エモーショナルの向こう側

思いの丈をぶつけに来ます

2020年観たもの行ったものまとめ


あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします!

 

2020年は、思ったようにならないことも多い一年だったけど、そんな世の中だからこそエンタメに支えられたなとしみじみ思う。

というわけで、一年間、私を支えてくれたものまとめ!

 

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ライブ参戦記録 (●現地 ○配信)

●0101*NEW year NEW year NEW year@東京
●0118*sukida dramas@京都
●0211*DJ後藤まりこ@名古屋
●0216*みそっかす@名古屋
○0724*9mm Parabellum Bullet
○0905*ストレイテナー
○1115*Nothing's Carved In Stone
○1122*9mm Parabellum Bullet
●1206*sukida dramas
○1207*ヒトリエ
○1224*ストレイテナー(1217配信)
●1230*中川智貴/イトウTHEキャンプ弾き語り

(現地6本+配信6本=計12本)


今年一番行けなくてつらかったのがライブだった。
9mmのツアーもヒトリエのツアーも、複数公演チケット取ってたのに全部なくなってしまったし、cinema staffのフェスも京都大作戦も中津川ソーラー武道館もメリロも行けなかったし、本当につらかった。

でも、そんな中でも配信ライブをやってくれるバンド達のおかげで、何とか生き延びることができた。
遠方でも配信なら観れるから、これからも同時配信が当たり前になってくれないかな〜とも思う。

その一方で、たくさんある配信を全部観るのも難しくて、見逃して泣いたり、観られない自分を責めたりもしてしまった。
とくにヒトリエと9mmは結構観れてない配信あるのが辛かった……。しかも9mmは有料チケット取ったのに配信期間内に観るの忘れてしまったし…………アーカイブあると変な安心をしちゃうから、やっぱりリアルタイムで観るのが一番だよな〜〜〜〜。
現地に行くライブなら日程合わなければすっぱり諦められるけど、配信だと全部観ることも可能だからこそ、ちゃんと観てないとファン失格なような気がして、でも平日夜に2時間しっかり画面と向き合う時間を取るのは難しいこともあって、このへんは上手い付き合い方を模索していきたい。

12月、久しぶりにライブハウスに行った。
ステージで大きな音を鳴らすsukida dramasは本当に楽しそうで、私も本当に楽しくて、やっぱりバンドもライブハウスも大好きだなと思った。
ライブ納めは、青木カズローさんの写真展での弾き語り。
sukida dramaボーカル中川智貴さんと、イトウTHEキャンプさんの弾き語りを観たんだけど、バンドのときとはまた違った良さがあって、弾き語りももっと聞きたいなと思った。
イトウTHEキャンプさんが、sukida dramasのKansasやってくれたのも嬉しかったな〜!
中川智貴さんの弾き語りは7年ぶりくらいに観たけど、曲ほとんどオリジナルぽかったし、歌詞が超良かったから、音源がほしい…………そしてもっと弾き語りもやってください……。
そんなこんなで、いろいろあった一年だったけど、最後に大好きな人たちに会えて、四捨五入で最高だった!!!!!!!好き!!!!!!!!!!

 

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観劇記録 (●現地 ○配信)

●0223*劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』@埼玉
○0418*劇団た組Skype公演『要、不急、無意味(フィクション)』
○0507*劇団年一『肌の記録』
○0824*異郷を羽織る
○0920*中野劇団『家族会議』
○0921*MISHIMA 2020『橋づくし』
○0921*MISHIMA 2020『(死なない)憂国
○0926*MISHIMA 2020『真夏の死』(『summer remind』)
○0926*MISHIMA2020『班女』近代能楽集より
●1011*加藤拓也『たむらさん』@東京 新国立劇場小劇場
●1114*忍ミュ第11弾 @春日井
●1128*下鴨車窓『散乱マリン』@三重
◯1130*安住の地『やきいもの や!はやさしいの や!』(1128配信)
●1201*劇団た組『私は私の家を焼くだけ』@東京 原宿
●1205*ハイバイ『投げられやすい石』@三重
●1227*会えない無人駅@東京 築地

(現地7本+配信9本=計16本)


観劇に関して言えば、配信のおかげで例年と同じかそれ以上の本数観ることができた。
配信公演や、過去公演の無料公開をしてくれた劇団の方々に感謝しかない。
一番観たのは加藤拓也作品。この世の中を逆手に取って、4月から立ち止まることなくずっと創作活動を続けてくださったことが本当に嬉しいし、有り難い。そして全部すごく面白くて、もう「一生ついていきます!」みたいな気持ちになった。
自身が高校演劇に関わる中でも思ったけど、現実の情勢を上手く織り込んで、困難さを面白さに変えて、前に進んでいく力が必要だし、演劇はそれができるコンテンツだから、頑張りたい。
映像としての演劇の新しい可能性を感じたのは、『(死なない)憂国』かな。作・演出は、映画監督の長久允さん。演劇のライブ感と映像ならではのズームアップやカメラワークが合わさって、画面越しにもエネルギーが迸っていてすごかった。むしろ小さな画面で観ているからこそ、収まりきらずに溢れ出す何かがあって、自分の中身も揺さぶられて、すごく面白かった。円盤にならないの勿体ないな……でも普通の演劇は一回きりだから、そういうところも含めてのLIVEなのかな……。
演劇×映像配信は、まだまだいろんな可能性がある気がするから、これはこれで発展していってほしいなと思う。

 

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プロ野球

0201*西武春期キャンプ@宮崎
0202*西武春期キャンプ@宮崎


あ〜〜〜〜〜〜メラドでの開幕戦のチケット持ってたのに!!!!!まさかシーズン開幕しないとは!!!!!!!
このときは中国で未知の感染症が出たらしいみたいな話が囁かれ始めたときで、でもそれがこんなに大変なことになるなんて思ってなくて、呑気に開幕を楽しみにしていた。
人生初のキャンプは本当に楽しくて、やっぱり西武ちゃんも野球も大好きだなと思った。
結局、2020年は現地観戦できなかったけど、試合は毎日パテレで観てた。今季の西武は苦戦を強いられていて、好意的に捉えれば、それだけ西武の選手たちにとってファンの声援が力になってたのかな〜と思ったり。チャンテ4流れてれば入った点とかあったでしょ、絶対!
2021年はどうなるんだろうな…………現地で青炎送りたいな…………。
何はともあれ、推し各位〜〜〜〜〜〜〜!!!!
一年間、怪我なく元気に躍動してください!!!!!!

 

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映画鑑賞記録(●劇場 ○テレビ放映)

●0101*この世界のさらにいくつもの片隅に
●0102*the upside 最強のふたり
●0102*午前0時、キスしに来てよ
○0110*ジュマンジ
●0125*フォードVSフェラーリ
●0222*1917
●0222*パラサイト 半地下の家族
●1018*海辺のエトランゼ
●1022*窮鼠はチーズの夢を見る
●1024*TENET
●1025*TENET(2回目)
●1031*TENET/4DX
●1121*羅小黒戦記
●1123*羅小黒戦記4DX
●1206*佐々木、イン、マイマイ

(劇場14本+テレビ放映1本=計15本)


3月までは、最寄り映画館まで車で3時間(最寄りとは?)の地域に住んでいたので、帰省や遠征のついでにまとめて映画を観ていた。
今年転勤になって、映画館にも気軽に行ける距離になったのがとても嬉しい。
夏頃はなかなか新作の公開もなかったから映画館行ってなかったんだけど、仕事終わりに平日レイトショーとかも行けるんじゃんと気がついた10月頃から行きまくってるのがよくわかる。

どれもすごく面白かったけど、とくに印象的なのは『フォードvsフェラーリ』と『TENET』かな。
とくに『TENET』は一回じゃ訳が分からなくて何回も観に行った。複数回観ても結局わからーーーーーん!けど楽しい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ってなったけど。あとパンフが超充実してて良かった。
そういえば『佐々木、イン、マイマイン』は藤原季節さんが主演だったから観に行ったけど、映画なのに演劇みたいで不思議だった。これも二回目観たらまた変わりそうだなと思ったけど、あんまり近くでやってなくて一回しか観れてないのが心残り。

2021年は『さんかく窓の外側は夜』とか『キングスマン:ファーストエージェント』とかの公開が控えてるから、楽しみ!
あっ、あと今やってる『ワンダーウーマン1984』も観たい!

 


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以上、一年間、私を支えてくれたものまとめ終わり!

今年の春から夏にかけては、延期に中止に自粛自粛自粛……って感じで落ち込んでたけど、秋から冬にかけては少しずついろいろ動き出して、私もそうしたものを楽しむ余裕かできて、最終的にはそれなりに悪くない年だった気がする。

舞台とプロ野球キャンプに関しては感想をブログにまとめてるので、気が向いたらそちらもどうぞ。


2021年もいっぱい観て、いっぱい書いて、楽しい一年にしたい!!!!!!!!

 

 

ハイバイ『投げられやすい石』を観た体験記のようなもの

12月5日(土) @三重県文化会館小ホール
ハイバイ『投げられやすい石』
作・演出:岩井秀人


を観てから気がついたら一ヶ月が経とうとしている。
ていうかあと数時間で今年が終わる。ヤバい。


よくわからない感情でぐちゃぐちゃになって、なんとか咀嚼したいなと思っていたんだけど、結局上手く飲み込めないまま年の瀬になってしまった。

スマホの中には観終わった直後から書き溜めた断片的なメモが溢れていて、これをどうまとめたらいいかもう全然わからないので、諦めてこのまま載せることにする。

結局また、レポでも感想でもないただの自分語り。
ネタバレとか気にせず、思いつくままに書いてる。

 


三重県文化会館小ホールを訪れるのは一週間ぶり。
先週は下鴨車窓を観に来た。

でも、同じホールなのに舞台の組み方が全然違ってびっくりした。


下鴨車窓の『散乱マリン』では、両側に袖幕があり、天井の高さが強調されていた。
一段上がったステージ上と、少し凹んだ芝生のスペース。そこにバラバラになった自転車が積み上げられていた。


ハイバイの『投げられやすい石』は、袖幕はなく、舞台脇の照明機材も全部丸見えだ。
一段高くステージが組まれているのは下鴨車窓と同じ。
舞台後方に大きな写真パネル。これが書割のような役割をしていた。
舞台上には、無造作に散りばめられたベンチや雑誌。そして、上手側の隅には、丸い小さな石がいくつも置いてある。


開演時間になり、舞台後方の幕を割って、男が一人現れた。
個性的な服を着た男は観客に向かって前説を始める。

「ご来場ありがとうございます。こういう時期なので、上演中に飲み物を飲んだり、飴を舐めたりしていただいて構いません。ただ、時々いるじゃないですか、飴の袋を、こう、ピリ……ピリ……って開ける人。あれ意外と気になるので、飴の袋を開けるときにはビリッと!ひと思いに!お願いいたします」

