飛んでくるのを待つことしかできないのだ。

 

言葉は、受け取ってくれる誰かがいて、初めて生きたものになる。

記憶もきっと同じだ。
自分以外の誰かが、自分のことを、自分とのことを、覚えていてくれるから、自分は自分として生きていられる。

 


自分はどこまで覚えてるんだろう
何を忘れて、何を覚えて生きてきたんだろう
忘れちゃいけないこと、忘れた方がいいことってなんだろう

 

 

恵の記憶障害の原因は、きっと一志の浮気だろう……と思っていた。

しかし、最後の最後で物語は予期せぬ展開を見せる。

 

恵と雛の涙なしでは観られない場面のあと、街の風景のスライドショーと共に谷川さんの歌声が響く。

「ああ、これで終わりかな…………すごく良かったな……」と思ったら、まだ続きがあった。


三人の家に、一郎がやってくる。
ここで観客は、まだ問題は何も解決していなかったことを思い出す。
逆に言うと、ここまで忘れていたのだ。この厄介な父親の存在を。

 

そして、一郎の口から、昔、認知症の妻を殺し、恵と一緒に埋めたことが明かされる。

まさかそれが、根本的な恵の忘れたいことだったのか。
忘れたくても忘れられないことだというのか。


そんな一郎を、雛は金属バットで殴打する。


最後は、殴り殺した一郎を家族三人で埋めるのだ。


仰向けに寝かせらた冷蔵庫の蓋を開け、手書きで「土の中」と書かれた白い紙をぺたりと貼り付け、そこに無理やり一郎の死体を押し込む。


「え?マジ?ほんとに殺しちゃったの?え?シュールすぎない?ちょっとまって、これで終わり?」と混乱してるうちに、終演した。

 

一郎を殺したことについても、恵は忘れてしまうにしても、雛は忘れられないし、これはまた負のループが始まってしまうんじゃないか?

 

正直、幕の下ろしかたとしては賛否両論やや否だ。
どういう気持ちで観ればいいのか最後でまったくわからなくなった。

まさかこの"わからなさ"まで含めて計算された演出なのか。

 

"忘れられない"という意味では、大成功かもしれない。

現に私は、1ヶ月経った今でもあの最後に冷蔵庫に死体を押し込むときの会話や、直後にそこから死体も起き上がって一礼する景色まで、鮮明に覚えている。

 


人の記憶はあてにならない。
恵は忘れてしまう病気になったが、病気ではないはずの私も日々いろんなことを忘れながら生きている。

だから、大切なことは忘れないように言葉にする。
私が感想を書くのも、忘れたくないからだ。

でも、それでも忘れてしまうこともたくさんあるからもどかしい。

そんな思いから公演のDVDや脚本がほしいのだが、加藤拓也さんはそれを許してくれない。
あくまで今そこにある「行為」としての演劇を観るしかない。その「行為」には、観る人のモーションやエモーションも含まれているのだと思う。


ここに書いたのは1ヶ月経っても忘れなかったこと、忘れたくなかったことだ。
もしかしたら、忘れてしまったけど大切なこともあったかもしれないが、それはもう誰にもわからない。


今日もわからないうちに、私は何かを感じて何かを忘れて生きていく。

 


だんだん謎ポエムになってきたので終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『絢爛とか爛漫とか』を観た感想とか勝大さんの話とか

 

8月31日(土) @DDD青山クロスシアター

『絢爛とか爛漫とか』
作:飯島早苗/演出:鈴木裕美

を観てきた。



きっかけは出演者の鈴木勝大さんだ。
勝大さんが出るからという理由で足を運ぶのは、2016年10月『露出狂』、2018年3月『岸 リトラル』、2018年11月『貴方なら生き残れるわ』に続いて四作品目である。

結論から言うと、めちゃめちゃ良かった。
何が良かったかと言うと、「舞台の勝大さんを観に来たファン」である私の気持ちがめちゃめちゃ満たされた。


だから、普通に感想をまとめようと思ったが、終わってみたらほとんど勝大さんのことしか覚えてなくて困った。


とにかく勝大さんを、鈴木勝大という役者を、その演技を、表情を、声を、動きを、余すことなく楽しむことができた…………そんな舞台だった。

 