こんなことを言いながら、倒れていたベンチを起こして並べる。


女も出てきて、ベンチに座る。


そしてそのまま、本編が始まった。


出演する役者が出てきて喋って、そのままシームレスに芝居に移行するのは、最近の劇団た組でよく観た方法だけど、もしかしたら劇団た組の方がハイバイの手法を真似ていたのかもしれない。
どちらが先かはわからないけど、どちらにしても私はこういう演出がとても好き。

 

「天才」の佐藤と、「凡人」の山田。
佐藤は山田の才能を認めているが、山田は自分自身に才能があるなんてとても思えない。

周囲からも認められ、順風満帆の佐藤。
しかし、佐藤はある日突然、姿を消す。
佐藤の恋人の美紀は佐藤の失踪を機に心身のバランスを崩し、山田は山田で佐藤のことを思いながらも、美紀と寝て、まあそういう意味で寝て、まあそういうことになる。


そして2年後、山田が佐藤に呼び出され、物語が動き出す。

この頃にはベンチは、美紀に引きずられ、山田に組み立てられ、椅子になったりコンビニのラックになったりしていた。

山田は山田で、話しながら服を着替えていたりして、そういう場転がすごく面白かった。

 

2年後、佐藤は変わり果てた姿で現れる。

明らかに目つきがおかしいし、顔色も悪いし、服装もなんだかちぐはぐで、関わったらいけない空気が漂っていて、山田もできれば関わり合いになりたくないなと思ってしまうけど、佐藤はガンガン絡んでくるから、逃げることもできない。

でも、明らかに様子がおかしい。
それでいて小脇にキャンバスらしき黒い袋を抱えているのが、尚更おそろしい。

 

佐藤は山田に尋ねる。

「最近、描いてるか?」

山田は曖昧な返事しかできない。

 

なんだかこのあたりからずっと、私は「助けてくれ」みたいな気持ちでいっぱいだった。
明らかに様子がおかしい人間がずっと目の前にいるのがしんどい。
山田がしんどそうだから、余計にしんどい。
そしておそらく最近は全く描いてない山田が「描いてる」と答えるのもしんどい。
自分に言われてるわけじゃないのに、私は創作というほどの創作をしてるわけでもないのに、なんだか無性にしんどくて、逃げ出したくてたまらなかった。

 


山田と話していた佐藤が突然「これ知ってるか?」と、落ちていた石を掴む。
そしてそれを放り投げるのだが、なんだか意味のわからない動きでやる。

「え、何それ!?」と驚く山田。
佐藤曰く、右手で投げようとするぎりぎりで左手に持ち替えて投げるらしい。

説明を聞いても意味がわからないし、何が正解かも全くわからない。

でも、佐藤は夢中でそれをやる。
山田も佐藤に教えてもらいながら、夢中で石を投げる。


奇妙に身体をくねらす二人の男。
うまく飛ばずに散らばる石ころ。

止まった車から流れ出す音楽が二人を包む。
明らかにおかしいのに、なんだか可笑しくて、笑うのと泣くのの間みたいな不思議な感覚だった。

ゲラゲラ笑ってる二人を見ながら、なぜ自分は泣きそうなのかよくわからなくて、とにかく一生懸命に何かをやる様子っていうのは問答無用でぐっとくるんだなと思ったりした。
その行為に意味があるとか、ないとか、そんなのはたぶんどうでもよくて、一生懸命に、それをしてることが、たぶん大事で、佐藤はたぶん何に対しても一生懸命すぎるほど一生懸命でそれがこわくて、山田は山田で一生懸命になれることが今はないように見えて、そんな二人が一生懸命に石を投げているのが、なんだか、すごく、切なくて愛しくて、ぐちゃぐちゃになった。

 

 

 

創作活動をする人には狂気が必要な気がするけど本当に狂いきってしまったら作品なんて作れないような気もするし、でも創作活動してる時点で狂ってるような気もする。

どんなに下手でも書いてる奴のほうが偉いのは確かで、でも自分に才能がないことを知りながら書き続けるのはしんどくて……


芸術家というのは、石を投げられやすい存在なのか?

「投げられやすい石」って、「投げられやすい」は「石」にかかる修飾語だと思ってたけど、もしかして違うのか?

「投げられやすい、石」なのか?

 


書いてない人の方がたぶん世の中にはたくさんいるのに、書いてないことに罪悪感があるのは何故だろう。
書かないことは罪ではないのに。誰にも迷惑かけてないのに。

書かないことは罪なのか?

聖書の一節に、罪を犯したことのないものだけが石を投げなさいと言うと、誰も石を投げなくなったという有名なエピソードがある。
これは皆が自分の中にある罪を自覚し、恥じての行動だけど、書かないことが罪であるなら、書くのをやめたやつはもう二度と創作に身を投じることができないのか?

「石を投げる」というのが作品を作ることであったら?
才能のあるものだけが作品を作りなさいと言うと、誰も作品を作らなくなるのか?
他人に石を投げられてでも書きたいという強い気持ちがあるものだけが芸術家だと言うと、誰も作品を作らなくなるのか?


実際は、悩みながら迷いながら書き続けるしかないんじゃないか?

 

ていうかこの、何かを書かないと誰にも認められない、自分で自分を認めてあげられない感覚って何なんだろう?

 

私は舞台を観たら出来るだけ感想を書くことにしてる。
誰に求められてるわけでもないけど、書かないとなんとなくもやもやする。
なぜか「書かなきゃ書かなきゃ」みたいな気持ちがあって、それが「まあいっか」になるにはわりとそれなりに時間がかかる。
このブログにあげてなくても、Twitterで呟いたり、同行者と語り合ったり、とにかく何らかの形でアウトプットしないと落ち着かない。
長文感想をブログに載せるか、Twitterで感想ツイートを呟くかには自分なりの基準があって、それは観終わった時点で「これはブログ書かねば〜」みたいな気持ちになる。
書きたいという意志と、書かねばという義務感が半々くらい。


感想以外の創作物も書いてないわけじゃないんだけど、書いてるってほどは書いてなくて、私はいったい何者なんだというような気もする。
小説家でも脚本家でも評論家でもない一般人だけど、小説も戯曲も観劇感想も書く。全く書いてない人と、一度でも書いたことがある人間は何かが違う気がするけど、一度書いたことがあるからと言って人生が大きく変わるわけでもないし、良いものが書けているかは全くわからない。
自分が書くおたくだったからか、昔から今まで周りにはずっと書いてる人間がいるけど、でも、大人になってからもずっと創作活動を続けている人は実は意外と少ないんじゃないかと気がついたのは割と最近の話。でも、少ないといいつつ確実にいるよなと思ったのも最近の話。
書かないと何者かになれないような気がしているけど、書いたところで何者になりたいのかはよくわからない。


自分に才能がないのは、自分が一番よくわかっていて、でも私が書かなきゃ誰が書くんだというような気もするから書いてて、書く苦しみと書く楽しさと書いたものへの愛着はまた全然別の話で、あと自分が小説書いてることとか誰にもバレたくなくて、でも書いたからには読んでほしいとも思っていて、でもこれでお金が取れるとかは全く思ってなくて、自意識と欲望と承認欲求と自己嫌悪と、その他もろもろでよくわからなくて、


狂ってるから、かくのか?
かくから、狂うのか?

 

 

舞台上の人間は全員が必死だった。
面白いとか面白くないとか、そういうのはもうよくわからなくて、必死な人間が必死になにかと戦い続けているから、必死で見守るしかなかったし、見ている私は私で身を守らないと死にそうだった。

 


ラスト、佐藤は死ぬ。
狂った絵を残し、美紀の歌を聞きながら、山田の目の前で、店員の姿をした死神に連れて行かれる。

美紀は泣きながら歌いきり、山田はただ、それを見ている。

 

 


観終わってから、どうしたらいいかわからなくなった。
観ている最中はずっとしんどかったから、なんとなく「助かった……」みたいな気持ちだったけど、よく考えたら何も助かってなくて、ただただぐちゃぐちゃだった。


車で来ていたらから帰ろうと思ってナビをセットしていたら、伊勢湾が近いことに気がついて、海を見ていくことにした。

堤防に車を止めたけど、真っ暗で何も見えなかった。
「な〜んだ、夜の海ってつまんないな」と思って、それでも一応車から降りてみようとドアを開けたら、潮騒がぶわっと身体を包んで、唐突に「ここは海なんだ!!!!」という実感が押し寄せてきた。
スマホのライトで照らすと、堤防の下は波が打ち寄せていて、真っ暗だったけど確かに海だった。

寒すぎてすぐに車に戻って帰路についた。

 

 

全然まとまらないけど、私の『投げられやすい石』体験はこんな感じ。

脚本も買って読んだし、あれなら何度もぐるぐる考えたけど、全然まとまらなかった。
たぶんこれはもう私の自意識との戦いなんだと思う。

 

佐藤と山田と美紀の、あの気まずい逃げ出したいような空気の手触りは、たぶんずっと忘れないと思う。
あと佐藤が書いた絵も。怖すぎて、夢に出そうだなと思った。

そういえば終演後もずっと、佐藤の書いた絵の中の佐藤らしき男がこちらを見ていて、こわくてこわくてたまらなかった。
何があんなに人をぞっとさせるんだろう。

 


つらつら書き始めたらまた収まりがつかなくなりそうなので無理やり終わり!

 

ぎりぎり2020年間に合ったぞ!
よいお年を!

 

 

劇団た組『私は私の家を焼くだけ』を観ただけの話


12月1日(火) @ネスカフェ原宿
劇団た組。『私は私の家を焼くだけ』
作・演出◎加藤拓也/音楽・演奏◎谷川正憲(UNCHAIN


を観た。


いつもだったら舞台の内容を忘れないように事細かに舞台上で起こっていた事実を追いながら書くところだけど、今回はなんとなくそれが嫌なので、できるだけネタバレしない範囲で、自分の思ったこと中心に書こうと思う。


でも、話の筋や展開を知っていても楽しめると思う。
そのときそのときの瞬間に、その場にいないと味わえない感覚が詰まっているような芝居だったから。
少しでも気になった人は、当日券も出るらしいので是非、自分の目で確かめにいってほしい。

 

 

会場は本当にカフェだった。
明るく開放的な店内の一角、階段のようになったスペースに、椅子が四脚置かれている。
それが今回の舞台だった。

 

開演時間になり、キャスト達が客の間を縫うように歩いてくる。
一人は椅子に座り、二人は階段に腰掛け、一人は観客の方を向いて立つ。
その傍らに、ギターを抱えた谷川さんが腰掛け、チューニングを始めた。

 

観客を見渡し、主人公・可奈役の村上穂乃佳さんが、そっと口を開く。

「こんばんはー。あ……チューニング待ち、です。チューニング終わったら、始めます。あの、ここ、外の音が普通に聞こえてきて、電車の音とか、山手線なんで3分に一回ゴーッていうんですけど、そのたびに大きい声出すので……。トラックとかが、『えるおーぶいいー』とか言うのも全部聞こえるんですけど、負けないように、声出します」

そんな前説っぽい語りからそのまま本編へ。


ここはとある地方の喫茶店
しかし、ワールドカップ開催に伴う再開発のため、立ち退きを迫られている。

お父さんはすごくすごく声が小さい。
でも、立ち退きを迫りに来た人に反対してるうちに、声が大きくなった。

この、声ちっさい時期のお父さんがめちゃめちゃおもろかった。
本当に小さい。可奈も正直聞き取れないけど、聞き返すともっと声が小さくなるから、よくわかんなくても「うん」と言うようになってしまったらしい。

一瞬でも意識離したら聞き取れなくなる緊張感。
いや、聞こえなくてもいいんだろうけど。
タイガースが13失点で負けたとか、ヤクルトが最下位とか、そんなような話をしていたような気がするけど、はっきりとは聞こえなかったからわからない。

 

お父さんの小さな声を聞き取ろうと、耳が研ぎ澄まされていく。
小さな声で話されると、逆に聞かなきゃという気持ちになる。

 

冒頭の父の声は本当に本当に小さかったが、他のキャストの声も、決して大きくはなかった。
でも、それがとても心地良かった。
普通の部屋で、普通に喋ってるような、そんなボリューム。

大きな舞台では声が聞き取れないことはイコールでストレスになっちゃうから、このひっそりした声が心地良く響くのは小さな会場ならではかもしれない。
たぶん配信とか映像でもダメだったと思う。目の前にいるからこそ、聞こえそうで聞こえなかったり、それでも聞きたいと耳を傾けたり、そういうのが面白かったんだと思う。

近い距離で静かに語られると、本当に自分だけに語られてる感覚になるというか、身内感がすごい。
すっと心の奥底に入ってくる。

 

冒頭で、外からの音が気になるかもとアナウンスされたが、それがむしろ良かった。

とくに、静かな場面に響く山手線の音。
家を飛び出した可奈が一人で歩いてるところで、電車の音がしたのめちゃめちゃ良かった。

普通の会話のときは全然気にならないけど、ふとした瞬間に外の景色や音が入ってくる。
外界からの情報も、舞台の一部になってる感覚。


昔、大阪で缶の階の舞台を観たときに搬出入口を開けたまま芝居をする演出だったんだけど、真昼の明るい外の景色の中を自転車が横切ったのが、偶然なのか演出なのか本当にわからなくて、舞台とはなんの関係もない人の偶然の日常なんだろうけど舞台の雰囲気ともあっていてめちゃめちゃ良かったことを思い出した。

 

外界からの情報といえば、開演前に飲んだカフェオレもそうだ。
今回はワンドリンク制だったのだが、感染症対策の一環で上演中の飲食は禁じられていた。だからオーダーした飲み物は開演前に飲み切るか、開演後にテイクアウトすることになっており、私は開演前に飲んだ。

劇中で、主人公たちが営む喫茶店に、常連客がやってきて、コーヒーのホットを注文する。続いて主人公の友人が訪れるのだが、「何飲む?」と聞かれた彼女は「いい、喉乾いてないし」と断る。そんな彼女に常連客は「喉乾いてなくても飲むんだよ。そういうもんなんだよ」と語り、結局彼女はコーヒーを頼むという場面があった。
序盤のシーンだったので、口の中にはまだ先程のカフェオレの味が残っていて、「ああ、そういえば私も喉が乾いているかといえば、そうじゃないけど飲んだし、そういうものとして疑ってなかったよな」と思った。
なんていうか、「場」によって行動が規定されることって、舞台上だけの話ではないのだな〜〜〜〜〜と思った。

 

 


不思議な緊張感の中、舞台は進む。
可奈の語りに合わせて、時間や場所が一瞬で飛躍するのも、演劇を観ている満足感が得られてとても良い。

 

そしてラスト、ここで終われば綺麗なのにというところで終わらなかった。わちゃわちゃして変な感じで終わるあれ。突然ラストでふざけた感じになるあれ。
「ここで終わらないの!?……………そんで、このまま終わるの!?」ってなるけど、現実に生きてる人間に取っては終わるとかないわけで、シームレスな舞台だからこそ、そこもシームレスでもいいような気もする。
いやでもやっぱりあそこで終わった方が綺麗だったよ!
でもそれはたぶん嫌なんだろうな〜〜〜〜加藤拓也さん、ベタなの嫌がりそうだし、ベタをベタにやらないところも好きだからわかるけど〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

でも椅子がおうちになるのめっちゃ可愛い!
あの穴なんだろな〜〜〜〜と思ってたから組み上がったときはちょっと感動した。


最後のわちゃわちゃも、本人たちは真面目なところが観ていて可笑しくて、結局人生ってそういうものなのかねとも思う。
必死な人って見ていて面白いし、愛おしい。

 

ところで私は椅子の上に土足で立つのがめちゃめちゃ気になっちゃうんだけど、気にしすぎ?


あと、どうでもいいけど、友達の服が可愛かった。
『真夏の死』で中村さんが着てた衣装にも似てる。
私もああいうスカートほしい。可愛い。ニットの色もめちゃ可愛い。

 


ここまでが、観劇直後にばーっとメモしてたこと。
ここからは、観終わってから丸一日ぼーっと考えてたこと。

ちょっとネタバレある。

 


加藤拓也さんの作品に触れるたびに「この人はどうして、こんなにも人間の心の機微がわかるんだろう」と思う。
しかも、ただ理解してるだけじゃなくて、それを作品の中に落とし込んで再構築しているところがめちゃめちゃすごい。

たとえば、周りに「彼氏は?結婚は?」と聞かれたときの気持ちとか、なんでこんなにわかるんだろうと思う。
まあこういうのに男とか女とかないのかもしれないけど。苦しみは人それぞれで、みんな一緒なのかもしれないけど。
可奈の「彼氏とか結婚とか可愛いとか美人とか、そういうのもううんざりなんですよ」みたいな台詞がめちゃめちゃ刺さったけど、刺さったわりに台詞の細かいところを忘れてしまった。でも、そのときの可奈の表情が忘れられない。

 

「家」というのは一つの居場所なわけで、可奈は自分の居場所を求め続けているのかなとも思った。


友達は、地元を出て東京に行く。
そして東京で出会ったいろいろをプロデュースする人と結婚する。
東京が、その人の隣が、彼女の居場所になる(はずだった)。

結局、彼女は死んでしまうわけだけれど、死んだら焼かれるわけで、『私は私の家を焼くだけ』だけど、みんな結局「死んだら焼かれて骨になるだけ」だなと思ったりもした。

 

茶店は立ち退きを迫られている。
かつて、可奈の父と母が、駆け落ち同然で家を飛び出してきて、二人で一から作り上げた喫茶店
父は頑なに立ち退きを拒む。商店街はどんどんシャッターが閉まっていく。

地元を離れたくないという思いは、たぶん理屈じゃ説明できない。
父にとってのここは生まれ育った土地ではないけれど、でもここに根を下ろして生きていくことを決めたのだ。
そして、同じ場所に、今は娘の可奈も根を下ろしている。
そういう場所は、自分のアイデンティティに関わる。
簡単に切り捨てることはできなくなる。


そういえば加藤さんは、上演にあたってのコメントで「2年前に書いた作品だが、尚今の方が原宿という土地でこれをやっていることに大変意味を感じられる」と述べていた。
原宿駅は、この3月に改装されたばかりのはずだ。
駅というのも、多くの人の日常と思い出が宿る場所である。
実際に私も、数年前、地元の駅のテナントがいつの間にか大きく入れ替わっていてショックを受けた。私が高校時代に通い詰めた本屋も、ミスドも、ロッテリアも、全部なくなってしまっていた。
私自身にとっての原宿は、テレビや雑誌で見る憧れの街ではあるが、実際に行ったのは今回が2回目で、特別思い入れがあるわけではない。でも、青春の思い出が原宿に詰まっている人も多いだろうなと思う。
立ち退きを拒む親子の話を、原宿でやる意味というのは、そういうことなのかなと思ったのだが、どうなのだろうか。

 

 

ところで私は、東京で『私は私の家を焼くだけ』を観ただけなのだが、そのことを大きな声では言えない状況にある。
この時期に東京に行ったなんてことが知れたら、どうなるかわからないから。

前回と同様に、会場以外行かない、誰にも会わない、何も食べないという自分ルールで行ったので、本当に観ただけ。感染リスクは極めて低いと思う。もちろんずっとマスクはしていたし、会話を交わしたのも会場に入るときのスタッフさんとの事務的なやり取りだけだ。

でも、言えない。
観に行ったことは全く後悔してないし、むしろ観に行って本当に良かったと思ってるけど、それを人に話せないのがもどかしい。


早くどこにでも気兼ねなく遊びに行けるようになってほしいけど、まだまだ難しいんだろうな〜〜〜〜

 

とにかく今、私にできることは、手洗いうがいして、栄養のあるもの食べて、あったかくして寝て、体調を崩さないようにするだけ。

 

おやすみなさい。

 

 

 

下鴨車窓『散乱マリン』を観て感じたこと、考えたこと


11月28日(土) @三重県文化会館小ホール
下鴨車窓『散乱マリン』
作・演出:田辺剛

 

を観た。


正直、わけがわからなかった。
「わからなさ」にもいろいろあって、演劇作品はだいたい「わからないけどわかる」とか「わからないからこそ面白い」みたいな感想になることが多いんだけど、今回の『散乱マリン』は久しぶりに「わ、わ、わ、わからーーーーん!!!!!!」となってしまった。

でも、嫌な「わからなさ」ではなかった。
自分にはフィットしなかったけど、ものすごく響く人がどこかに絶対いるだろうなと思ったし、そういう人のことが羨ましいような気もした。
というか私も全然まったくフィットしなかったわけではなくて、ひとつひとつのシーンには惹かれたけど、全体像が上手く見えなかった感じ。


そして私の観に行った回は、たまたまアフタートークのある回だった。
作・演出の田辺剛さんと、名古屋で演劇をやっている小熊ヒデジさんによる、30分ほどのトーク
それによって、かなり理解できた部分もあって、面白く思えてもきたし、なんだか勿体ないような気持ちにもなった。

 


以下、読んでいる人も観た前提でつらつらと書きます。
感想というかレポというか、自分の考えたこと感じたことのメモ。

 


舞台上には積み上げられた自転車。
真っ黒な舞台の中央が一段下がっていて、その四角いスペースの中の芝生に、自転車の部品がばらばらと散らばっている。

三重県文化会館小ホールは、間口に比べてものすごく天井が高くて、その空間に積み上げられた自転車が空中に浮かんでいるようにも、海底に沈んでいるようにも見えた。

 