 

物語の舞台は昭和初期。
登場するのは四人の男達だ。


小説を一本発表したきり、いっこうに二本目が書けず苦悩する小説家・古賀(安西慎太郎)。
ダンスやバイオリンを嗜むモダンボーイで批評家志望の泉(鈴木勝大)。
恋した女性をことごとくエログロ耽美な小説のモデルにしてしまう小説家・加藤(川原一馬)。
大雑把な性格で自由奔放な豪傑・猪岡(加治将樹)。


130分間、舞台に立つのはこの四人だけ。
四人の間で交わされる言葉が、向けられる表情が、揺れ動く感情が、この物語の肝である。


だから、この四人を演じる役者さんのファンの人は絶対に観に行った方がいい。
今までにない密度で、細かなディテールまで余すことなく役を、役者を、味わうことができる。


以下、どこからそう感じたかをつらつら書こうと思う。

 

 

・徹底した具象舞台

物語の舞台は、古賀の部屋だ。
畳で、奥の障子の向こうに縁側、さらに奥のガラス戸の向こうにはこじんまりとした庭が見える。

舞台上手には椅子と本棚。
下手には玄関やお勝手に続いているらしい襖がある。

小道具もすべてが具象物で、演劇的な"嘘"がない、見たまんまの世界で物語が展開する。


物語は春から始まり、夏、秋、冬と季節が移り変わって行くが、そのたびに室内に飾られている花や、庭先の景色が変化する。

 

今まで私が勝大さんを観た三作品は、すべて抽象舞台だった。
もちろん、具象が良くて抽象が悪いというわけではない。抽象舞台で、ひとつの空間がシーンによって様々な表情を見せるのも演劇の楽しみだと思う。むしろ個人的な好みだと抽象舞台の方が好きだ。

しかし、今回、徹底した具象舞台を観て思ったのは、「どこにも嘘がない見たまんまの世界だと、役者も一切嘘がつけない、見たまんまの姿になるな」ということである。
純度100%のその人としてそこにいる……とでも言ったらいいだろうか。


具象舞台は、すべてが本物だ。観客が自由に想像する余地がない分、すべてを見たままに受け止める。
だから、役者の演技に少しでも"嘘"があると気になってしまう。
今までは抽象舞台の方が役者の技術が求められると思っていたが、必ずしもそうでないことを知った。
(そういう意味では、今回の『絢爛とか爛漫とか』でひとつだけ気になったのは、鴨居が低かったことだ。おそらく当時の一般的な設計に忠実なのだろうが、スタイルの良い現代の役者たちは頭をぶつけそうで、気になってしまった。)

 

 

・細部までとにかくリアル

上の具象舞台にも関係するところだが、装置や小道具だけでなく、衣装や音響や照明も細部までこだわってリアルさが追求されていた。

たとえば衣装は、場面ごと、つまり季節が変わるごとに変わっていた。
夏には夏らしく、冬には冬らしく。家でくつろぐ格好なのか、それともよそ行きの晴れ着なのか。


照明も、季節によって明るさや角度が変わっていた。
とくに夏の日差しが斜めに差し込み、縁側の椅子の肘掛けが濃い影を落としているのがとても良かった。
他にも、昼間で窓を開けているのか、夜で室内の電灯なのかによっても明るさの質が変えてあって、どうしたらそんな照明になるのか、思わず灯体を見上げてしまったほどだ。


音響も、流れるのは基本的に環境音である。
音量や聞こえ方も部屋の中に聞こえてくる音としてあくまで自然で、たくさん音があってもうるさく聞こえない。
外を走り回る子どもの声、家の前に止まる車の音など、舞台上に見えていないところまで世界が広がっていることを感じさせるような、そんな音響だった。


音響も照明も「演劇らしく」ではなく、あくまで「自然に」作り込まれていて、とてもとても良かった。

 

 

・ていうか四人しか出てこないから出番も台詞量もすごい!

当たり前の話だが、ほんとにそうだったのだ。

そもそも、私が今までに観た勝大さんの舞台を思い返してみると、『絢爛とか爛漫とか』は出番も台詞量も段違いだ。

 

『露出狂』では、勝大さんはメインの登場人物だったので、出番はたくさんあった。だが、そもそもの登場人物の人数も多く、一人をじっくり見るという感じではなかった。(そんな中でも自然に勝大さんに目がいって「舞台の勝大さんすごいな!?」と思ったりもした。)


また、『岸 リトラル』では一人の役者が何役も演じていたため、「一人の人間」としてそこにいる感覚は希薄だった。


『貴方なら生き残れるわ』では、メインの登場人物ではなかった上に、登場人物も多かった。

 

だから私は圧倒された。
勝大さんが常に舞台上にいる。しかも四分の一だから、めちゃくちゃ集中して見ることができる。


会場が比較的小さかったというのもあるかもしれない。
今回たまたま席が前方だったこともあって、顔の皺や指先の動きまでばっちりしっかり見ることができた。


声も、マイクなどを通していない生の声だ。
しかも囁くような演技でもそのまましっかり耳に届く。

 


・ていうか勝大さんの良かったところの話していい?

いやまあ勝手にするんですけど…………

まず顔が綺麗すぎる。横を向いたときのおでこが綺麗。鼻の角度も芸術的に美しい。

指も綺麗すぎる。指先とか爪の形までまじまじと見たのは初めてかもしれない。綺麗すぎる。

あと腰が細すぎる。スーツ似合いすぎる。

煙草!バイオリン!ありがとうございます!

ねえ、いつの間にそんな微妙で絶妙な表情できるようになったの?
目の表情すごいし、聞く演技がめちゃうまい。
喋ってるときももちろん良いけど、黙ってるときの存在感が最高すぎる。
話を聞く勝大さんが良すぎて、肝心の話している人の言葉を聞き逃したところがある気がする。

 


・他の役者さんも良かったんですよ…………

自分が元々ファンだから、勝大さんにばかり目がいっていた部分もあるが、他の役者さんもこれを機にファンになりそうなくらい良かった。

みんな、そのまま、そこに、生きていた。

だから、冒頭にも書いたけど出演者のファンの人は絶対観に行った方がいいと思う。

ちなみに全員がおでこを出すヘアスタイルなので、おでこの美しさや顔の造形が引き立ってたいへん良かったです。

 


・全員のことが愛しくなるストーリー

ここまで全然話の内容に触れていなかったが、お話自体もとても面白かった。

中心となるのは、二作目が書けなくて悩む小説家・古賀だ。


構想はある、が、書き始めることができない。
自分は偉大な小説家だと思いたいが、実際は嫌になるほど凡人だ。
だから小説家をやめたいのにやめられない。
凡人だからこそ、すがりたくなる。


古賀の場合は小説だが、この自尊心と劣等感に苛まれる感覚は、いろいろな人に当てはまるのではないだろうか。


素直になれない古賀は、思ってもいないことを言ってしまったり、思ってても言えないことがあったりする。

でも、むしろこういうぐちゃぐちゃな気持ちに翻弄されているところが、いかにも「文学的」だなというような気もして面白い。

 

他の三人も、それぞれ「思うままを言ってしまったこと」「思ってもいないことを言ってしまったこと」「思ってるけど言えないこと」「自分でも何が言いたいかわからないこと」を抱えている。

その不器用さが、たまらなく愛しくなる。

 

四人でああだこうだと話し、悩み、笑いながら、最後には四人がそれぞれ自分の進むべき道を見つける。

もしかしたら四人が古賀の部屋に集うことは、もう二度とないかもしれない。

でも、たとえ離ればなれになったとしても、四人が相互に大きな影響を与えあいながら悩んで悶えて足掻いた日々を共にした事実は消えない。


……まあ、とか言いつつこれからも頻繁に会ったりするのかもな……なんて、思ったりもした。

 

 


以上が、私の『絢爛とか爛漫とか』を観た感想だ。

今回、あまりにも勝大さんばかり見てしまって、他の役者さんの表情やなんかを見れていないことを少し後悔しているので、機会があればまた観劇したい。

 