暗闇の中、ざあざあと響く風の音。
いや、もしかしたら波の音だったかもしれない。

 

最初に現れたのは、盗まれて放置された自転車を取りに来た女と、自転車保管センターの職員の男だ。
二人は、バラバラになって積み上げられた自転車を見て呆然としていた。

大好きな祖母から譲り受けた自転車。
大事に乗って、有料の駐輪場に停めていたのに盗まれてしまった自転車。
そしてどこかに放置されて撤去されて保管されていたはずの自転車。

それが今は、バラバラになって積み上がっている。

必死にパーツを拾い集め始める女の手を、職員の男が引っ張る。

「佐藤さん!逃げますよ!!!!」

 

慌てて走り去る二人。

 

変わりに怒鳴りながら走り込んで来たのは、作業服の男女だった。


「あー!もう!まただよ!カラス!」


どうやら二人はアーティストのアシスタントらしい。
まもなく二人のボスである芸術家も息を切らしながら坂を登ってやってくる。
さっきまで壁に囲まれた自転車保管センターだったはずの場所が、一瞬で山奥の広い原っぱへと変わる。

積み上げられた自転車は、彼らの作品のようだ。
ガイドラインを引き、設計図と見比べながら、細かな部品ひとつひとつを配置していく。

でも、カラスが自転車の部品を持って行ってしまうから、いつまでたっても作品が完成しない。


突然響くカラスの羽ばたきの音が恐ろしかったのは、私がスピーカーの近くに座っていたからだけではないと思う。

 

一方、自転車を盗まれた女は、彼氏を連れて再び保管センターにやってくる。
バラバラになった部品をなんとか探し出すために。

でも、ここらには野犬がうろついている。
職員が慌てて逃げ出したのは、凶暴な野犬が向かってきたかららしい。

 

 

舞台上の、同じ装置が、場面によって全く違う二つのシチュエーションになる。

そしてお互いの姿は、相手は凶暴な野犬や、狡猾なカラスに見えている。

 

 

祖母の形見の自転車を探す女と、その彼氏の、少しトゲのあるやり取り。
女と職員の男がラインを交換するときの、男女のなんだかちょっとくすぐったいような空気。
バラバラになった自転車を諦めきれない女と、それを手伝う二人の男は、温度差はあるものの同じ目的に向かって動いている。なんとか自転車のパーツを集めようと奮闘する。


アシスタントの女は、やたら距離が近くてスキンシップの多い同僚の男に辟易している。
同僚の男は陽気な性格で仕事もきちんとこなすが女への下心が丸出しで気持ち悪い。
アートイベントの事務局の女はあきらかに芸術への理解も興味もやる気もなくて、アーティストの男の苛立ちは募るばかり。
でも、そんなことじゃいつまでたっても作品が完成しないから、とにかく集中して手を動かすしかない。アーティスト達三人も、それぞれの思いはあるが、作品のために奮闘する。


ひとつひとつのシーンにはリアルな手触りがあるのに、二つの場面が交錯すると、一瞬でわかりあえない異質な状況が生み出される。

 

必死で自転車のパーツを集める三人は、アーティスト集団にとってはカラスにしか見えない。
必死で前衛的な作品を組み立てる三人は、自転車を探す人々にとっては野犬にしか見えない。

 

この噛み合わなさが、とてもこわかった。
人は野犬を恐れ、カラスを疎むが、野犬には野犬の、カラスにはカラスの営みがある。
それと同じように、人間同士であっても、理解できないことはたくさんあるが、他人には他人の営みがあるということなんだろうか?

 

唯一、二つの世界を行き来できるのは、狩人のサタケだ。

祖母の自転車を探す三人には、アーティスト達は野犬に見えている。
アーティスト達には、自転車の部品を広い集める三人がカラスに見える。


でも、サタケはサタケのようだった。
サタケはおもちゃのナイフを手渡すが、おもちゃだったはずのナイフは、相手に突き刺した瞬間に本物になる。


サタケは「昔ここは海だった」と繰り返す。


二つの世界が、現実と虚構が入り交じり、今はいつでどこで何の話かわからなくて、すべてがいっしょくたになってそこにあった。

バラバラになって積み上げられた自転車。
その傍らに横たわるそれぞれの世界での主人公。
そして二人を見下ろす人々。

 

そこに至るまでの、ひとつひとつのシーンで描かれてきた状況や心情がリアルだっただけに、ラストに向けて加速していく矛盾したファンタジーが怖かったし、意味がわからなかった。
とくにサタケ、お前はいったい何者なんだ。お前が立っているそこは、どこなんだ。

 

 

 

アフタートークで、田辺剛さんは震災のことを自分なりに書きたかったと言っていた。
津波でさらわれて行方不明になったたくさんの人々。
今もなお海底に眠っている白骨。

でもそれを、そのまま白骨が積み上がっているような描き方をすると、間口が狭まってしまうから、自転車として表現した。


私は、自転車が積み上がったキービジュアルを観て、気になって、観劇を決めた。
これが白骨が積み上がったチラシで「震災の云々」みたいなあらすじだったとしたら、たぶん私は観に来てなかった。
だから、この話はなんだかすとんと自分の中に落ちた。

 

海の底にバラバラになって沈んだ無数の白骨。

もう無理だってわかってても諦めきれなくて、なんとかして探しだして、広い集めて、できることなら元通りにしたいと願う人。

自分の中で区切りをつけるために、死者を弔う儀式をしようとする人。
この作品においては、捨てられる運命の自転車をアート作品にすることが、弔いの儀式だ。


同じものでも、人によって見え方や感じ方が違う。
見る人によって、同じものが全然違って見える。

 

震災をどう捉えるかも、舞台をどう捉えるかも、人によって全然違う。

 

私が『散乱マリン』を観て感じたのは、わかりあえない、噛み合わないことの恐ろしさだ。
そしてそこにどんなに切実な想いがあろうとも、誠実な営みがあろうとも、おもちゃのような嘘のような現実で一瞬にして無に帰してしまう恐ろしさだ。

 

小熊さんは、アフタートークで作品の「透明感、広さ、大きさ」に触れて「真っ暗な中にホログラムが映し出されているような」と表現されていたけど、その感覚も少しわかる気がした。

 

なんだか大きなものの中にいる無力な自分を感じた。


観た直後に「どうしよう、よくわからない」と感じてしまったのも、ある意味で圧倒的な無力感に襲われていたのかもしれない。

 

人間は本質的に「わかりたい」生き物だ(と思う)から、理解の範疇を超えるものに出会うと混乱するんだろうな~と思う。

でも見終わってからも、ふと思い出す光景がたくさんあるから、もしかしたらこれから「ああ、あれは、これか」と思う瞬間が来るのかもしれない。

 

あと、田辺さんが「自分は人よりも場所を描くことに興味がある。首から上ではなく、腰から下。その人の立っている空間、地面、時間、歴史」というような話をされてたのが面白かった。
その話を聞きながら、私は人の内面に意識を向けすぎて空間や足元を疎かにしているかもしれないなと思ったりした。

 

なんだかだんだん何が言いたいのかわからなくなってしまったけど、とりあえずぐちゃぐちゃでも言葉にしておけば何とかなる気がするので、このまま投げておく。


終わります。

 

 

【めちゃめちゃどうでもいい追記】

そもそも、下鴨車窓を知ったのは京都の俳優、中村彩乃さんが下鴨車窓の『微熱ガーデン』という作品に出演したことがきっかけだった。

で、その中村彩乃氏は京都で安住の地という劇団を主宰してるんだけど、そこで脚本や演出をやっている岡本昌也さんが、ハイバイの作品に演出助手として関わっていることを知った。
ハイバイも、ずっと気になっているけど観たことがない劇団だったから、岡本昌也氏のツイートで観に行こうと決めて、行くなら三重かな……と思い、公演情報を調べ始めた。

そしたら、同じ会場で一週間前に下鴨車窓の公演もあることを知り、観に行くことにしたのだ。


何が言いたいかと言うと、自分の好きな人やものが巡りめぐって繋がるの面白いな~という、ただそれだけの話です。


そういえばハイバイ『投げられやすい石』の東京公演では、これまた大好きな劇団た組の加藤拓也さんと俳優の藤原季節さんがアフタートークのゲストに呼ばれていたりして、自分は行けなかったけど勝手にテンションが上がっていた。


ちなみに発端となった『微熱ガーデン』は、ずっと気になっているけど観る機会を逃し続けているので、いつか必ず観たい。

 

本当の本当におしまい。

 

 

 

劇場で『たむらさん』に会ってきた


10月11日(日) @新国立劇場 小劇場
『たむらさん』
作・演出:加藤拓也


を観てきた。
東京で!劇場で!生で!観てきた!!!!


劇場でお芝居を観るのは、2月の劇団た組『誰にも知られず死ぬ朝』以来、実に7ヶ月ぶり!

正直かなり迷った。
この時期に東京行って大丈夫かな……とか、もし何かあったらいろんな人に迷惑かかるな……とか。

でも、観なかったら絶対後悔するし、県外移動=悪いことではないよなと思ったから、行くことにした。
ただし、劇場以外には行かない、食事もしない、友人にも会わないと決めて行った。本当に行って、観て、帰るだけ。

でも、めちゃめちゃ良かった。
本当に本当にめちゃめちゃ良かった。


制限の解除された客席は満員御礼で、役者の一挙一動にざわめくあの空気に胸がいっぱいになって、全然そういうシーンじゃないところで込み上げてきてちょっと泣いた。

何より、舞台の空気をずっと肌で感じられたことが、生の感覚を同じ場で共有できたことが、本当に嬉しかった。

とくに今回の芝居は、橋本淳演ずる"たむらさん"の一人語りが中心で、語りから生まれる空気がすごくて、直接"たむらさん"に会えたことが嬉しかった。

 

以下、ネタバレとか気にせず勝手に語ります。
レポというか感想というか自分語りというか……なあれ。

 

 

舞台奥にはキッチン、その手前に食卓。そして椅子、椅子、椅子、椅子。
舞台上には様々な形の椅子がばらばらと置かれていた。


開演前のアナウンスが流れ、しばらくして豊田エリーがすたすたと歩いてくる。
しかし、客電は落ちない。舞台上の照明も変わらない。
客席が明るい状態のまま、豊田エリーはキッチンに向かう。観客に背を向け、何やら炊事を始める。


そこに、橋本淳がやってくる。
客席を見て、ぺこぺこと軽くお辞儀をしながら。
一言も発せず、中途半端な微笑みを浮かべているだけだが「あっ、どうもどうも、はい、あ、どうもどうも」といった雰囲気だ。

橋本淳が中央に立ち、客席を見渡し、静かに口を開く。

「あの、相談があって、あ、私たむらといいます。あー、で、相談の前にちょっと遡ってお話しすることになるんですけど、あ、僕、今年30になるんですけどね」

口調や内容はうろ覚えだが、だいたいこんな感じ。
演劇っぽいわざとらしさや力みは一切ない。
ただ目の前にいる人に、少しずつ自分のことを話していく。


それだけといえば、それだけだ。


橋本淳=たむらさんが、自分のことを語る。
その後ろではずっと、豊田エリーが無言で台所仕事をしている。


舞台上には二人の役者がいるが、ほとんど橋本淳の一人芝居のような語りが続く。
でも、それがちっとも退屈ではなくて、むしろただそこにいるだけの豊田エリーの存在感も相まって、不思議な緊張感の中、話が進んでいく。

 


たむらさんは話しながら、舞台上の椅子を動かす。
椅子に座ったり、椅子の上に立ったり、椅子を相手に見立てたりしながら、物語は進んでいく。


小さい頃、身体が弱かったこと。
だから水泳とフットサルをやっていたこと。
幼なじみの女の子が苦手だったこと。
小4で明るいキャラに転向したらいじめられたこと。


最初に動かした二脚の椅子の背には、赤いランドセルと黒いランドセルがかかっていた。
いじめの話をしながら、黒いランドセルの中から黄色い塗料を取り出したときには驚いた。

「なんかドラマで見たことある方法でいじめてくるんですよ。トイレの個室に閉じ込めてホースで水ビシャーとか」

そう言いながら、黒いランドセルに黄色い塗料を塗りたくる。
床に垂れた塗料はぞうきんで拭いて、またランドセルの中にしまう。


「でも、親には何も言えなかったですね。心配させたくないっていうか、普通に情けないなと思って。親父がちょっとやんちゃしてたような人で、俺にもやんちゃな方がいいみたいな話してくるような人だったし」


たむらさんは、いや橋本淳さんは、たむらさんになったり、たむらさんの父親になったり、母親になったり、友達になったりと、独白と会話を行き来する。
椅子に座って語る様子は、つい先日のMISHIMA2020『真夏の死』(『summer remind』)とよく似ている*1
独白と会話の移行がスムーズで、でもそれでいてちゃんと切り替わっていて、役者さんすごいな~としみじみ思う。


たむらさんの物語は続く。


たむらさんの両親は離婚する。
母親がホストに貢いでいたことがバレたからだが、根本的な原因は父親の風俗通いにあるらしい。
そして、たむらさんは父親の方についていくことを選ぶ。


たむらさんは地域のサッカーチームに入った。
いじめっこは、そのことも気にくわない。
些細なことで言いがかりをつけてくる。


たむらさんが、いじめっこと取っ組み合いの喧嘩をする場面。
実際の舞台上では、橋本淳が椅子を相手に格闘をしていた。
椅子に床に押し倒され、必死の抵抗で椅子をはねのけ、足をまきつけ、羽交い締めにする。
無言で行われるそれは、本人にとっては緊迫した場面なのに、目の前の景色は妙に可笑しくて、客席からは、さざ波のような笑いが起きる。
その客席から沸き起こる空気の振動は、劇場でないと感じられないもので、私はここでちょっと泣いた。

 

「でもね、死にました」


たむらさんがそう言ったとき、劇場の空気が一瞬止まった。
それまでの雰囲気と「死」という言葉が、あまりにそぐわなくて、私もすぐには意味が理解できなかった。


たむらさんをいじめていた男の子は、小5のときに死ぬ。母親に首を絞められて。
母親は心中のつもりだったが母親は死ねずに生き残り、息子はしっかり首を絞められて死んだ。


「学校でお別れ会をやって、みんな泣いてるんですけど、正直、雰囲気で泣いてた部分もあると思うんですよね。いや、自分も泣いてましたけど。まあでもいじめてたやつがいなくなったわけで、気が楽になった部分もありますね」

 

たむらさんは中学生になる。
坊主だった髪を伸ばして、美容院なんか行っちゃったりして、モテとか意識しちゃったりして。
イキッて「俺は先輩と知り合いなんだぞ」みたいな顔して上の学年の廊下を歩いたりなんかして。
たむらさんの地域のサッカーチームの先輩は、部活の後輩をトイレに呼び出して暴力を振るっていた。
たむらさんは、地域のサッカーチームに所属しているけど、サッカー部ではないから無関係なのに、何も知らずにその現場に入ってしまう。

殴られ、床に倒れる同級生たち。
ばったばったと倒される椅子。

 

たむらさんは高校生になる。

男子校だけど、近くに女子校が二つあって、女子とはすぐに繋がれる。
最初に付き合った彼女はなぜか一人暮らしをしていて、顔がめちゃめちゃタイプで、でも顔が好みすぎるからか、初めても二回目も失敗しちゃって、そのときに「お前とだと勃たねえわ」みたいなこと言って自然消滅。


同級生には、イキる方向性を間違えた変な奴がいる。
煙草を吸うとかじゃなく、野良猫を殺したりしている。


ポケットから取り出したペンで、床に絵を描き始めるたむらさん。
黒い床に、白いインクで、不恰好な猫が描かれる。


私はそれを見ながら気が気じゃなかった。
「いやちょっと待って!? 床に直接ペインティング!? それ落ちるんやろうな????さっきの黄色い塗料みたいにすぐ拭き取るんだよね????????????」と思っていたら、役者がその上で転がり始めたから、「まままままさか油性!? えっ、それポスカとか、そういう!!??!???!?」と、内心めちゃめちゃ動揺していた。
舞台の床って汚しちゃいけないものだと思っていたから、そんなのありかよ~~~~~~~~って感じだったし、これ一日1公演だからゆっくり落とせるけど、複数公演だったら難しいよなぁ……ていうか綺麗に落ちるんだよな?みたいなことばかり考えてしまった。
観劇後、舞台おたくの友人に話したら「同じ会場で血糊ってか赤い塗料ドバァしてたの見たことあるよ」と言われたので、新国立劇場小劇場はかなりそのへん自由みたい。

 

猫の絵を描き終わった橋本淳は、きょろきょろと舞台上を歩き回り、食卓の下に潜る。
このときの橋本淳はたむらさんではない。殺すための野良猫を探している同級生だ。
そして食卓から顔を出し、猫を見つけ、にやにやと近づいて、飛びかかる。

床に描いた猫の上で転げ回る橋本淳が立ち上がると、上着の中にじたばたともがく何かがいる。
実際は片手を服に突っ込んで動かしているだけなのだが、動きがめちゃめちゃリアルだし、何より橋本淳の目が異様で、明らかにヤバい奴だ。

橋本淳=同級生は、長椅子の裏の木箱に猫を入れる。
そしてその上に、もうひとつの木箱を打ち付ける。

ゴン。ゴン。

と響く乾いた音が恐ろしい。
そして、木箱からふわりと浮き上がった白い風船を迷いなく割る。

弾けた風船の、小さな命の欠片が床に散る。

 

息を飲む観客を引き戻すのも、やっぱり橋本淳だ。
橋本淳は一瞬で、軽やかな口調のたむらさんに戻り、そのヤバい同級生はいつの間にか学校を辞めたことを語る。

そして、自分は高校2年生でバスケ部に入ったと続ける。
今度は床にバスケットコートを描きながら。


たむらさんの語る、ゆるいバスケ部のエピソードは、劇団た組の『貴方なら生き残れるわ』*2のバスケ部とよく似ていて、脚本・演出の加藤さんの中にあるバスケ部がこういう姿なんだろうなと思った。

 

そしてバスケ部の友達に連れられて行った風俗店で、たむらさんは自分の母親を見つける。
先にフィニッシュして出口に送られていく友人の隣を歩く、自分の母親。
「いやいやそれどころじゃないんですけど」となりながらも、あえなく吐き出される精。
黒い床に黄色い塗料がピュッと飛び散る。

 

高校を卒業したたむらさんは、広告代理店に就職して、毎日つまんない飲み会やカラオケに連れ回されながらもなんとかやっていく。
そして、クライアントとして出会った女性と付き合い始める。
「この人と結婚すんのかな」と思いながら7年付き合って、彼女の誕生日にプロポーズする。


ようやく背後の女性が登場したことに私は安心した。
最初からずっと舞台上にいるのに全然話に絡んでこない女性の存在が、なんだか怖かったから。
これでようやく現在に話が戻って、今度は夫婦の話になるんだなと安心した。


「で、ここまでが振り返りで、ここからが相談なんですけど」


でも、その安心は一瞬だった。


「自殺したんですよ、彼女」


再び劇場の時が止まる。


どうして?
さっきまでめちゃめちゃ幸せなプロポーズのエピソードとか話してたのに?
じゃあずっといる彼女は、食事を作り終えようとしている彼女は、いったい……?

 

彼女は、結婚式当日に、ウエディングドレスで踏切に飛び込んだ。

 

彼女の遺書には、彼女が、たむらさんの父親と関係を持ったことが綴られていた。
しかも、たむらさんの父親との子を堕胎していたことも。

 

「本当のところどうしてどうなったのか彼女に確かめることはもうできないわけで、同意だとしても嫌ですけど、レイプしたとも思いたくないし、親父は、誘ったのは彼女の方だって言いますけど、そうだとしても普通、息子の嫁と関係もちます? 」

 

そう話すたむらさんの顔はぐちゃぐちゃだった。
後方の席だったから、表情がはっきり見えたわけではなかったけど、そのときのたむらさんがぐちゃぐちゃなのはよくわかった。

 

「悪いのは明らかに親父なんですけど、でも実際のところ親父が何かの罪に問われて法で裁かれるかと言うと、たぶんできないんですよ。まあ、もう周りからいろいろ言われて社会的には裁かれてるんですけど」

「でも、何かしないと気が済まないんですよ。復讐したいのか、更正してほしいのか、日によってそのへんは変わるんですけど、俺の気が済まないんですよ」

 

中央でそう語るたむらさんの後ろでは、食事の準備が整いつつあった。
女が、二人分の皿を食卓に並べる。
少しずつ、しあわせそうな食卓が出来上がる。

 

たむらさんは、ぐちゃぐちゃだった。
私も、何をどうしたらいいのかわからなかった。

たむらさんの父親が悪いのは確かで、でもそれを裁くような法律がないのも確かで、でもここでたむらさん自身が父親を手にかけたらそれはきっと何かの罪に問われて法で裁かれるわけで、でもたとえ罪だとしても、それは父親の犯した罪を考えると軽いような気もしてしまって、さらにたむらさんが味わった苦しみにも釣り合わないような気がして、どうすればいいのかさっぱりわからなくて、結局たむらさんはどうするんだろうというのをただ見守るしかなくて、

 