終わります。

 

 

私と『王様達のヴァイキング』

 

今日、大大大好きな漫画が最終回を迎えた。
週刊ビッグコミックスピリッツで連載されていた、『王様達のヴァイキング』という漫画だ。

描いているのは、さだやす先生。これが初めての本格的な長編作品だが、とてもそうは思えないほど漫画がめちゃめちゃ上手い。そしてストーリー監修には深見真先生が協力している。


どんな漫画かは、とりあえず1話を試し読みしてみてほしい。

 


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王様達のヴァイキング 1巻 さだやす・深見真 - 小学館eコミックストア|無料試し読み多数!マンガ読むならeコミ!

 

 

漫画めくるのダルいとか、声優さんが好きな人は、dtvでムービーコミックにもなってるので、そちらを観てもらうのもいいかもしれない。
ムービーコミックは漫画のコマが勝手に動くし、声がついてる。主人公の少年ハッカーはCV.小野賢章さん、エンジェル投資家はCV.関俊彦さんで、どちらもはまり役です。

 

予告編

https://youtu.be/O66gTpAKCj4

 

第一話

https://youtu.be/PK1fN3W3BR4

 

 

 

 

 

でも、今日は布教をしたいわけではない。
いや布教もしたいけど、今はそれどころじゃない。
今はとにかく最終回を迎えてぐちゃぐちゃになったこの気持ちをなんとかしたい。

 

こんな書き方をすると、最終回が衝撃的だったみたいだが、めちゃめちゃ良かったんだ……。本当にめちゃめちゃ良かった……良すぎて衝撃的だった……。
最終章突入が発表されてから今日までの10ヶ月余り、この日が来るのがこわくてこわくて仕方なかったが、こんなに幸せなことがあっていいのかと思うほどのハッピーエンドだった。幸せすぎてこわいぐらい。

 

上の試し読みで1話を読んでくれた人はわかると思うが、主人公の是枝くんはとても不器用な少年だ。
自分のやりたいことがわからず、自分に何ができるかも知らず、生きづらさに喘ぎながらクラッキングを繰り返している。
そんな是枝くんが、エンジェル投資家・坂井さんに見出だされ、自分の能力を人の役に立ててお金に換える経験を通じて、成長していくのがこの物語の軸だ。

この是枝くんの成長がものすごい。
人と上手く関わることができず「PCが僕の全てなんです」と言い切っていた少年が、PCを通じて人と関わることができるようになっていく。

是枝くんは確かに"天才ハッカー"だが、是枝くんのような人間は現実世界にもたくさんいると思う。
自分で自分のしたいことやできることがわからずに、わからないこともわからないままに足掻くしかない。
自分の好きなもの・一生懸命になるものが他人に理解されない。
あるいは、周囲に理解されず、傷ついた心を何かにのめり込むことで癒そうとする。
自分はただ、"自分自身"になりたいだけ、"自分自身"でありたいだけの、そんな人間は、この世界にたくさんいると思う。


そこに現れる天使が、坂井さんだ。
坂井さんは、孤独な魂を見つけ、そこに潜んだ欲望を引き出し、そして広い世界へと連れていってくれる。


坂井さんのすごいところは、是枝くんを否定しないところだ。

もちろん、ダメなものはダメだとはっきり言う。
でも、是枝くん自身が何を考えているのか、どうしたいのかを、いつでもちゃんと聞いてくれるのだ。


共感はできなくても、理解しようとしてくれる。
きちんと、自分の言葉に最後まで耳を傾けてくれる。


是枝くんが求めていた"大人"は、きっと坂井さんのような人だ。
"子ども"に一番必要な存在と言ってもいいかもしれない。

 

そして、坂井さんが否定しなかったもので一番重要なのは、是枝くんとPCの関係だと思う。


是枝くんは、PCがあれば無敵だが、PCがないと何もできない。

これは完全に妄想だが、おそらくこれまでに是枝くんに関わってきた人は、そんな彼のことを思って、「"PCなしで"生きていけるように」と働きかけてきたのではないかと思う。
そして是枝くん自身も「"PCなしで"社会生活を送らなきゃ」と無意識に思っていたのだと思う。
それは確かに必要なことかもしれないが、でも、それだけが本当に正しい生き方なのだろうか。

坂井さんは、是枝くんに「PCと共に自分も生きる」、そんな道を提案してくれた。そして、それを実現に導いてくれた。

「"PCなしで"世界と繋がる」のではなく、「"PCで"世界と繋がる」。
このことが、是枝くんを自由にし、是枝くんを"是枝一希"にしてくれた。

 


さまざまな事件を解決し、多くの人と関わる中で、是枝くんは自信をつけ、自己肯定感を育み、自分自身と向き合っていく。
自分は何ができて、何がしたいのか、言葉にできるようになるし、形にできるようにもなる。


坂井さん自身が常に欲望を形にし続けて生きてきた人だということも大きいだろう。
"子ども"は身近な"大人"を見て育つ。

 


個人的な話をする。

王様達のヴァイキング』に出会った当初、私はまだ学生だった。
将来、何になりたいかもわからず、ただ漠然と大学生活を送っていた、どちらかというと是枝くん側の人間だった。

もちろん私には是枝くんのような天才的な能力はない。
だから余計に、自分は何ができて何がしたいんだろうともやもやした時期もあった。


時は流れ、私は今、子どもに関わる仕事をしている。
いつの間にか、どちらかというと坂井さん側の立場になっていた。


この立場になってから改めて『王様達のヴァイキング』を読むと、坂井さんの是枝くんに対する姿勢はある種の模範解答に近いなと感じるようになった。

寄り添う。否定しない。最後まで話を聞く。
本当に大切なことは、本人が自分で言葉にして口に出せるようにする。

時には無邪気にはしゃぎ、時には冷静に判断し、いつだって自分自身を見つめ直すことを忘れない。

坂井さんのような"大人"として、"子ども"のそばにいれたらいいなと思う。
"子ども"に限った話でなく、相手が部下などでも同じだろう。

 

そして私がこの仕事をしていてつくづく思うのは、「自分のしたことがどう相手のためになるか、本当のところはわからない」ということだ。

普通の会社なら売上のように目に見える形で結果が出ることもあるだろうが、この仕事だとそうはいかない。

結果が出るのは一年後かもしれないし、十年後かもしれないし、永遠に出ないかもしれない。

それが良い結果といえるのか、それとも悪い結果なのかも、本当のところはたぶん誰にもわからない。

ただ、そんな中で、今、一番良いと思える道を常に模索し続けるしかない。
少しでも、その子のためになるように考え続けることが、最善だと信じるしかない。

 

 


王様達のヴァイキング』の話に戻るが、是枝くんを育てた坂井さんも、同じようなことを考えたのではないだろうか。

坂井さんは今までにたくさんの人たちに様々な投資をしてきただろう。

でも、そんな中でも是枝くんのような存在は、きっと坂井さんの中でも初めてで、特別だったのではないかと思う。


これも私が仕事をする中で聞いた話だが、人と人は"鏡"だ。
向き合うことで、相互に作用する何かがある。


是枝くんとって坂井さんが特別な存在であるように、坂井さんにとってもまた是枝くんは特別な存在であったはずだ。

 

そんな是枝くんは、坂井さんの庇護のもと、大きく育ち、自分の足で真っ直ぐ立って歩けるようになった。
自分の気持ちをしっかり伝え、自分のやりたいことを形にできる、立派な"大人"になった。

 

そんなとき、坂井さんは考えたのではないだろうか。
「自分のしたことが本当に彼にとって良かったのかはわからないが、自分は是枝と関われて良かった」と。

だから、坂井さんは是枝くんの前から姿を消した。

自分の知らないところで、自分の撒いた種が花開くのは、大きな幸せだ。

「もうあいつに俺は必要ない。俺は、俺のいないところで羽ばたくあいつを見てみたい」

 