やんちゃな方が好きな父親。
風俗通いが原因で離婚した両親。
母親に絞め殺されたいじめっこ。
先輩に殴られて、床に倒された友達。
野良猫を殺す同級生。
高校生も3千円で相手してくれる風俗にいた母親。


今までの光景が、全部繋がってよみがえる。

 


遠くから踏切の音が聞こえてくる。
舞台が暗くなり、SSがパカパカと点滅する。

食卓の下に、白い紙が貼られる。
たむらさんはそこに黒いペンで、線路と踏切を描く。

後ろから照明で照らされてスクリーンのようになったそこに、女が横から花嫁の影絵を差し出す。

踏切の警報音が大きくなる。
電車のゴーッという音が近づいてくる。

たむらさんは黒い床に、白いペンで電車の絵を描く。
影絵の花嫁は影絵の踏切の上を跳ね回る。


電車の音はどんどん大きくなる。

たむらさんの感情に飲み込まれる。
あまりに大きすぎる何かに触れて、ここでも涙が出た。


これはたむらさんの頭の中だ。
ずっと電車の音が鳴り止まない、たむらさんの頭の中。
様々な考えがごうごうと渦巻く、たむらさんの頭の中。

 

 

音が止み、暗転し、ほどなくして食卓のあたりが薄ぼんやりと明転する。

席につき、食事をする夫婦。


「やっぱりさ、復讐かな」
「いや、更正かもよ」


食事を口に運びながら、夫婦は言葉を交わす。


「いや、俺は復讐だと思うな」
「ええー、そうかなぁ」
「たむらさんはどうなんだろうね」


さっきまで"たむらさん"だった男が、他人事のように"たむらさん"の話をする。

いや、彼は、たむらさんではない。
本当に他人なのだ。

じゃあ、さっきのたむらさんは?


「てかさ、実家、犬飼った」
「あ、結局? 何?」
「柴。でもブサイクなの」
「柴でブサイクとかある?」
「ちょっと待って写真見せる」
「……ほんとだ、ちょっとブサイク入ってんね」
「でしょー?」
「名前は?」
アチャコ。で、アチャって呼んでるんだって」
「何それ、アチャでいいじゃん」
「ね、私もそれ送った」

 

他愛ない、しあわせそうな会話。
夫婦のなんてことない日常。

たむらさんが、手に入れる直前で失ったもの。


会話に、少しずつ雑音が混じる。

遠くてよく見えなかったけど、流しの水が落ちっぱなしになっているような気がした。

少しずつ大きくなる水の音。
他愛ない夫婦の会話。

 

 

 

いったい何だったんだろう。
たむらさんは、誰なんだろう。

観終わった後、そんなことを考えた。

 

夫婦の会話からすると、たむらさんはどうやら父親を手にかけたらしい。
それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつかない。

最後に父親を殺して地面に埋めた『今日もわからないうちに』を思い出したりもした*3

 

何が正解なのかも、何が本当なのかもよくわからなくて、でもめちゃめちゃ面白くて、終わってからもずっとぐるぐる考えてしまう。


加藤拓也作品は、この少しずつ暴かれていくような感覚が恐ろしいし、面白い。

あと橋本淳さんが本当に本当にすごかった。
あの人はいったい何者なんだ。

橋本淳と豊田エリーは、加藤拓也さんの『在庫に限りはありますが』*4にも出演していたが、そのときともまた全然印象が違った。

 


さっぱりまとまらないし、何の答えも出ないけど、演劇の面白さを全身で浴びた気がする。


劇場で、たむらさんに会えてよかった。

終わります。

 

 

 

 

 

三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」 『真夏の死』(『summer remind』) 『斑女』近代能楽集より に狂わされた話


9月27日(日) 16:00~
三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」
『真夏の死』(『summer remind』)
『斑女』近代能楽集より


を配信で観た。


前の週の第一弾『橋づくし』『(死なない)憂国』が期待以上に良くて、かなりハードル上がってたけど、今回の第二弾では全然違う方向から突き刺されてまたはっとした。

第一弾が"動"の芝居なら、第二弾のは"静"の芝居という印象。
『橋づくし』と『(死なない)憂国』はどちらも音の使い方や言葉をリズムに乗せていくのが気持ち良くて、流れる音と言葉に登場人物の感情が合わさって濁流になって、気がついたらめちゃめちゃに殴られてる……みたいな感覚だった。
今回の『真夏の死』(『summer remind』)と『班女』は、どちらも沈黙と静寂の見せ方が本当に上手くて、静謐な空気の中に滲む狂気が美しくて、恐ろしくて、鋭利な刃物で切り裂かれるような、突き刺されるような、そんな気持ちになった。


公演は現在アーカイブ配信がされてるので、未見の人は是非こちらからどうぞ。*1
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2065101
【販売期間:2020/10/11(日) 20:00まで】

 

ちなみに第一弾の感想はここ。

 

 

というわけで、また個人的な感想を書き留めておきたいと思う。
ネタバレとか一切気にせずに書くレポというか覚書というか自分語りというか……な何か。

 

 


『真夏の死』(『summer remind』)
作・演出:加藤拓也
出演:中村ゆり、平原テツ


舞台上には二脚の椅子と、男と女。
ノローグ中心のシンプルな語りで物語は進んでいく。


主人公は、海の事故で義理の妹と二人の子どもを亡くした女だ。
女と、その夫の語りが、物語の中心となる。


二人とも話し方がとても自然で、第三者に向けて話している場面でも変な気負いのようなものが全くなくて、本当にただ"その人"としてそこにいた。
語りから会話への切り替えも流れるようで、時間や場所の経過がすっと入ってくる。

二人は基本的に椅子から動かないので、最初は正直ちょっと退屈だった。画面がつまらないというか、淡々と進んでいってしまうというか……。
それがいつの間にか引き込まれていたのは、二人の吐露する心情が真に迫るものだったからだ。
どちらの気持ちも、よくわかる。複雑な気持ちが痛いほど伝わってくる。

 

女は、義理の妹と子どもの葬式で、来る人みんなに「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。
自分がついていながら、こんなことになったから。
自分がちゃんと子どもたちを見ていれば、こんなことにはならなかったかもしれないから。

そして、みんなは慰めの言葉をかけてくれるけど、本当は「お前のせいだ」と思っているんでしょう? と思っている。


自分を責める気持ち。
謝らずにはいられないような気持ち。
それは、他人がそれを望むからなのか?
己の内なる自己ならぬ、内なる他者がそれを言う。

 

女は、義理の両親の前で「申し訳ありませんでした」と泣き崩れる。
娘と孫をいっぺんに失った義理の両親の前で、ただ泣くことしかできない。そのことを悔しく思いながらも、ただ泣くことしかできない。


何人死んでも泣くしかできない。
怒っても泣いちゃうし、泣くだけじゃ悲しみの量とか大きさとか何も表せない。
ていうか泣くって何なんだ?

私にとっての「泣く」は、感情が溢れる瞬間だ。
その感情に名前はない。
一言では表せない何かが込み上げてきて、目から水滴となって落ちる。
その気持ちが何だったのかがわかるのはだいたい泣き止んでからで、最後まで結局わからないこともある。

だから、女が泣きながら「私の背中をさする手は私の気持ちをどこまでわかってるんだろう」と思っているのは、なんだかわかる気がした。

 


夫は、自らも妹と子どもを亡くした悲しみに苛まれながら、なんとか日常を取り戻そうとする。
しかし妻は、悲しみを忘れることを、自分の心の傷が癒えることを恐れる。


不幸な人はいつまで不幸でいなきゃいけないんだろう?
忘れることは悪いことなのか?
時間が一番の薬ともいうけれど、不幸なことを忘れて幸せになることは罪なのか?


いつまで悲しめばいいんだろう……というのも、なんとなくわかる。
親しい人を亡くしても、ご飯は美味しいし、ペットは可愛い。
でも、それを表に出すのはなんとなく憚られるような気がしてしまう。

もっと小さなところだと、Twitterで悲しいニュースを見たときも、思ったりする。
楽しいこと呟くためにTwitterを開いて、悲しいニュースを見ると、どうしたらいいかわからなくなる。

 


妻はライブに行くようになる。
子供の思い出話をするようになる。

自分を罰するために。
辛い気持ちを忘れないように。
徹底的に反省するために。

「楽しめば楽しむほど我に返ったときの反省が大きくていい」と語る女。
でも夫はそんな妻を見て「向き合おうとしてるんだ、立ち直ろうとしてるんだ」と喜ぶ。
致命的なすれ違い。


そうして夫婦は新しい命を授かる。
妊娠がわかったのは、二人の子どもを亡くした半年後だ。

新しい命が自分への戒めになると思っている妻。
素直に喜んだ夫。

ただ二人ともに共通しているのは、子供を亡くしたばかりの夫婦がすぐに新しい子を作るのはどうなんだろうと気にしていること。

 


そして、いよいよ出産のとき。


いきむ女。大きく膨らむ床。
女の苦しく切ない声と共に、床がどんどん膨らみ、椅子にしがみつく女を覆い隠す。


舞台の床にビニールのようなものが敷かれていて、その中に空気が入っていくのだが、これには本当に驚いた。
しかも、よく見ると床が膨らむたびに、さらさらと砂が押しのけられていく。砂!舞台上に砂!!!!
ちなみにぱっと目に入る舞台装置は二脚の椅子だけなのだが、この椅子の高さが変わるのにも驚いた。脚がするするとせり上がり、数メートルの高さになるのだ。ライブの場面ではぴかぴかと光ってもいた。
このシンプルだが、少し奇妙な舞台装置も、夫婦のいびつさを象徴しているのだろうか。


夫婦の間に満ちていた不穏な空気が、妊婦の腹の中でどんどん膨らんでいく。
足元から膨らみ、女を覆い隠すまでになる。
そしてそれがぷつりと弾け、産声と共に、へその緒が溢れ出す。


グロテスクな臓物。
新しく生まれた娘。


男は、慌てて駆け寄り、その肌色の物体を手繰り寄せ、持ち上げ、へその緒を切る。
そしていとおしそうに、自分の身体に巻き付け、抱き上げ、あやす。


夫にとっては希望の象徴。
女にとってはそれは戒め。

 


幸せそうな夫の横で、女は語る。

物語の中の事件は、登場人物にとって何らかの意味がある。
じゃあ、自分達の身に起こったことは?
私たちの子どもが死んだのは、何か私たちの成長に繋がるの?
海に行ったら子どもから目を離しちゃいけませんって教訓? でもそんなのしょぼすぎない?
何かの意味があったの?
でも物語の中の事件も登場人物にとっては意味がなくてもいいんじゃないか?