最終回のラストシーン、姿を消した坂井さんのもとに、再び是枝くんが現れる。

あの日、古びたレンタルビデオ屋で、坂井さんが是枝くんを見つけたように、今度は是枝くんが坂井さんを見つけ出す。


そして言うのだ。

かつて、坂井さんが是枝くんに言った台詞を。
今度は、是枝くんが坂井さんに言い返すのだ。

 


こんなに幸せなことがあるだろうか。
自分の育てた"子ども"が、今度は一人の"大人"として、自分に真っ向から向かってくる。
こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

 

 

1巻の1話が、最終巻の最終話で改めて響く。
選んだ先にあるものがどんなものかはわからないけれど、でも、選ぶという行為がまずは大切で、選んだものを信じた先にはきっと何かがある。
それはきっと自分次第で、自分で自分の道を切り開いていくしかないのだ。

 

 

こんなに面白い漫画があっていいのだろうか。

 


大好きな漫画が終わってしまうのは寂しい。
でも、これは終わりではなく、新たな航海の始まりだ。


私にとっても、彼らにとっても。

 

 

 

夢中で書いていたら日付が変わって「今日」じゃなくなってしまった。

でも、昨日の続きに今日があって、今日の続きに明日があって、その中で私も彼らも生きていくのだと思う。

 

王様達のヴァイキング』は本当に最高の漫画です。ありがとう。

 

 

夢の記録をつけることに関する考察

数年前から夢日記をつけている。
この場合の「夢」は、寝ているときに見る夢のことだ。
「日記」といっても毎日詳細に記録しているわけではなく、印象的な夢のときだけ、スマホのメモにちょこちょこっと打ち込む程度である。
起きても覚えてるくらい印象的な夢は、ストーリー性に富んでいて映画のようだったり、漫画やアニメのキャラクターが現実の知り合いのように登場したり、意味不明な恐ろしいことが起きたり、ちょっと性的だったりするような、そんな夢だ。

寝起きのぼんやりした状態で曖昧な記憶を頼りに書くので、あとから読み返すと意味不明な単語の羅列ということも珍しくない。
今でもはっきりと夢の中の光景を思い出せるメモもあれば、すっかり忘れていて何のことやらわからないメモもある。


私が夢日記をつけ始めたのは、単純に面白い夢を記録しておきたかったからだ。
そして実際、自分のつけた夢日記を読むのはとても面白い。


夢日記をつけることに関するメリット・デメリットはいろいろあるらしいが、「気が狂う」とか「明晰夢が見れるようになる」とか、そういうことに関する実感はない。


ただ、思ってもみないところで、「もしかしてこれは、夢日記をつけているからか?」と思うことがある。

 

それは、ライブのMCの覚え書きができるようになったことだ。

 

大学生の頃から、年間20~30本のライブに足を運んでいるが、いわゆるライブレポのようなものを書くのはあまり得意ではなかった。
興奮のせいか、セットリストもMCも全然覚えていられなくて、後から他の人の書いたレポを読んでやっと「そうそう、こんなこともあった」と思い出すくらいだった。


それが、いつの頃からか自分でMCレポができるようになった。


ライブ中にスマホを弄ったりメモをとったりはもちろんしないので、書くのはライブ終了後だ。

ライブハウスを出てから、まずは覚えている範囲でスマホのメモあるいはTwitterにMCを書き出していく。
順番は気にせず、とにかく覚えているところ……というか、覚えておきたいような可愛かったり面白かったりした言動からどんどん書き出す。
そうすると最初は断片的な記憶しかないが、書いているうちにだんだん思い出してきて、細かいやり取りが蘇ってくる。


この作業が、夢日記をつけるときに似てるなと思うのだ。
ちょっと前にある友人から「どうしてこんなにMC覚えていられるの?」と聞かれて、そう思った。

もしかしたら夢の記録をつけることで、曖昧な記憶をたどっていく力が鍛えられたのかもしれない。


元々MCレポを始めたのも、ライブに来れなかった友人のためだ。
だから、夢日記もMC記録も、「残したい」「伝えたい」という思いが根本にある。

そして、MCをどこかに文章で残しておくと、より印象に残るからか、実際に見た景色も忘れづらくなる気がして、最近は意識してライブ終了直後にメモを残している。


ただ、夢と同じで、直後に言葉にしておかないと忘れてしまう。

まあ、ライブも夢みたいなもんだしな……とも思う。


何にせよ言葉にしておくことは大事だし、楽しいから、夢を記憶するためにも夢の記録は続けようと思った。


ということを、言葉にして記録しておこうと思って書いた。


記憶力を鍛えたい人は、夢日記をつけてみるのもいいかもしれない。

 

ちなみに最近の私の夢日記はこんな感じ。
一行目が勝手にタイトルになるんだけど、すでに意味不明で、中を見るまで何も思い出せないのが面白い。

 


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今、全人類に忍ミュ第10弾を観てほしい理由

 

忍ミュ第10弾がヤバい。

"忍ミュ"とは、『忍たま乱太郎』のミュージカルだ。


私が忍ミュを初めて観たのは第4弾初演。
それから今まで毎年観劇を続けており、つい先日、第10弾を観に行ったのだが、これが!もう!はちゃめちゃに面白かった!!!!
忍たまが好きで、忍ミュが好きで良かった……という気持ちになったし、今まで忍たまや忍ミュにあまり触れたことがない人も是非観てほしいと思ったので、勝手にプレゼンしたいと思う。

 

忍たま乱太郎』を知らない人はいないだろうが、忍ミュを知っている人はごく一部かもしれない。
忍たまのミュージカル」というと、子ども向けの着ぐるみショーを思い浮かべるかも人もいるかもしれないが、それともまた違う。

忍ミュは、大きなおともだち向けの、いわゆる"2.5次元ミュージカル"だ。
メインは6年生をはじめとした上級生たちで、歌ありギャグあり殺陣ありのオリジナルストーリーが展開される。
2010年の第一弾初演から、毎年冬ごろに初演、夏ごろに再演というペースで今日まで10年間毎年欠かさず上演が続いてきた。
そして、2019年5月、ついに第10弾初演の幕が上がった。

 

 

第10弾のおすすめポイント①
「ストーリーがわかりやすく、面白い」

忍ミュは、一話完結のミュージカルオリジナルストーリーだ。
だから前作を観てなくても、忍たまをよく知らなくても全く問題ない。

今回の忍ミュ第10弾のあらすじを簡潔に説明すると、「忍術学園の大運動会に、学園長の命を狙う暗殺者が紛れ込む話」である。

今までの忍ミュだと、新たな登場人物が敵か味方かわからなかったり、敵の本当の思惑がわからなかったりするまま話が進んでいくことが多かった。
その点、今回の忍ミュでは、全員の目的が最初からはっきりしている。

運動会で一番になりたい忍たまたち。
運動会の混乱に乗じて忍術学園の乗っ取りを狙うドクタケ忍者たち。
そして、運動会の混乱に乗じて学園長の命を狙う暗殺者たち。

ドクタケ忍者たちの目的がややぼんやりしているようにも思えるが、彼らは今回完全にギャグパートなので、ストーリーに支障はない。

だから、登場人物も場面転換も多いのだが、「あれ?今これ何の話だっけ?」と迷子になることなく、ずっと集中して観ることができるのだ。

しかも、話がめちゃめちゃ面白い。
運動会の競技の様子も面白いし、暗殺者との攻防戦も面白い。
さらに実際に舞台上で行われる競技によって得点が決まる場面もあるので、どうやら日によって総合点や優勝チームが違うらしい。

 

 

第10弾のおすすめポイント②
「ギャグとシリアス、歌と殺陣のバランスがいい」

今までの忍ミュはギャグもありつつ、ややシリアスの割合が高い印象だったが、それと比べると今回はかなりギャグが多い。
そもそものベースが「忍術学園の大運動会」である。この時点で基本は気楽に楽しめるエンタメなのだ。
しかも、前述の通り全員の目的がはっきりしているので、ギャグパートでも話が脱線することなく、素直に楽しく観ることができる。