 


そして、事故から二年後の夏。
新しく生まれた娘が一歳の夏。


女は、あの海に行きたがる。
でも夫はそれに反対する。
夫は、また誰かを失うことを恐れている。


でも、結局行くことになる。
あのときと同じ旅館に泊まることにする。


女は、"戒め"を抱き上げて海へ行く。
話しながら青い布を引っ張って歩き、そこが海岸線になる。

夫は浜辺を歩く妻を、旅館の窓から見ている。
するすると高く上がった椅子の上で、煙草を吸いながら。


女は、浜辺を歩いているうちに、自分の中の子どもたちの記憶がまだ失われていないことに気がつく。


楽しかった日々の、他愛のない日常の記憶。

振り返った女の、中村ゆりの顔が、なんともいえない表情でどきりとした。


女は浜辺を歩く。
波の音が響く。

舞台上では青いバランスボールが跳ね回る。
潮騒が形を持ったら、たぶんこんな風なんだと思う。


女は、海を見つめる。
夫は、女を見ている。

波の音がふつりと途切れる。

 

あ。

 

と、思った瞬間、女は抱えていた"戒"めを海に投げ捨てた。

波にさらわれていくグロテスクな臓物。

でも、それは、グロテスクな臓物にしか見えないけど、それは、

波にさらわれていく、一歳になった娘。

 

私は画面の前で動けなかった。
一瞬の暗転の後、役者が並んで礼をして、観客が拍手を送り、MISHIMAのロゴが回り始める。


加藤拓也さんは、静寂を作るのが上手すぎる。
でも、その静寂をラストに持ってこられると、止まった心臓が動き出すタイミングを失ってしまう。

そしてこうして、物語自体を投げ捨てるような唐突な終わり方も、劇団た組の舞台で観てきたはずなのに、今回はとくに衝撃的だった。


女は、娘を海に投げ捨てた。

それは、戒めを捨てたということか?
もしくは新たな戒めを自分に課した?


どういうことか、わからない。
わからないけど、驚くほど美しい。
ひたひたと満ちていた女の狂気がこんな形で解放されるとは思わなかった。
それまでの夫婦の感情はどちらもなんとなくわかるなと思いながら観ていたからこそ、最後にこんな形で裏切られるとは思わなかった。


賛否両論あるだろうなと思うけど、私はすごく好き。
というか近代文学の終わり方ってこういう「ふつっ」と暗転するようなものが多い気がして、そういうのも含めてすごく好き。

加藤拓也さんのこういう突き放すような終わり方を観るたびに、坂口安吾の『文学のふるさと』に書かれてることってこういうことかなと思う。
このラストに対して「なんでや!!!!!!!!!!!!」って気持ちの収まりがつかない人は、読んでみてもいいかも。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

 

 

(閑話休題)

というわけで、『真夏の死』(『summer remind』)のラストが衝撃的すぎて呆然としていたのが、27日の夜。
続けて『班女』を観るつもりだったが、余韻がすごすぎてとてもそんな気持ちではなかったので、その夜はそのまま寝た。

そして、配信終了間際の29日深夜に、駆け込みで『班女』を観て、感想をまとめたいなと思っているうちに今日になってしまった。

以上、一週間も経ってから感想をあげる言い訳おわり。

 

 

『班女』近代能楽集より
演出:熊林弘高
出演:麻美れい、橋本愛中村蒼


今回の「MISHIMA2020」で、この作品だけは三島の戯曲そのものだ。
だから、舞台設定や言葉遣いにはやや時代を感じる。

でも、それも含めて最初から最後までずっと美しかった。

 


いつまでたっても現れない男を待ち続ける女、花子。
花子は毎日、駅のベンチに腰かけ、電車がくるたびに降りてくる男の顔を確かめるが、愛したあの人はどこにもいない。
待ち続けるうちに、女はついに気が狂ってしまった。


そんな記事が、新聞に載った。

それを読んで気が狂いそうになったのは、画家の実子だ。

実子は、美しい狂女・花子を自宅に住まわせている。
花子を描いた絵だけは展覧会に出してない。

実子が恐れるのは、新聞記事を見た男が、花子のところにやって来ることだ。
そして花子が、自分のもとを去ることだ。


「どこか遠くに旅に出よう。追い詰められたら死ねばいい」

そう実子は言う。

実子は花子の美しさに見入られている。
花子の美しさを愛している。
花子を、花子の愛した男・吉雄と会わせたくない。


実子にとって、吉雄は恋敵なのだ。

 

実際、花子は美しい。
花子を演じる橋本愛の顔が、本当に整っていて、つんと尖った鼻が人形のようで、実子がこの美しさに狂うのもわかる気がした。


花子が美しいのは姿形だけではない。
彼女は一途に愛した男を待ち続ける。
心を狂わせ執着する姿までも美しい。


心を狂わせ執着する姿が美しいのは、実子も同じだ。

「その人の心はあたしの心」
「愛されない人間」

 


そして、実子が恐れていたように、新聞記事を見た吉雄が、花子を訪ねてくる。

しかし、吉雄のことを花子は認識できない。

交換した扇を示しても、名を呼んでも、花子は「吉雄さんのお顔ではない」と繰り返す。

扇を投げ捨て帰っていく吉雄
橋を落とす実子。

「橋」と書いたが、そう呼んでいいのかはよくわからない。
舞台前方、エプロンの中が部屋のようになっていた。
ミュージカルだとオーケストラがいたりする場所だ。
冒頭、実子はそのエプロンから現れる。
でも、そこは会場の観客からは見えないと思うんだけど、どうなってたんだろう?

そして吉雄は、エプロンの前方をつたって、橋のようなものを渡り、花子に会いに来る。

それを、最後に実子は落とすのだ。
もう二度と邪魔者が現れないように。


そうして「私は待つ」と言う花子。
「私は何も待たない」と言う実子。


「こうして今日も日が暮れるのね」
「素晴らしい人生」


二人の、二人だけの人生が続く。

 

鬼気迫る情念、執念、狂気。

美しい。
構図が美しい。
顔が美しい。


『真夏の死』では忍び寄る狂気に自分まで侵食される気がしたが、『班女』は美しい女の孤独な狂気に指一本触れさせてもらえなかった。

ただただ、美しかった。

 

 


この二つの作品は、どちらも静かな狂気に満ちた美しい舞台だったけれど、その性質は全然違っていて、それぞれ面白かった。

第一弾も含め、三島の作品を下敷きに現代のいろんな演出家のお芝居が観れて本当にものすごく楽しかったから、またこういう企画があるといいなと思う。
三島の原作もちゃんと読みたくなった。というか読んでから観たらまた違う感想になる気もする。

 

相変わらずまとまりのない文章になってしまったけど、自分の考えを書いたから、これでようやく他の人の感想を読みに行ける。
あと、特典付アーカイブで加藤拓也さんのインタビューと脚本が見れるらしいので、それも楽しみ!

私はもともと加藤拓也さんのファンでこの企画を知ったけど、これで初めて加藤拓也作品を観た人がどんな感想を抱いているのか正直めちゃめちゃ気になっている。
もし逆に加藤拓也ファンの感想を読みたくてここにたどり着いた人がいれば、2018年以降の加藤拓也作品はだいたい観劇して感想書いてるので適当に漁っていってください。


もしかしたら、他の人の感想読んだり、加藤拓也さんのインタビュー見たりしたら、また何かを書きたくなるかもしれないけど、とりあえず終わります!

 

*1:脚本や演出家のインタビューが観られるスペシャル特典付もあるみたいですが、私はこれを書き終わったら観る。
自分の感想をまとめる前に余計な情報をいれたくないタイプのめんどくさいおたくなので。

三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」『橋づくし』『(死なない)憂国』にめちゃめちゃにされた記録


9月21日(月) 20:00~
三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」
『橋づくし』『(死なない)憂国


を配信で観た。


率直に言うと、事前のイメージと全然違った。
なんだか勝手に堅苦しい戯曲を想像してしまっていたけど、実際は現代的で、挑戦的で、なんていうか「こういうのを"アバンギャルド"って言うのかな」と思った。
そう、今は2020年。三島の自決から50年、コロナですべてがめちゃめちゃになった世界。


舞台自体もすごく良かったし、配信はカメラワークも凝っていて、配信ならではの面白さと演劇の良さが両方詰まっていたから、未見の人は是非アーカイブを観てほしい。
ていうかこれで3000円くらいって安すぎないか? これが家で観られるの最高すぎないか? コロナじゃなければ配信しなかったかもと思うと、コロナってやつも悪くないかもなと思えてくる。いいから観てくれ。


アーカイブ配信チケットはこちら
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2065101
【2020/9/23(水) 23:59まで】

 


さて、ここからは個人的な感想。
ネタバレとか一切気にせずに思い付いたまま書く覚書というか自分語りというか……な何か。

 


『橋づくし』
作・演出:野上絹代
出演:伊原六花井桁弘恵野口かおる高橋努

舞台上には不思議な石の土台のようなもの。
他には何もない真っ黒な舞台上に、賑やかに話しながら女が二人、三人、四人現れる。

甲高い声と、テンポの早い会話で、何を言っているかさっぱり聞き取れない。

そして四人が静かに並んで立ち止まる。


「では、始めましょう」


中心に立った女、小弓さんが先ほどとは打って変わった落ち着いた声で宣言すると、舞台は宵闇に包まれ、「それ」が始まった。


花柳界では古くから伝わる願掛け。
陰暦の8月15日、何も話さず、誰からも話しかけられず、一度通った道は再び通らずに、七つの橋を渡りきる。


闇夜に響く下駄の音。

四人はひたすら無言で歩き続ける。

それぞれに叶えたい願いを胸に。

 

ストップモーションで固まる一団から、満佐子がひらりと抜け出す。

そして、バレエのような、コンテンポラリーダンスのような動きで舞いながら、この状況と自らの心情についてを語る。


音声は録音だ。
その間も、他の三人は歩き続ける。


満佐子が隊列に戻ると、今度は小弓が同じようにひらりと舞い始める。
荒い息づかいと率直な動きがコミカルでチャーミング。
ていうかちょっと喋ってる。それはありなのか!?