一方、ストーリーの軸となるのは「学園長の命を狙う暗殺者が紛れ込む」ことだ。
敵役がへっぽこおとぼけ忍者であることも多い忍たまだが、今回の敵役はガチで"デキる"暗殺者たちである。
彼らが出てくると、話が一気に引き締まる。
しかし、やはり基本はエンタメなので、シリアスに傾きすぎることはない。


また、運動会の中では仲間との絆も描かれる。
同級生同士の絆、先輩後輩の絆など、思わずほろりとしてしまうような場面もある。


この全体のバランスが絶妙すぎた。
個人的には、原作やアニメのバランスにかなり近いと感じた。


また、ミュージカルなのであらゆる場面で突然歌ったり踊ったりし始める。
ストーリーの中のどの部分を歌で、どの部分をダンスで表現するかのバランスも良かった。
ミュージカルだと時折とても大切な台詞が歌にのせられているせいで聞き取れなくてストーリーがわからなくなってしまう悲しい事故が起こるが、そんなことも一切なく、しかも曲も全てとても好みで嬉しかった。

さらに、忍ミュは殺陣(バトルシーン)があるのだが、この殺陣も長すぎず短すぎず、全員に見せ場があって、このバランスもたいへん良いと感じた。

ちなみに忍たま達には皆それぞれ得意の武器がある。
刀での殺陣だけでなく、槍や苦無(クナイ)、縄錘(じょうひょう、縄の先に重りがついた武器)や、フンドシなどでのアクロバットな殺陣は観ていてとても面白い。
これも忍ミュならではの楽しみだ。

余談だが、忍ミュにはJAE(ジャパンアクションエンタープライズ)所属の方も毎回たくさん出演されている。特撮などで活躍する、アクション・スタントのプロフェッショナルだ。
だから山田先生やドクタケ忍者達の殺陣は本当にすごい。めちゃめちゃかっこいい。一見の価値ありだと思う。

 

 

第10弾のおすすめポイント③
「最後はめでたしバンバンザイ」

これは第10弾のというか忍ミュ全てのおすすめポイントなのだが、最後は必ずハッピーエンドである。

どんなにシリアスな展開であろうが、必ず「今日も色々あったけど 最後はめでたしバンバンザイ♪」と歌って踊って終わるのだ。
だから安心感がすごい。これぞエンタメだと思う。

 


第10弾のおすすめポイント④
「俳優さんが良い意味ではじけている」

歌って踊るミュージカルには、一糸乱れぬダンスやハーモニーを売りにしているミュージカルも多いと思うが、忍ミュはどちらかというと同じ振付でもキャラによる個性が重んじられており、その差異を楽しむタイプだ。

だからそれぞれがそれぞれに「そのキャラらしい動き」をしていて面白い。

また個人的には2.5次元舞台をはじめとしたメディアミックスの楽しみは他者の解釈に触れられることだと思うので、「あ~、この人にとってのこのキャラはこういう感じなんだな」とか「それわかる」となるのがめちゃめちゃ楽しい。

そして実は一番の見所は先生・ドクタケ・敵忍者のはじけっぷりかもしれない。
ベテランの役者さん達のアドリブやギャグは、原作のイメージや舞台の雰囲気を壊さないギリギリのところを攻めながら、若手にもやりやすい空気を作っているように思える。
何より本人が楽しみながらやっているのが伝わってきて、観ていてとても楽しい。

というわけで、衣装やメイクで見た目は最初から完全にキャラなのだが、そのキャラをどう表現するかはかなり役者の手に委ねられているので、役者さんのファンの人が観ても面白いと思う。

 

 

本当はもっといろいろあるような気がするが、結局上手くまとめられなかった。

とにかく忍ミュは最高だから、観てほしい……。
東京の平日公演や、大阪公演、名古屋公演ならまだチケットあるようなので観てほしい……。
今まで忍たまや忍ミュ、2.5次元ミュージカルを観たことがない人も楽しめるのではないかと思う……。
また、過去に忍ミュを観たことがあって「なんか違うな」と思った人にこそ観てほしい気もする。

 

決して安くはないので機会があれば……機会があればでいいので…………どうかよろしくお願いいたします……。