そして、かな子も同じように舞いながら自らの心情を語る。
声はやや棒読みだが、ダンスは非常に表情豊か。

 

無言で歩くところを演劇にするってどうやるんだろうと思っていたから、なるほどそうきたか~~~~~と思った。
状況説明は歩きながらト書きを読むように台詞を並べるのもかっこいい。

 


そして、用心棒としてつけられた女中のみなだけ心情が一切語られない。ただただ、静かに三人の後をついて歩く。
みなを演じるのは高橋努さんだ。他の三人とは明らかに体格が違って、得体の知れなさが増す。

 


役者の身体表現もすごかったが、演出もすごかった。

 

最初は何だろうと思っていた舞台上の土台のようなものは、棒がさされ、帯が渡され、あっという間に橋の欄干になった。

舞台装置は非常にシンプルなのに、映像を使った演出や、帯のかけ方で表情を変える橋の欄干や、盆を回す仕掛けで、全然飽きない。

 

そして願掛けは、かな子が腹痛で脱落し、続いて小弓も知り合いに話しかけられ失敗する。
残されたのは、満佐子とみな。

だんだんみなのことが忌々しくなってくる満佐子。
ただでさえ大きなみなの身体が、照明に照らされ、大きな大きなシルエットとなって満佐子に襲いかかるようだ。

 

願いって何だろう。
願掛けをしてまで叶えたい願いって、何なんだろう。
彼女たちは、いったい本当は何を求めているんだろう。

 

そしてたどり着いた最後の橋で、満佐子も警官に呼び止められ、願掛けは後少しのところで失敗する。

最後まで無言を貫いて橋を渡りきったのは、ついてきただけのはずの、みなだけだ。


走り去るみな。
橋の真ん中で慟哭する満佐子。

 


流れ出すアップテンポなミュージック!!!!

ついさっきまで三味線だったのに!?
いきなり何!?

と思う間もなく、着物を脱ぎ捨て踊り出す三人の女!!!!!!


リゾートなファッションでグラス片手に揺れる三人の女を見ながら、私はなぜか泣きそうだった。
さっきまで真剣な表情で、己の願いを叶えるために奔走していた女たちが、そしてそれが叶わなかった女たちが、今は笑顔で踊っている。


願掛けは失敗したが、どうやら三人の女の願いはそれぞれ少し違った形で叶ったらしい。

「みなったら、いったい何を願ったのかしら」
「ほんとよねぇ、なーんにも教えてくれないんだもの」
「憎らしいわね、みなって本当に、憎らしい! 」

そう言って笑う女たちは本当に幸せそうで、みなが願ったのは三人の幸せだったのかもしれないなとぼんやり思った。

 

もしかすると、みなは「皆」で、それは私なのかもしれない。

私は、最初は物珍しい仕掛けや演出に感心しながら観ていたが、いつの間にか三人の女たちの願掛けが成功することを願っていた。
だから、最後の橋でみなだけが駆け抜けたとき、みなを恨んだ。満佐子の願掛けが失敗したのは、みなのせいだとすら思えた。

でも、もしかしたら三人が最後に笑えたのはみなのおかげかもしれない。
だとしたら、みなは、「皆」の幸せを願った「私」だ。

 

最後に全員が現代のファッションでパーティーに興じていたことで、なんだか彼女たちが身近に感じた。
今からずっと昔の女たちの切なる願いが、今を生きる私たちに通ずるもののように思えた。
「女の幸せ」の形は変わっても、「幸せになりたい」という思いは昔も今も変わらないんだろうなと思う。


観終わった後は、不思議と爽やかな気持ちになった。

 

 

(転換)

アゲアゲなミュージックなまま、役者たちが礼をして、躍りながらハケて、照明が変わる。


「(死なない)憂国 まで あと10分」というテロップが出て、暗転するかと思ったら、なんとカメラが回ったまま転換し始めてびっくりした。

大勢のスタッフが、『橋づくし』の装置を片付け、『(死なない)憂国』の装置をセッティングする。


これって普段は緞帳おろしてやることじゃないのか!?
それを丸々見せてもらっていいのか!?
やったーーーーーーーーーーーーー!!!!!!


なんだか対バンライブの転換時間みたいだな~
私あれ見るの好きなんだよな~

とか思いながら観ていたら、次の『(死なない)憂国』でライブが重要なモチーフとして出て来て、それもびっくりしたりした。

まさかそこまで含めてこの演出なのか!!?!

 

そうこうしている間に10分はあっという間に過ぎ、次の作品が始まった。

 


『(死なない)憂国
作・演出:長久允
出演:東出昌大、菅原小春


流れ始める映像。
バルコニーで演説をする三島由紀夫
そして、運び出される棺。


映像の前に、真っ白な服を着た男が現れる。

ハンドマイク片手に、自らの心情をぶちまける。

「2020年。つまり、あれから50年も経った。なのに、全然わからないんだ。あなたが守ろうとしてた日本って何なのか!」

 

そこからは濁流のような言葉と音楽とエネルギーに飲み込まれた。
画面から流れ出す熱がすごすぎて、ぐちゃぐちゃになった。
ぐちゃぐちゃのまま書いたら下手くそなレポみたいになってしまったけど、なんかもうここからどうにもできないからそのまま載せる。

 

満員のライブハウス、もみくちゃになる観客の上を人間が転がる。


「俺たちは!俺たちは!!!!」


主人公は、警官をしている男、信二。
ライブハウスに行くのが生き甲斐で、ライブハウスで出会った麗子と去年の12月に籍を入れた。


4月26日。
新型コロナウイルスの流行で緊急事態宣言が出された時期。
新宿ロフトに立て籠り、躍り狂う仲間たち。
それに呼ばれなかった、信二。

 

憂国だよ!三島の憂国と一緒だよ!何やってるんだよ、あいつら!!!!」

 

「俺たちはここで躍り続ける」と宣言し、立て籠る仲間たち。
それに呼ばれていない、むしろそれを取り締まりに行かなきゃならない信二。

 

ライブハウスに行かないと生きていけない。


濃厚接触は避けられない空間。
濃厚接触こそが、ライブ……生きる。
ライブハウスの「ライブ」は「生きる」って意味と同義で、今はそこに行ったがゆえに「デッド」しちゃう「デッドハウス」になってたとしても、死んだように生きるくらいならそこで躍り続けたい。


信二はソファの上に立ち上がって叫ぶ。


信二も麗子も、ずっとハンドマイクだ。
ライブのMCみたいに、時には支離滅裂なことを、マイクに向かって叫ぶ。


「三島ならどうする? いや、結果は出ている……『憂国』に書いてあるんだ。『憂国』の主人公は、2.26事件の仲間たちを討伐するくらいなら、と……」

「……そいつ、そいつはどうしたの?」

「じ、自決をした……切腹をして腸をぶちまけて、喉を切り裂いて、自決をしたんだ…………でも俺は、でも俺はもう正常な判断ができないぃいいコロナでぇええええ…………」

 

「俺は、裏切るよ……自衛だ…………自分を守るためにさ、あいつらを、裏切るよ……………………ロフト行ってくる~」

 

 

激しく揺さぶられ、引き裂かれそうになる信二の感情。

そこに重なるぐちゃぐちゃになりながら盛り上がるライブ映像。


普段の信二は、仕事のストレスを爆音とモッシュで癒しているんだろうなと思う。
ライブハウスの密な空間で、汗に濡れた身体をぶつけ合う気持ち良さを、私も知っている。


信二は、フェイスシールドをつけ、日本刀で、そのライブ映像が映し出された幕を切り裂く。

 

「武士ってこんな気持ちなのかな……」

仲間を取り締まる仕事から帰り、そんな風にうずくまる信二を麗子は一蹴する。

「武士ってんじゃねーーーよ!!!!『悦』じゃん!!!!!!!!」


「俺なんか……今すぐ消えた方がいい…………」と繰り返し呟く信二を抱き締め、麗子は「情緒……情緒、情緒…………」と囁く。


それはまるで、傷ついた自分自身を抱き締めているようだった。
ていうか私もメンタルぼろぼろでマイナス思考しかできないとき、誰かに「情緒情緒」って抱き締めてほしい。

 


信二は腹に日本刀を突き刺す。
憂国』の、自決をする場面を朗読しながら。

 

そんな信二を、麗子は救う。
2020年の『(死なない)憂国』の麗子は、泣くように笑いながら、あるいは笑うように泣きながら、氷結のぬるま湯割りで、信二を現実に引き戻す。


「酒の度数は上がれば上がるほど人を幸せにするんだぞ!氷結はそんじょそこらの宗教よりも人を救ってると思うのね。でね、お湯で割るとヤバいって気づいてさ……ぬるま湯で割るんだよ!氷結ぬるま湯割り!信二、飲もうよ……氷結ぬるま湯割り……」


そうして信二は息を吹き返す。
概念の刀で貫いた身体が、氷結ぬるま湯割りで甦る。

 

ここまでが、4月26日の話。

ここからは、9月21日の話。

 

半年後も、氷結に救われながら、信二と麗子は生きている。
そして再び信二のスマホが鳴る。


あのとき取り締まった、新宿ロフトの仲間から電話がかかってくる。

ライブハウスでイベントやるから来いよと誘われて、二人は袖を通してなかった結婚式の衣装に身を包み、ライブハウスへと向かう。

 


物理的には死んでないから!
まだ生きてるから!
ゾンビみたいになっちゃってるけど、まだ物理的には死んでないから!!!!

 

 

流れ出した音楽が「生きてるって何だろう 生きてるってなあに」と繰り返す。
ライブハウスの写真が映し出される。

 

そこに写る笑顔の人々と、チェック柄のタキシードに身を包んで叫ぶ信二と、チェック柄のドレスに身を包んで躍り狂う麗子を見ながら、私はまた泣きそうだった。

 

「生きてるって実感する場所」という意味では、ライブハウスも劇場も、たぶん一緒で、ていうか人それぞれきっとそういう場所があって、でも実感できなくても私たちは生きてるって事実は変わらなくて…………

コロナで、ずっと家にいなきゃならなくて、大好きなものがなくなっていくのを見ながら、どうすることもできなくて、でも、私たちは生きてて…………


なんか、上手く言えないけど、死んでる場合じゃねーーーーーーーーーーーーーみたいな気持ちになった。

 

感想がぐちゃぐちゃすぎるけど、綺麗なものに存在意義はないって麗子さんも言ってたし、作中でも汚ない×汚ないでむしろ良いみたいなことも言ってたし?

 


でもなんていうか、普段は言えないような気持ちを剥き出しにできる場所が、やっぱり必要だよなと思った。

私にとってはライブハウスも、演劇も、それができる場所だ。

 


あと、演劇って、自由でいいんだよなというのも、思った。
『橋づくし』も『(死なない)憂国』も、今まで見たことないような面白い演出がいろいろあって、でもそれが小手先だけのテクニックじゃなくてちゃんと意義のあるものになっていて、ここまでのことをしても受け止めてくれる「演劇」って空間はなんてあたたかいんだろうと思った。

現実世界じゃあり得ないようなことも、舞台上ではすんなり受け入れられて、でもそれは生身の人間がライブで演じるという不自由な制約があるからこそ成り立つ自由さでもあって…………演劇って面白いな、ほんとに!!!!!!!!

 


ていうかそもそも私は加藤拓也さんが作・演出をするということでこの企画を知って、今週は「まあせっかくだし観とくか」くらいの気持ちだったけど、本当に本当に観て良かった。

来週も楽しみ!!!!!!!!!!!!!!!!


相変わらずさっぱりまとまらないけど、終わります!

 

 

※2020/10/04 追記:

第二弾の感想も書きました。